03 甘いにおいに誘われて
ゆらゆらと波間を漂うような感覚。
心地よいまどろみの世界でアランは満たされていた。
――あたたかい。
「ん……」
もう少し眠っていたいと思う半面、どこかで覚醒を促す意識が働いたらしい。
瞼を持ち上げると、視界には見たこともない天井が広がっている。
天井だけではない。温かみを覚える木目調の壁も、床もまったく見覚えがたなかった。
大人ひとりが横に慣れるベッド、猫脚の簡素な書斎机と椅子が配置されているだけでよけいな調度品はない。家具の脚で床が傷つかないように絨毯が敷かれているくらいだ。
アランはベッドから降りて、ひとつだけ設けられた窓から外を覗いてみる。木々の枝葉が風に吹かれサワサワと音を立てているだけだ。
先程頭に忍び込んできた声は聞こえない。
「どこだろう……?」
扉を開けると、自分が家屋の二階の部屋にいたことがわかった。階下から漂ってきた香ばしいにおいに誘われて階段を下りる。一段ずつ踏むたびにギシリと踏面の板が軋む。階段正面には玄関と思しき扉があり、そばに立っていたコート掛けのフックには見覚えのある外套がかかっていた。
「これって……」
村に現れた魔法使いが着ていたものだ。
魔法使いがここにいるという興奮と並行して腹の虫が自己主張を繰り返す。
――なんだろ。すごく美味しそうなにおい。
再度香りを吸い込むと、焼き菓子の類であることは容易に想像がついた。
バターの香ばしさと砂糖の甘い香り。それに加えてジャムのようなにおいも流れてくるので果実を使った菓子かもしれない。
行きついた場所は、一階の台所だ。アランをおびき寄せたにおいは竈から放たれていたのである。
「気がついたようね、アラン」
台所の入り口で立ちすくんでいるアランに奥から出てきた女性が声をかけた。
長い白金の髪と白い肌。深緑色の瞳の深い森の木々を思い起こさせた。
女性の華奢な体型に、アランの想像はすべて覆されてしまう。女性、というより少女かもしれない。アランの目には十七歳の姉と同じくらいに見えた。
――キレイ。
アランの惚けた表情を不審に思って女性が手を差し伸べる。
「大丈夫? 傷は全部治したはずだけど、まだ頭がボーっとする?」
彼女の手がアランの額にふれた。やわらかな手のひらの感触。
「ううん。もう平気だよ。頭のなかの変な声も聞こえなくなったから」
「声……?」
アランの答えに女性は目を瞠る。
「あれ? どうして僕の名前を知ってるの?」
まだ自己紹介さえしていないのに、彼女はアランの顔を見るなり名前を呼んだ。
「そのコが教えてくれたの」
森の入り口から案内してくれた妖精が舞い込んできてアランの周囲をくるくる飛びまわる。
なるほどと納得したと同時にアランがあっと声をあげた。
「あ、あなたはこの妖精が見える? 声が聞こえるの?」
「妖精? このコたちは森の精霊よ。人間に好意的なコね」
答えながら女性は手に鍋掴みをはめる。
「僕、もっと小さなころから妖精さんたちが見えるんだけど、他のコたちは見えないって……僕は、普通じゃないの?」
アランは勢いに任せて、自分の胸に秘めていた疑問を目の前の女性にぶつけていた。
自分だけが見える、聞こえるという場面に何度か遭遇していると、もっと恐ろしい可能性を想像してしまう。
「僕は普通の、人間かな?」
「……」
真剣なアランのまなざしに魔法使いは、どこか合点が入ったように何度か頷いた。
「こどもの目には曇りがないの。波長が合うというか……小さなころに見えるたり聞こえたりするって人はわりと多いものなのよ」
「本当?」
アランは思わず身を乗り出して問い質してしまう。
「成長するにつれて見えなくなっていく人のほうが多いの。だから、怖がらないで。少し社交の窓口が広いと思えばいいわ」
見えなくなってしまうのは少し残念な気がするが、今まで胸につかえていた悩みを吐き出すことができて心の底から安堵した。
やはり魔法使いに会ってよかったとアランは喜ぶ。
「ちょうどいいわ。あなたも食べて行きなさい」
「なにを?」
質問に言葉で答えるより先に、竈から出された木苺のタルトがアランに示された。