祈り
「ここだよ」
静かに言って、橋谷幸三郎は立派なスライド式のドアを開けた。
ホテルの一室よりも広い部屋だった。
入ってすぐの両サイドにはトイレと浴室、洗面台があり、奥に進むと来客用のソファ、DVDプレイヤーが備え付けられたテレビ。
全国でも屈指の大病院の、一番設備が充実した個室。
数日入院するだけで、莫大な費用になるのは間違いない。
そこのベッドに、青年は横たわっていた。
「……此木」
幸三郎は、ベッドに眠る青年の名を、そっと呟くように呼ぶ。
けれど、此木と呼ばれた青年は一向に目を覚ます気配はなかった。
「信じられるか? こいつ、ずっとこのままなんだぜ。ずっと、もう何年も。
何年も何年も、ここで、こうして眠ったまんま。
大声で呼んでも、ほっぺ突いても、好物のお菓子目の前にぶら下げても……一向に、全く、目を開けやがらねえ。
こんな間抜け面で、本当に、ただ寝てるだけ、の筈なのによ……」
「――どうして……」
穏やかで、何処か間抜けで無防備な顔で眠り続ける青年に、幸三郎が悲し気に苦笑を漏らすと、彼の傍らに佇んでいた女性が愕然とした声で呟いた。
どうして、と問われたら、その答えを幸三郎は説明することが出来る、けれど。
「……俺にも、分かんねえよ」
友が、こうなってしまった原因を説明することは、きっと、簡単だった。
自分が聞いた事、見た事、全てをそのまま告げればいい。
でもこういう時。
人が“何故”と問うて、得たい“答え”は、事象ではなくて心理だ。
それは多分、幸三郎には分からない。
安易に、「分かる」とは、どうしても、言えない。
「でも多分……それだけ、辛かったんだろうよ」
同じような経験を、したことがあるけれど。
その時はとても辛くて、死にたいとさえ思った、けれど。
実際に、自ら身を投げて“彼女”の元に行こうとした彼と比べたら、その時の自分の辛さなど……抱いていた想いなど、大したことはなかったのだと思う。
分かることがあるとするなら、そういう、絶望的な結果に基づく現実だけだった。
「――愛してたんだ、こいつは。失って、こんな簡単に心を壊してしまうくらい、“あの子”のことを」
「……“あの子”?」
「運命の相手だよ。此木の……。でも、絶対に出逢っちゃいけなかった、好きになっちゃいけない、相手だったんだ」
目を閉じる。
そう遠くない過去の筈なのに、もうずっと昔のことみたいだ。
「ありふれた言葉で言うなら……“一生に一度の恋”、ってやつかな……」
神様に祈ったことはない。
神様の存在を、信じたこともない、けれど。
その報せを聞いた時は神を呪った。
彼のこの姿を見た時は神に祈った。
その呪いも祈りも、彼がこうなってしまってから一度も届かなかったけれど。
神ではなく、夢の世界に独りぼっちで漂う彼に、もし、幸三郎の祈りが届くのなら。
長い話をしよう。
君になら、“彼女”のことを話してもいいと、思えるから。