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それでも愛してると言いたかった  作者: 和菜
四章 穴ぐらの少女
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呪詛のような夜

 

「それじゃあ、また」

「はい。――くれぐれも気を付けて。頼んだぞ」

「はい」


 此木家の車に乗り込む直前、聖人と絢子はすっかりお決まりになった挨拶を交わすと、どちらからともなく、軽く触れるだけのキスをした。

 後部座席のドアを開けて絢子が乗り込むのを待っていた運転手は、二人の親密なやり取りを見ても何も動じない。

 絢子が此木の屋敷に初めて宿泊し、朝の送迎を仰せつかった日は訳もなく少々緊張した、けれど。

 そうか、坊ちゃまもそういう歳になったんだよな、と心の何処かで感慨深くなりながら。

 車が発進する寸前まで笑顔で手を振る絢子に手を振り返し、屋敷の門を出て行くところまで見届けると、聖人は浮かべていた笑みを瞬時に消して屋内へ戻った。

 簡単にシャワーを浴び、部屋に戻るとすぐにきちんと身なりを整えて、大学へ行く支度をする。

 今日は二限目からだから朝は割とゆっくりだった。

 カーテンの付いたベッドの上には、少し乱れた布団と、二着のバスローブが無造作に置かれている。

 結局あの後、部屋に戻ってからも彼女を抱き通した。

 すっかり見慣れてしまった生々しい朝。

 自然と脳裏に、昨夜の情事が思い浮かぶ。

 初めて身体を重ねてからもう暫く経った。

 その度に聖人は己の中の男を、絢子は女を炙り出されていく。

 もっと、とせがみながら、駄目、と恥じらい、その矛盾の中で足を開く姿は、彼の中の情欲を悪戯に刺激する。

 譫言のように愛を囁く唇を塞げば、代わりに接合部が聖人をより深く欲して来る。

 部屋のあちこちに残る、“恋人と過ごした夜”の余韻。

 ――けれど今、聖人の心に残っているのは、熱くて甘い夜の残り火ではなく。

 こんな朝を迎える度に降り積もっていく絶望と空虚さだけ、だった。


「……、」


 原因は、分かっている。

 分かりたくはなかった、けれど。


「……適当に相手をして、適当な所で結婚して、適当な時期に子を産んで……そんな、籠の鳥のまま……機械か人形のような男のままでいられたら、良かったのにな……」


 鏡の前に立ち、首筋に残る赤い痕を撫でながら、聖人は酷く低い声で呟いた。

 絢子のちょうど同じ場所に、同じ赤い痕がある。

 見えてしまうから恥ずかしい、と言いながら恍惚な目をする絢子に、「だからいいのではないか」と口許を歪めて、噛み付いた。

 自分にも付けろと言って彼女の頭を引き寄せた。

 絢子は、その赤い痕を何かの印のように感じているかもしれないけれど、聖人にとってそれは……仄暗い欲望の残骸だった。

 ふ、と聖人は口許を笑みに変える。

 鞄からスマホを取り出し、電話帳から一件の電話番号を取り出して、呼び出しボタンをタップした。

 耳に当ててコール音が鳴るのを待つ。

 だが彼は、音が鳴って三コール目で電話を切ってしまった。


「……楽しみだな」


 悪戯っぽく呟いて、そのままスマホを鞄の中に仕舞う。

 今し方電話を掛けた相手から、電話が掛け直されて来ることはなかった。




 そうして、夜。

 誰もが寝静まった時間、聖人は密かに部屋を抜け出し、庭に出た。

 ベランダから縄梯子を垂らし、慎重に下に下りると、そのまま、紫音が隠れ住んでいる例の蔵の方へと向かう。

 いつも屋敷の裏口ばかりを使っていたら、そのうちバレてしまう恐れがあるため、こっそり調達した小道具だった。

 念のため辺りを警戒しながら、それでも足早に雑木林を抜けて、目的の場所に辿り着く。

 石段を上り、もう一度辺りを確認してから、ドアをコンコン、と二度ノックする。

 すると、ややあって、がちゃん、と解錠の音が響き、何処か恐る恐るといった様子で、ドアが開かれた。


「……マサ君……?」

「ああ」


 聖人は、僅かに開かれた隙間から身を滑り込ませるように中に入ると、ドアを閉めて鍵も閉めた。

 今朝、出掛ける前に聖人が三コールだけ鳴らしてあっさり切った電話は、紫音への合図だった。

 深夜に忍んで会いに来る、という。

 闇雲に蔵へ行っても会うことの方が少ないから、聖人が確実に会えるようにと、去年まで使っていた古いスマホをまた使えるようにして、紫音に贈ったのだった。


「え、えと……こんばんは……」

「ああ、こんばんは。……中はこんな感じだったんだな、ここ」


 興味津々といった様子で、聖人は初めて入る祖父の蔵の中を見回した。

 聞き知っていた通り、古い書物が所狭しと並べてあって、墨と紙の匂いで室内は満たされている。


「ここにある本、読んだことはあるか?」

「ううん……読んでみようと思って、手に取ってみたけど……なんか、字がくねくねってなってて、読めなかった……」

「ほう……」


 聖人は手近にあった本に手を伸ばし、適当なページを開いてみる。

 本、というか、書物と言った方がしっくり来る。

 文庫や文芸書といった類のものではなく、綴じ紐で括られた手書きの蔵書が多いようだった。

 開けば草書体の字が綴ってあって、読み慣れてない人間からすれば確かに“くねくねした字”に見えるかもしれない。

 要するに、達筆過ぎて読めない訳だ。


「成程な」


 苦笑交じりに聖人は本を元に戻した。

 読書好きとしては、ここの本にはかなり興味を引かれる。

 多少草書や旧字体は読めるが、一冊読むのにかなりの時間を要するだろう。

 是非ともこのまま時間を掛けて読みたい気もするが、今夜の目的はそこじゃない。


「それで、お前はこの中の何処で寝泊まりしているんだ?」

「……こっち」


 そう、聖人は今夜、紫音に蔵の中と彼女の部屋を案内してもらう約束をしていた。

 天窓からの月明りしかない暗い室内を少し慎重に進み、最奥まで辿り着くと紫音は、「ここ」と言ってしゃがみ込んだ。

 ここ、と言われても本棚に遮られて月明りも届かないため、真っ暗で何も見えなかった。

 聖人はポケットからスマホを取り出して画面を点けると、紫音が屈む足元を照らした。


「……!」


 見ると、そこには取っ手を引き上げると床が開く、床下収納庫のような入り口が設けられていた。

 紫音はほんの一瞬躊躇う様子を見せたが、やがてその取っ手部分を引き出し、両手で開口部分の床を引き上げる。

 慌てて聖人も手伝うと、その下には、地下へ続く階段があった。

 顔だけ入れて中を覗いてみる。

 キッチンにあるような床下収納庫に比べると、遥かに広い。

 この蔵と同じか、それ以上の面積があるように思われた。


「……入ってもいいか?」

「うん……でも、あの……」

「ん?」

「ちょっと、散らかってるんだけど……いい……?」

「構わない。じゃあ、ちょっと、お邪魔します」


 曲がりなりにも女の子の部屋なので、一言断ってから、聖人は二人で持ち上げた入り口をそっと床に置き、階段を下りた。

 中に入ると、上の暗さが嘘のように明るかった。

 天井にはきちんとした電灯があり、壁際にはデスクと本棚。

 衣装ケースにベッド、あと何故かミシンがある。

 壁と壁のスペースには簡易的なキッチンがあり、更にその奥に扉があって、その向こうはバスルームとトイレがあった。

 ホテルの一室のような、ワンルームのアパートのような、一人で暮らすには充分な、快適と言っていい程の設備に、聖人はもはや感嘆するしかなかった。

 ついでに言うと全然散らかってない。というか、散らかす程、物もない気がする。

 床下収納、なんてものじゃない。

 立派な地下室だ。

 同時に、聖人の額と汗に、嫌な汗が一つ伝う。


「――紫音」

「は、はい……」

「お前をここに住まわせたのは……いや、ここに閉じ込めて、一歩も出るなと厳命したのは、此木宗一という男か?」


 過ぎった考えが正しいかどうかを確かめるべく、硬い声でそう問えば。

 紫音は、酷く悲しそうな顔で、一つ、力なく頷いた。

 やはり……。

 ただの土蔵の地下にこれだけの部屋を作れる力を持つ者は、この屋敷で一人しかいない。

 紫音をここに閉じ込めておくための、至れり尽くせりの小さな監獄。

 ここが立ち入り禁止区域にされた理由も、恐らく紫音だ。


「……三歳くらいの時……お母さんと一緒に暮らしてたお家に、いきなり、知らない男の人、入って来たの……

 サングラスした、大きな男の人、二人……。

 お母さん、その時、何か叫んでて……私、なんか分かんないけど、怖くて堪らなくて……その後……」


 話しながら、紫音は自身の服の胸元をぎゅっと握った。


「その後……のことは、何も憶えて、なくて……気が付いたら、私だけ、ここに、居て……」


 いつの間にか眠っていた――いや、あるいは気絶していた、のだろう。

 目を開けて意識が定まった時には、既にこの地下室のベッドの上だった。

 そこに母の姿はなかった。

 居たのは、母と自分を無理矢理連れ出したサングラスの男二人と、とても立派な服を着た、凍り付くような目をした男――屋敷の主人、此木宗一だった。


「お母さんは? って訊いたら……『お前の母は死んだ』って」

「……っ」

「でも、私……その時、死んだ、って何のことか……分かんなくて……お母さんに会わせて、って、ずっと泣いてて……」


 聖人は無意識に己の拳を強く握っていた。


「そしたら……また、サングラスの男の人達に、両腕、掴まれて……」

『お前は二度と母親には会えん。お前の母は悪い事をした。悪い事をしたから、怖い人達に無理矢理連れて行かれて、痛い事や苦しい事を沢山されて、殺されたんだ』


 ――冷たい目だった、と紫音は全身をがたがたと震わせた。

 宗一は、それから繰り返し、繰り返し、紫音の頭と心に刷り込ませるように、お前の母は死んだ、悪い事をしたから殺されたのだ、と淡々と語り続けた。

 そうして、紫音が“母とは二度と会えないのだ”ということを、絶望と共に胸に刻んだ、時。

 重ねて、今度は呪詛のように宗一は紫音に言い聞かせたのだという。


『お前も母親と一緒だ。悪い事をしている。だがお前はまだ子供だから、私が守ってやろう。

 死にたくないならここに居ろ。絶対に、一歩も外に出るな。

 外に出て誰かに見付かれば、お前も母と同様、怖い人達に無理矢理連れて行かれて、痛い事や苦しい事を沢山されて、最後には殺される。

 そうなった時、お前を助けてくれる者はない。

 何故ならお前は、お前の存在が――“悪い事”だからだ。

 ――いいな? 紫音』


 ――死にたくないならここから一歩も外に出るな。


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