兆し
――目を開けると、まだ、明け方だった。
腕の中では咲が気持ち良さそうな寝息を立てている。
晒された素肌が少しひんやりして、未だ体に残る熱を攫っていった。
――少し激しかった、かもしれない。
あれ程の熱情は、生まれて初めてで、抑えが利かなかったのだ。
頬を染め反省しつつ、幸三郎は掛け布団を持ち上げて、咲の首元まで掛けてやった。
(……呑気な寝顔だな)
一向に起きる気配のない咲の頬を、また突いた。
夢を見た。
咲と見合いをした、もう半年以上前のあの日の夢を。
赤い髪に唖然とする父親の横で、物怖じせず堂々と振る舞う彼女を、まず“面白い”と思った。
それから、話すうちにいじらしさが垣間見え、更にとても可愛らしい一面を見た。
その後は一緒に出掛けるようになって、嫌いな食べ物だけでなく、感性も行動も一般市民寄りということが分かって、益々咲のことが気に入って――気付けば、どうしようもないくらい、好きになっていた。
本当に、人生って分からないな、と幸三郎は思う。
三葉と引き裂かれた直後は、もう二度と誰も愛すもんかと自棄になっていたのに。
こんな風に、愛する人を抱けることが、幸三郎は心底幸福だと、思う。
起きたら相手が腕の中に居て、無防備過ぎる程にリラックスした姿を見せてくれるのは、心の底から嬉しいと感じる。
(けど……)
――不意に、幸三郎の心に忘れ掛けていた不安の風が吹く。
(けど、此木は、そうは感じていないってこと、なんだよな……)
聖人が話していた事を思い出して、幸三郎は胸に痛みを覚える。
どれ程抱いても、自分は絢子を愛せない、と言った聖人の事を思う。
愛しているから構わない、と、己が不幸と不憫さを、それでも幸福だと言った絢子の事を思う。
聖人は、それが果たさねばならぬ“義務”だと分かっていることには、とことん真剣に真摯に向き合う男だ。
興味がないから、と切り捨てていい事と、そうではいけない事の線引きを、きちんとする男だ。
そうしなければならない、と観念しているなら、せめて、少しでも自分が楽になれるよう、好きでないものでも無理矢理好きな部分を作る、そういう、奴だ。
なのに今回は――駄目だ、と言っていた。
諦めというより――失意、にも似た声音だった。
そして、パーティー会場で垣間見えた、瞳の奥の仄暗い色。
(此木……お前、一体……)
「――何を考えてるの?」
心の呟きの先を引き取るように、唐突に、腕の中で声が響いた。
驚愕と共に思考が現実に引き戻されて、幸三郎は目を瞠って咲を見下ろす。
「……起きたのか」
「うん。ぼーっとしてどうしたの?」
「……いや……」
自分でもよく分からない事を、軽々しく口にするのは憚られて、幸三郎は半ば誤魔化した。
「……言いたくないなら聞かないけど、あまり思い詰めては駄目よ?」
「大丈夫だよ。そもそもそんなキャラじゃねえし、俺」
「何言ってるのよ。意外と真面目な幸は、自分でも無自覚のうちに色々溜め込んで自爆しちゃうタイプよ」
「そうか?」
「そうよ。だから、何か言いたい事あったらいつでも言いなさい。
この恋女房が飛んで来て、何でも聞いてあげるから」
「はは、そいつは頼もしいな」
冗談を言いながらも、幸三郎はぎゅっと咲を抱き寄せる。
嬉し過ぎる故の照れ隠しであることは、咲にはお見通しだったけれど。
「……あのさ」
「何?」
「絢子嬢、何か言ってたか? パーティーん時」
「絢子様? 何かって何?」
「最近の事、っていうか……此木との事、とか」
「え……別に、特別な事は何も。自分も今とても幸せだから、お互いこの幸せ、大事にしましょうねって、それくらい」
「……そうか」
「どうしたの? 絢子様と聖人さんがどうかした?」
「いいや。……此木の奴、そういうのあんま言わねえから、実際ちゃんと順調なのかなーってよ」
「えええ……余計なお世話」
「分かってるけど、気になるんだよ。あいつは……」
――あいつは、俺にとって、俺の世界の半分を占める男だから。
そう、熱っぽく言えば、咲は驚いたような顔をして。
すぐに悪戯っぽい笑みを浮かべて、幸三郎の首に手を回した。
「、……どした?」
「今の顔、何か恋する相手を思ってる時みたいな目だったから、ちょっとやきもち」
「何だそりゃ」
くすくす笑い合いながら、触れるだけのキスを幾度も交わす。
――今は、ただ考えたって仕方がない。
次に聖人に会ったら、話をしよう。
核心に触れるような話でなくてもいい。
彼に、幸三郎の事をいつでも思い出してもらえるように。
それだけしか、今は出来ない、けれど。
せめて、それだけでもしたい、と、幸三郎は強く、思った。
思っていた――のに。
聖人の心が、既にボロボロであったことを、この時の幸三郎は、想像もしていなかった。
□□□
次に幸三郎が聖人を見掛けたのは、それから暫く経った後。
平日、午後の授業が入っていない日、学校帰りに一人で街をぶらついている時、聖人が雑貨屋の前で真剣な顔で商品を物色している所に鉢合わせた。
男一人で入るには少々浮いてしまうような店だが、周りは割と気にしていない。
けれど、珍しいな、なんて思いながら側に寄り、此木、と声を掛けようと口を開いた、瞬間。
幸三郎は聖人の目を見て息を呑んだ。
――優しい目。
手に取って見る品の向こうに、明らかに誰かの顔を思い浮かべているのが分かる。
真っ先に絢子の顔が思い浮かんだ。
けれど、すぐに違う、と思い直す。
絢子はそもそもこんな店の小物を身に付けるような人ではないし、何より、聖人の瞳に、優しさの奥に微かに切ない熱が滲んでいる。
絢子が聖人と一緒に居る所はほんの数回しか見たことはないが、あんな熱っぽい視線を向けたことは一度もなかった筈。
会わない間に、絢子への恋情がついに芽生えたのかとも思ったけれど……直感的に、そうじゃない、と根拠もなく思った。
でも、絢子に贈る物ではないのならば、相手は一体……。
「、……橋谷?」
半ば愕然とした気持ちで聖人を見つめていると、聖人が彼の存在に気付いて振り向いた。
「あ……よう、此木。偶然だな」
慌てて取り繕うような笑みを浮かべて片手を上げた。
聖人も笑みを浮かべて応じてくれる。
「お前が一人でこういう店に居るの珍しいな」
努めて平静を装いつつ、歩み寄ってそう言えば、聖人は苦笑して、「そうだな」と言った。
手に取っていたのはリボンが付いたヘアゴムだった。
淡い水色で落ち着いた色合いのそれは、やはり絢子の趣味とは合わない代物のように思えた。
「絢子嬢にプレゼントか?」
「……いや」
違う、と確信してながらも問う。まるで、そう問わないといけないような、得体の知れない予感と共に。
だが聖人は、優しく切ない瞳を、ほんの一瞬、酷く冷たく、なのに悲し気に揺らした。
「……こんなもの、あのお嬢様には似合わない」
「……じゃあ、何で?」
声音は低く、冷徹だった。
婚約者の女性に合わない品を蔑むような言葉に聞こえるのに、幸三郎には、それが似合わない絢子に侮蔑が向けられているような気がしてならない。
「贈りたいんだ。ちゃんと綺麗にして結わえたら、可愛くなりそうだから」
「、……誰の、話……?」
言いながら、今度は聖人は花柄のシュシュに手を伸ばした。
幸三郎の問いには答えない。
そもそも話が噛み合っていないような気さえする。
「うん、やっぱりこれにしよう。会計して来る」
結局聖人は、幸三郎の問いに答えないまま、シュシュの前に手に取っていたヘアゴムを持って、レジへと向かって行った。
プレゼント用にと綺麗に包装された品を、聖人は鞄の中に大事そうに仕舞う。
その仕草の時でさえ、彼の瞳は優しく、切なげな熱が揺れていた。
「……此木、この後まだ時間あるなら付き合えよ」
何故かは分からない。
分からないけど、幸三郎は酷く動揺していた。
根拠もなく訳もなく、このまま軽い調子で「じゃあな」と言って別れてはいけない気がして仕方がなかった。
早急に、話を聞かないといけない気がした。
それが、何の話かも分からずに、闇雲に。けれど絶対、聞かないといけないと強く思った。
「これから絢子嬢と約束がある。また今度な」
だが聖人は、そう言って、幸三郎から逃げるように目を逸らし、そのまま背を向けた。
今度は、酷く傷付いたような、苦しそうな瞳だった。
幸三郎は考えるより先に、聖人の手を掴んで引き留める。
「……何だ」
怪訝そうに振り向く聖人の顔は、何だか、温度が、なかった。
「――お前、何、やってんだよ」
どう問えばいいか分からずに、それでも、その言葉は自然と唇から滑り落ちた。
急に、聖人が、違う人みたいに見える。
一人で何処かに行こうとしているように見える。
一人で何処かに行って……自分の所にはもう、戻って来てくれないような、そんな気がする。
得体の知れない予感は、大きな恐怖だった。
必死な眼差しで聖人を見つめれば、聖人は、一瞬だけ泣きそうに、申し訳なさそうに顔を歪めて。
「……蛮行だ」
「え……?」
「一人の女を愛し続けるために、愛してもいない女を側に置いている。
一人の女を熱情のままに抱けないから、愛してもいない女を欲情のままに抱き続けている。
この上なく理不尽な、醜い蛮行だ」
「……、んだよ、それ……一体、どういう……」
まるで謎掛けみたいな言葉だった。
意味が全く分からないのに、悪戯に幸三郎の不安だけは煽り立てられる。
けれど、幸三郎が混乱するのを横に、聖人は自分を掴む幸三郎の手をそっと外して、「じゃあ、またな」といつも通りの挨拶をして、去って行った。
 




