ユメクイ
嫌な夢を見るようになった。それは最近になってから見るようになった夢で、目が覚めるとわたしの身体はいつも冷や汗で冷え切っていた。
それからしばらくして、激しく脈打つ心臓の拍動に気が付く。どくんどくんと、まるで夜の暗闇の中で煌々と輝く赤い石のように心臓は鼓動を続ける。
わたしは胸に手を当てて、振動を掌に感じながら夢を反芻する。いつもの手順だ。どうしてこんな夢を見るのか、夢がどんな意味を持つのか、わたしには何一つわからないのだけれど、少しでも夢を噛み砕き理解しようとしてみる。
夢は、ザーーッ、と、スピーカーに取り囲まれたかのように響く間延びした雑音から始まる。雑音はちょうどテレビのノイズみたいな感じだ。わたしはそのノイズを聞きながら夢の始まりを認識し、それから目の前に広がる光景を知覚するようになる。
そこはモノクロの世界だ。一時代前の白黒テレビのようなはめ込みの画像。そして、その中にたった二つだけ色の付いた物体がある。存在がある。小さな子供と、成熟した大人の姿だ。はめ込みの画像の中で、大人は子供に跨り、ぎゅうぎゅう首を絞めている。画像はどんどんズームアップしていって、わたしはその光景をはっきりと認識する。
彼女があの子を殺そうとしている。
そのことを理解すると、はめ込みの画像越しにずっと空中に浮遊していたわたしの視点は、急に大人の視点へと変化する。大人の視点になったわたしは急に激しい憎しみと悲しみと、底のない恐怖に襲われて(おそらくこれらの感情は彼女がもともともっていたものなのだろう)、あの子の首を絞める手に一層の力を込める。
わたしの両手に、抵抗らしい抵抗を示すことなく締められているあの子は女の子だった。どこまでも無表情な、きっと手を切られたって足を潰されたって変わることのない無表情を貼り付けた、女の子だった。あの子は、たとえば肉親が目の前で惨殺されようが眉ひとつ動かすことはないのではないだろうか。それは単なる妄想に過ぎないのだけれど、思えば思うほどに変わらない目の前に無表情が怖くなってきて、首を絞める手に力を込めないわけにはいかなくなっていった。
あの子には見覚えがあったのだ。あの子は、あの子の外見は、幼い頃のわたしにそっくりだったのだ。
わたしは、わたしの首を絞めている。少なくとも外見だけは変わることのないわたしの首をぐいぐいと締め付けている。そこには明らかな殺意があって(それは恐怖に裏付けられて殺意だ)、わたしはまだ幼い子供のわたしを殺そうとしている。
それに気が付くとわたしの視点は再び移動する。それは抜け出すとか、瞬間ブラックアウトして目覚めた時に変わっているとかそう言う変化の仕方ではなく、ぬるりと、大人の首を絞めているわたしと次の視点とが溶け合い、徐々に侵食されていくようにして起きる変化だった。
すっかり変化したわたしの視点は、わたしの上に覆いかぶさった彼女を映し出して、そのことを認識すると、わたしは一気に息苦しくなる。わたしは。今度はあの子の視点に変化したのだった。どこまでも凪いでいて、苦しいのだけれど首を絞められていると言う事実を認識していないかのような異様な感覚に捉われたあの子の感情の本流が押し寄せてきて、わたしはすぐに飲み込まれてしまう。
そしてわたしはそこで驚くべき光景を見る。わたしの首を絞めている彼女が、わたしであることを確認するのだ。
大人のわたしは怒りに表情を歪めていて、でも両目からは涙が溢れ続けていて、またその身体は恐怖に震えているようだった。そのことが、首を絞められている子供のわたしには分かるのだ。分かるものの、子供のわたしは破壊的な暴力を前に全てを投げ出したかのように受け入れている。そこでわたしは、子供のわたしが貼り付けていた無表情の意味を知る。それはつまり死を覚悟し、受け入れてしまったものの目であり表情なのだった。
わたしにはどうして死を受け入れられるのか、また彼女があの子の首を絞めているのかまったく分からないのだけれど、それらの感情だけは代わる代わる流れ込んでくるので理解できた。と言うのも、その頃になるとわたしの視点はどこか一所に留まると言うことを知らなくて、と言うよりも、全てが溶け合い混ざり合って、現場ではないどこか別の場所で同時に全てを認識しているような感覚になっているのだった。
彼女の掌に込める力が一層強くなって、あの子の苦しみが更に増す。わたしはまるで自分で自分の首を絞めているかのような奇妙な感覚に陥りながら、どうしてそのようなことが起きているのか、その理由も解決策も分からないまま混乱している。首が苦しい。両手に力がこもる。わたしはどうにかしようと様々な命令を流れてくる知覚の流れを逆流して送ろうと試みるのだけれど、どういうわけか届かなくて(もしくは途中で塞き止められているか、流れに負けて帰ってきているのであろう)、混乱は更に加速していく。
そうして、あの子の意識が朦朧として視界が白い世界に溶け込もうとした瞬間に目が覚めるのだ。わたしは全身冷や汗をかいていて、一番最初に認識するのが外気の寒さだ。
わたしはこの夢についていろいろと調べてみたことがある。ユングとか心理学書を読み漁り、夢診断なども何冊か読んでみた。でもどれひとつとしてわたしが感じている夢の感覚とは合わなかった。わたしは夢に対して奇妙だなあとか、怖いなあ、気味が悪いなあという感情を抱いているのだけれど、それと同時に愛おしいなあ、大切だなあといった感情も抱いているのだった。それはもしかしたら、夢がわたしの根幹を表しているからなのかもしれなかった。大人のわたしが子供のわたしを絞め殺すのがわたしの根幹なのだとは、思うと少し薄ら寒いだのけれど。
夢はもう十数回見てしまった。場面は毎回変わらず、またどれだけ回数を重ねても何一つそこから分かることはなかった。見るようになってから三週間が経っていた。
その夜は、寝る前から何か起きるなと思っていた。空気がどことなく湿っぽくまとわりつくような感じだったのだ。わたしはあまりの居心地の悪さに何度も換気をした。けれど、アパートの中の空気は石のように動かなくて、風は一度たりとも吹き込んでこなかった。
窓の外には月が出ていた。黄砂のせいなのか、赤みがかった月の姿は禍々しく感じられた。
そうしてわたしはまたあの夢を見た。ただ、ひとつだけ、わたしの側に絶えず何かがいる気配を感じながら。
汗をかいて目を覚ましたわたしは、ため息をついて呼吸を整えてから額を拭った。思っていた以上に汗をかいていたらしく、パジャマが黒く湿ってしまった。子の分だと布団もすごいことになっているのかもしれない。乾かすことや、またこの布団で眠ることを考えて気分が落ち込んだ。
だから突然聞こえてきたその声と言うのは、本当に不意打ちに不意打ちを重ねた声だったので、文字通りわたしは跳ね上がってしまったのである。
「どうも」
「ひゃあ!」
わたしは暗い寝室の中に目を配らせてみた。けれど、何一つとして声を出した存在の姿は確認できなかった。もしかしたら空耳だったのだろうか。そんなことを考えたところ再び声がした。
「あのぅ」
「どこ」
「ああ、そんなに首を回さないで」
「じゃあ、姿を見せなさいよ」
「ここです、ここ。上上。あなたの頭の上です」
「上?」
手を持っていくと、なにやらもふもふとした感触がした。掴んで目の前に持ってくる。それは短い毛で覆われた、両手で持ち上げられるほどの小さな獣だった。
「どうも」
前に長い鼻をひくひくさせながらその獣は頭を下げた。頭を下げた! わたしは奇声を上げながら、そのよく分からない獣を布団の上に投げ出した。
ぐえ、とも、げへ、ともつかない声を出して、そいつは布団の上に落ちた。わたしは上ずる声を何とか抑えて、声を出した。
「なにもの?」
「こんばんは。わたくしユメクイでございます」
「ユメクイ?」
ええ、そうです、と頷きながらそいつ――ユメクイはわたしの方へと布団の上を歩いてきた。少し怖いのもあって、わたしは布団を身体に引き寄せた。お陰で、足場が移動したユメクイは転倒した。
「そんなに怖がらないでください。といっても、無理かもしれませんが」
起き上がったユメクイはそう言った。まったくその通りだとわたしは思った。ユメクイは変わらずわたしとの間を詰めてくる。
「ストップ」
静止をかけた。
「分かりました」
ユメクイは止まった。ベッドの上で座って、手を伸ばせば触れられるような場所によく分からないユメクイなる生物(?)がいる。これは少し珍しいことなのではないだろうかとわたしは思った。
「で、あんたはなんなの」
「はい、ユメクイです」
ユメクイはにこやかに微笑んでそういった。
「違う。そうじゃなくて、そのユメクイって言うのがどんなのか訊いてるの」
「ああ、そうでしたか。ええっとですね、ユメクイとは夢を食う存在です」
そんなの名前から分かる。わたしはそれ以上のこと、たとえばどうしてわたしのもとに現れたのとか、何をしたのかとかそう言うことを訊きたいのだった。無言で睨みつけると、そういったことに気が付いたのかユメクイが言葉を続けた。無言の圧力は口を開くよりも多くのことを伝えるものらしい。
「そのですね、最近このあたりで奇妙な悪夢が発生してまして、それでその悪夢のもとというか、原因を辿っていたんですね。それで今日ここに辿り着いた」
「悪夢?」
「ええ。お子さんと暮らしている方はお子さんを、独り身の方は親を、自らが首を絞めて殺そうとしている夢だそうで、いやあ、たくさん種類がありましていろいろな味がしました」
お腹を擦りながら、味わった数々の味を思い返しているのであろうユメクイを前にしながら、わたしはまったくべつのことを考えていた。ユメクイが言った悪夢の内容が、わたしの夢と似ていたのだ。けれど、少し違う。それはどうしてだろうと思った。
「もしかして――」
あることに思い至って、わたしは口を開いた。
「――わたしがその悪夢の原因だったの?」
「ご名答」
指(?)を鳴らして、ユメクイは器用にもウィンクを寄こしてきた。それからなにやら俯くと、口の中に手を突っ込み、天井を仰いで、なにかを吐き出し始めた。
思わずわたしは目をそらした。グロテスクな画だった。小さな身体のユメクイから、とてもではないが考えられないような質量の物体がぬらりと出てくる光景は、なかなかに目に悪いものだった。
「……ふぅ。ああ、申し訳ないです。見苦しいものを見せてしまって」
「一言言ってからにして」
「まったくだ」
自分のことなのにユメクイは他人事のようにけらけら笑った。その声が腹立たしかったので、わたしは枕を投げてやった。ユメクイは華麗に避けた。野郎。
「えっとですね、これがあなたの夢で、一連の悪夢の原因です」
そう言って、唐突にユメクイは話題を変えた。口から吐き出した球体を転がしていた。それは少し赤みがかったガラス玉だった。中に奇妙な姿で固まった小人のような人形が入っていた。
「これは?」
「ああ、悪魔です」
「悪魔!」
わたしは驚いて、まじまじとガラス玉の中の悪魔に見入った。
「ああ、あまり見ないようにしてくださいね。まだ悪魔は生きていますし、もしかすると再びあなたの夢の中に入り込むかもしれない」
言われて、わたしは飛び退いた。
「まだ寝てますけどね」
野郎。
ユメクイの話によると、わたしがあの夢を見るようになったのも、様々な悪夢が広がっていったのも全てはガラス玉の中の悪魔のせいなのだそうだった。悪魔は、『過去の繋がりを断つもの』と言う種類の悪魔らしく、ユメクイが処理する悪魔としては珍しい種類のものらしかった。
「ユメクイが処理するって、他にもこういったことをしている存在がいるの?」
「もちろん。ユメノバンケンやユメノカリウド、キママナユメタンテイやユメノシハイシャなんて言うものまでいます」
「大仰な組織なんだね」
「それほどでもないですけどね」
言うと、ユメクイは背中から羽根を生やして急に宙に浮いた。
「それではそろそろ帰らなければなりません。悪魔を処理しないといけませんから」
「処理」
「ええ。どちらにせよ消滅させることはできませんから、凍結させて機能を奪うんです」
わたしは液体窒素の中に投げ込まれる赤いガラス玉のことを思った。
「まあ、そんな感じです」
「へ」
「ああ、わたし、実はあなたの頭の中を読み取ることもできるんです」
言われて、急に恥ずかしくなったわたしは、手元にあった(あのあと戻しておいた)枕を浮いているユメクイに向かって投げつけた。ユメクイは少しだけ高度を落としただけで、簡単に枕を避けてしまった。野郎。
「はは。それではまたいつかお会いするかもしれませんが、その日まで」
言い残すと、ユメクイは霧のように消えていった。同時に部屋の中が一気に暗くなった。わたしは、そうかユメクイが部屋を明るくしていたんだなあと、ユメクイが消えてからようやく気が付いた。
夢はそれから繰り返さなくなった。毎朝気持ちよく目が覚めるのは、なにものにも変え難い幸福なのだなあと思った。
あれからユメクイはおろか、ユメノバンケンもその他いろいろな夢との関わりを持つものは現れないのだけれど、それはそれでいいように思う。そもそも、あの日々が現実だったかどうか、それすら疑問を持つようになってきた。全てが夢だったのではないのだろうか。そうだとするならば、わたしは夢と現実との境が分からないままに日々を過ごしていたことになり、それはそれでまた困るのだけれど。
それからまた数日たったある日、家でインターネットをしていたらある画像とであった。それはバクという動物の写真で、まさしくユメクイの姿と瓜二つだった。
ようやく分かりましたか。
そんな声が聞こえた気がして、わたしは思わず頭を撫でていた。当然のことながらそこに質量を持った存在など確認できなかったのだけれど、あのことは夢ではなかった、そこ事実だけははっきりと認識できた。
もしかしたら、ユメクイや他の夢の関係者達は今日もどこかの枕元で仕事をしているのかもしれない。
お疲れさま、と心の中で呟いて、わたしは濃いコーヒーを啜った。あなたたちのお陰で、快適に生活できてますよ。
世の中には知らないことがたくさんある。知らなくていいこともたくさんあるし、知っておいた方がいいこともたくさんある。けれど、ユメクイたちの頑張りは、絶対に知らなくてもいいことだろうなとわたしは思った。そんな超常的なこと、知っていたところでなんの得にもならない。
でも、彼らのお陰でわたしたちの夢が守られているのは確かなことらしかった。確証はないけれど、そうなのだろうとわたしは思った。
コーヒーを啜る。ミルクを入れればよかったと、苦さに顔をしかめてしまった。わたしはマウスを操って、お気に入りを開き、動画サイトにアクセスする。
ユメクイたちが頑張っている夜、わたしはそうやって面白可笑しく時間を浪費するのだった。
夢つながり。思いついたのを形にしてみたらこんな風になりました。
少しコメディっぽくしてみたつもりです。
そうは思えないって?それは申し訳ないことをしました。