身代わり
――色のない世界、とはどんな世界だろう。
全ての時が止まった中で眠る夢は、どんな夢だろう。
そんな、詮無き事を考えながら。
聖人は雑木林を抜け、蔵を抜けた。
母が唄ってくれた子守唄。
いつかと同じように湖に素足を浸けて歌う少女の側で、ゴロリと寛いでいた白黒の猫が、聖人の気配を察知して顔を上げる。
嬉しそうな鳴き声を上げて、たまは聖人の元へ駆け寄って来た。
たまを抱き上げて、立ち上がった紫音の側に歩み寄る。
相変わらず野暮ったい前髪から覗く顔は、まだ緊張の色が見え隠れしていた。
「来てくれないかもしれないと心配していた」
それでもその喜びに聖人は微笑み、紫音の髪をそっと撫でる。
今宵、紫音とここで会おうと誘ったのは、聖人の方だった。
昨夜、弓道の稽古をした後、密かに蔵へ赴き、今日のこの時間湖で待ってて欲しい、という手紙を、ドアの隙間に差し込んだのだ。
「会えて良かった。お前とは、もっと話がしたいと思っていた」
「……どう、して?」
「どうしてだろうな。だがこうしていざ会ったら、何を話せばいいか分からなくなった」
「……話したい事、あるから、呼んだんじゃないの……?」
「そうだな……いや、そうじゃなくて。
多分、話したい事があったから会いたかったのではなくて、会いたかったから話がしたい、と言ったんだ」
自然と、聖人の手が紫音の頬に伸びていた。
びく、と紫音は体を強張らせて、彼の言った言葉の意味が分からなくて混乱する。
聖人の親指が、やつれた紫音の頬を撫でる。
擽ったいのに体が動かなくて、紫音はもはやどうしていいのか分からない。
「すべすべだな」
触り心地が良い、と言えば、紫音は真っ赤になる。
リアクションが面白いな、と内心で笑う。
けれど同時に、その心の奥深くで、“彼女とは違うな”と冷めた気持ちで、思う。
――恥じらっていながらも、早く、もっと、と煽る、何処かあざといあのお嬢様とは。
「……甘い、匂い」
「、っ」
不意に、紫音が、戸惑ったように、言った。
「お兄さんから……甘い、匂い、がする……」
弾かれたように頬から手を離した。
別に隠さなくてはならないようなことは何もない筈なのに、何故か罰が悪くなって、聖人は紫音から目を逸らした。
「女の人、に会ってたの?」
問い掛けは何処までも無垢だった。
不安そうに瞳を揺らす訳でも、それが誰なのかが気になる風でもない。
ただ、今日一日何をしていたのか、それこそ世間話の延長のような調子だった。
別の女の匂いを染み付かせたまま自分に会いに来ているにも関わらず。
その無垢さが、聖人の心を悪戯に掻き乱した。
「……婚約者が居るんだ」
「……?」
「近い将来結婚する。今日も、一緒だった」
「じゃあ、その甘い匂い、その人、の?」
「ああ、多分そうだな」
「凄く、良い匂い、だね」
違う。
さっきは欲しいリアクションをくれたのに、今は全く、見当外れのリアクションばかりする。
「紫音」
「……?」
「俺の名前を覚えているか?」
「え……えと、此木、聖人……さん」
「じゃあ名前で呼べ。俺はお前の兄さんじゃない」
「……で、でも……」
「呼べ」
なあ紫音。
分からないなら教えてやろう。
女の香りが男の体に移って暫く残る、ということは、つまり、それだけ長い時間密着していたということで。
「まさ、と……さん……?」
「“さん”は要らん」
「で、でも、絶対、年上、だよね……?」
「いいから」
その香りを消しもしないで、別の女に会いに来るということが、どういうことか。
「じゃ、じゃあ……呼び捨て、は、申し訳ない、から……ま、マサ君、って呼んで、いい……?」
――俺は気付きたくなかった。
認めたくなかった。
こんな、キスもセックスも、その場の勢いとノリで出来てしまうような歳になって。
そのことに罪悪感すら抱かない歳になって。
「――ああ。それでいい」
愛しているから、それで構わない、と。
虚しいと知っていながらも無償の愛を懸命に与えようとしてくれる女を、抱いた、瞬間。
その女の上で果てる、正に、その、刹那。
自分が本当に愛していたのが誰だったのか、思い知ることもあるのだということを。
□□□
「こちらです」
ドアを開けて絢子を中に招き入れれば、彼女は感嘆の息を吐いて中央に置かれたグランドピアノに歩み寄った。
周りには楽譜やCDなどが所狭しと並べられた棚と、昔、聖人がコンクールで入賞した時の賞状が飾られている。
「聖人さん、何でも出来るのね。この前の弓道の試合では見事優勝なさっていたし。このお部屋にも、賞状が沢山」
「……そんなことはありませんよ」
半ばうっとりとした目で褒める絢子に、聖人は薄く笑みを浮かべて答えた。
「ご謙遜なさらなくていいのに。私なんて、逆にピアノしか出来ないから、何だか恥ずかしいわ」
「ここに飾られている賞状など、所詮過去の栄光です。
私はもうピアノは辞めた身ですから。それに比べたら、時々コンサートの助っ人やレストランなどで演奏なさるお嬢様の方が、遥かにお上手ですよ」
思った通りの事実を口にすれば、絢子は照れたように頬を染めて俯いた。
「ねえ、弾いてみてもいいかしら?」
「構いませんよ」
そう言うと絢子は上機嫌な様子で椅子に座り、ピアノの蓋を開けて鍵盤の上に手を乗せた。
一つ深呼吸をして、気持ちを鎮めて、やがて、絢子の指から音が紡がれ始める。
少し前に彼女の邸宅で聴かせてもらった曲とは、また違う曲だった。
(……これは……)
奏でられた旋律が、何と言うタイトルの曲か分かった瞬間、聖人は思わず軽く目を瞠る。
『翼をください』
誰しもが一度は耳にしたことがあり、学校の音楽などで合唱曲として歌ったことがあるだろうフォークソングだった。
ショパンを弾いていた以前とはがらりと違うジャンルの選曲に、また一つ、絢子の意外な一面を知る。
こういう曲も、好んで弾くことがあるのか。
聖人は、無意識に口許に笑みを浮かべた。
自然と瞼を下ろし、絢子が奏でるピアノの旋律に身を委ねようとする。
だが、その時。
「――、!」
開けた窓の向こう、月明かりが照らす、木々に囲まれた庭の向こうから、“声”が、風に乗って聞こえて来る。
それは微かな声で、演奏に集中している絢子は、気付いていないようだった。
聖人は、その声の主が誰であるか、瞬時に悟った。
開け放った窓から、ピアノの音が漏れ聞こえているんだろう。
ここは弓道場から程近い場所にある離れの一つだから。
本宅内にも勿論ピアノが置いてある部屋はあるが、この離れは各種道場と同じく、聖人の音楽のレッスン室として父の宗一が設えた建物だった。
聖人はさり気なく窓側に移動し、窓枠に腰を下ろして、外に耳を澄ませた。
体は絢子の方を向いたまま、じっと絢子の演奏を見守っている風を装って。
けれど意識は、外で演奏に合わせて歌う少女の声に集中していた。
絢子に気付かれたらどうしようかと一瞬思ったが、誤魔化し様はいくらでもある、と思い直し、目を閉じ少女の声を耳で受け止め続ける。
やがて演奏が終わると、少女の声もぴたりと止んだ。
「――意外ですね。絢子お嬢様は、そういった曲も演奏なさるんですか」
聴き入っていた風を装って、拍手を送りながら言えば、絢子は再び頬を染めた。
「今度、父の経営する病院の小児科病棟で演奏することになったの。入院してる子供達の前で弾き語りをするのよ」
それで、子供向けの音楽や誰もが知ってる合唱曲などを色々練習しているのだという。
「他には、どんな曲を?」
「そうね……」
次に絢子が奏で始めたのは、童謡『紅葉』だった。
演奏する病院は、病棟の窓から紅葉がよく見えるのだという。
「――ねえ、聖人さん」
「はい」
更に二、三曲弾き終わった後、不意に、絢子が聖人の名を呼んだ。
「その、“絢子お嬢様”って呼ぶの、そろそろお辞めにならない?」
「……、?」
「出来れば、敬語も外して下さると嬉しいわ。私達は、近い将来夫婦になるんですもの。いつまでも他人行儀なのは淋しいわ」
言いながら、本当に淋しそうな目をする絢子に、聖人は笑みを消す。
二人の心の距離は決してこれ以上縮まることはない。
そう分かっていながら、それでも、事ある毎に「いつかは夫婦になる」という逃れ切れない現実を目の前に突き付けて、聖人を何処へも行かせまいとする彼女に、聖人は冷めた気持ちになる。
絢子は賢しい女だ。
己の気持ちが報われないと知っていて、だがそれでも、聖人を己の腕の中にしっかり留める手段を、迷わず行使して来る。
聖人が政略結婚を拒まない事を、最初からどうにもなりはしない、と諦めていることを、知っている。
無理に聖人の心を手に入れずとも、他の誰もが願っても手に入れられないものを、彼女は既に手中に納めていることを、知っているから。
聖人が振り向いてくれなくたって、聖人は絢子のもので、絢子は聖人のものに、とうになっていることを、知っているから。
「――絢子」
一度目を伏せて、彼女の要望通り、絢子を呼び捨てで呼ぶ。
願っておきながら、いざ呼ばれると急に気恥ずかしくなったのか、絢子は先程以上に頬を真っ赤に染めて、はにかみながら俯いた。
――可哀想なお嬢様だ、と、聖人は思う。
こんな、馬鹿な男を愛して。
こんな、馬鹿な男のために身も心も差し出して。
絢子がどうすれば悦ぶのか、身体と心が少しずつ覚えていく。
それを、無機質に行使する残酷な男を愛して、それでも嬉しいと笑って。
「っ、待って……ここで……っ?」
気付けば聖人は、絢子に少し乱暴に口付けていた。
追い込むようなキスの合間に、彼女の体越しにピアノの鍵盤の蓋を下ろして、スカートを捲り上げる。
ピアノを愛する絢子にしてみれば、ここでこんな行為をするのは気が引けるだろう。
だが、聖人はそんな絢子の体を強引に鍵盤の蓋に押し付けて、耳元で囁く。
「ここで。待ったは聞かない」
「あ……っ、」
鍵盤の蓋の上は苦しそうだったから、椅子の上に押し倒す。
――やっぱり、絢子も馬鹿だ。
愛してもらえないと分かっていて、こんな簡単に、何度も足を開いて。
(俺は貴方に欲情はしても。行為の最中でさえ、貴方の事など見ていないのですよ)
欲望が膨れ上がる度、己が心の中の醜さと卑しさが顔を出す。
絢子のことが嫌いな訳じゃない。
でも、決して、愛することはない。
(貴方は……所詮、身代わりでしか、ない)
そして今日、貴方にとっては神聖とも言えるこんな場所で抱いているのも。
窓を開けっ放しにしているのも。
――全て、その相手を意識させるためなのですよ……。
「……声、我慢するなよ、絢子」