9 ガラスのユリ
暗くなった街を、杏梨は一人で歩いていた。通りかかったコンビニエンスストアの時計は七時を指そうとしている。そろそろ、なんとかしないといけない。
今日の二人は、持ち主の不在時間に合わせ、それぞれ違うプフランツェを回収するべく別行動をとっていた。早い時間に動いた乃梨子はすでに部屋へ戻っている。杏梨も回収は六時過ぎに済ませていた。本来なら指定されている場所で待機していなければならない。
それなのに、通りを歩くほっそりとした人影を見つけてしまった。ウシタ製薬の竹中だ。思わず追跡を開始してから、もう二十分が経過している。
深見が集めているのは、ある特徴を持つプフランツェと、それに関わる竹中という人物のうしろ暗い情報だった。できることならこの女性に接近して、その証拠を掴みたい。
歩きながら必死に考える。深見に許可を求める時間はない。杏梨は息を深く吸い、前を歩く細身の女性に駆け寄った。
「あの、すみません」
話しかけられているのが自分だとわかり、どうしました? と少し驚きながら竹中が立ち止まる。杏梨はカバンを抱えながら、怯えたような表情で言った。
「塾を出てから、変な男の人がずっとついてくるんです。少しのあいだだけ、一緒に歩いてもいいですか?」
「えっ、大丈夫でしたか? 親御さんは?」
「今日は迎えにこれないんです。ちょっとのあいだだけでいいですから、一緒にいてもらっていいですか?」
竹中は杏梨を庇うように立ち、後方を見る。夜道を歩く人影は、どれが少女を狙うものなのかわからない。とりあえず、と少女を安心させるように竹中が笑いかけた。
「よかったら私のところにどうぞ。すぐそこが私の部屋ですから」
竹中の部屋は、そこから三分もかからない場所にある、小ぢんまりとしたアパートだった。竹中は周辺を警戒しながら、杏梨を隠すように二階の部屋へと招き入れ、明かりをつけた。
「狭いところですが、どうぞ」
お邪魔します、と杏梨が一礼して靴を脱ぐと、竹中が恥ずかしそうに言った。
「よかったらお茶でも。とはいっても、何もないから笑わないでくださいね」
「……引っ越ししたばかりなんですか」
不思議そうに杏梨が部屋を見回す。広くはないはずなのに、なぜかガランとした空間に感じた。ダイニングには小さな冷蔵庫と電子レンジがあるけれど、作りつけの棚にはほとんど食器がない。
上着とバッグを奥の部屋に置きながら、竹中が小さく笑った。
「そういうわけではないんですけど、一人なので物があまりないんですよ。炊飯器もないんです」
「私のところも似たような感じです。炊飯器がないのも一緒ですし。あ、でもウチには電気ポットがあります」
「あっ、負けました」
竹中がやかんを火にかけて笑った。奥の部屋に目をやりながら、杏梨も笑う。
「引き分けです。ウチには電子レンジがないです」
竹中は奥の部屋へ杏梨を通し、一つしかない椅子を勧めてダイニングへ戻る。カップをどうしよう、という呟きに、杏梨はくすりと笑って部屋を見回した。
家具の少ない、ひっそりとしたフローリングの部屋だった。手前にあるきゃしゃなアイアンのベッドには、白い寝具がきちんと整えてある。簡素な机にはノートパソコンと小さな置時計、そして先ほど郵便受けから取り出した封筒が置かれているだけだった。
収納は作りつけのクローゼットだけで足りているらしく、寂しいくらいに片付いている。とはいえ、不自然さや病的なよどみのようなものはなく、今まで見た部屋のなかで、一番清らかな空間にすら思えた。
壁面の小さな棚には数冊の本が立てかけてあり、『南ヨーロッパの世界遺産』や『教会と十字架』などのタイトルが見えた。その手前には花のような形をしたガラス細工が置いてある。
杏梨はダイニングに顔を出し、ガスレンジの前に立っている竹中に声をかけた。
「お部屋、じろじろ見てもいいですか」
「いいですけど、面白いものはないですよ」
「私、揚げ物ぎっしりのミックスフライ弁当みたいなお部屋より、こういうすっきりしたお部屋が好きです」
話しながらも部屋中を細かく観察する。口の開いたバッグの中や、くずかごの中。怪しい出費の痕跡どころか、余計なレシートも見あたらない。
ダイニングから楽しそうな竹中の声が聞こえた。
「ということは、私の部屋は、ごはんと梅干しのお弁当ですね」
「海苔と梅干しで十分だって、私のお兄さんが言ってました」
竹中の背中に向かって明るく言いながら、杏梨がそっと机の引き出しを開ける。わずかな化粧品や絆創膏。怪しげなものはない。
「うふふ、でも野菜や卵も追加したいところですよね」
「本当は、お菓子のほうがうれしいですけど」
そう言って、竹中の様子を窺いながら他の引き出しを確認する。深見の部屋よりも物がないことに感心していると、筆記用具のトレイの奥に、小さな白い包みが見えた。
お湯が沸く音を察して、一度そっと引き出しを閉めると、竹中が振り向いた。
「緑茶と紅茶と牛乳がありますけど、何がいいですか」
「私、お茶もミルクも好きですから、どれでもいいです」
「では、あいだを取ってミルクティにしましょうか」
冗談っぽく言いながら、竹中がキッチンで紅茶を淹れはじめる。杏梨はもう一度引き出しを開け、先ほどの包みを開いた。白いハンカチに包まれていたのは、五百円玉を少し大きくしたような、クリーム色の円形のガラス板だった。
考える間もなく、小さな月のようなそれをすみやかに戻し、椅子に座る。直後、竹中がトレイに載せたミルクティーを持ってきた。
どうぞ、と少し恥ずかしそうにマグカップを杏梨に手渡し、机にトレイを置く。よかったら、とスティックシュガーとティースプーンを手で示し、竹中は小さな湯呑みを手にしてベッドに座った。
いただきます、と杏梨はカップに口をつけ、本棚にある透明なガラスの花を見る。
「あのガラス細工、ユリかと思ったら、かざぐるまなんですね」
「百合にも見えるからって、お土産で会社の同僚がくれたんです」
「それなら、かざぐるまじゃなくてユリのをくれればいいのに」
「百合はなかったそうですよ」
竹中が少し困ったように笑った。ガラスで作られたかざぐるまは、角度によってユリの花のようにも見える。うーん、とガラス細工を見つめる杏梨に、竹中が呟くように続けた。
「それに私は、あんまり百合が好きじゃないから、ちょうどいいんです」
「……小百合さん、なのに? 花が嫌いなんですか」
杏梨が机の上にある封筒に目をやりながら言う。その宛名には『竹中 小百合』とあった。竹中は一瞬驚き、杏梨の視線を追って笑った。
「自分の名前だけど、百合はあんまり相性が良くないみたいです。花は好きですけど、自分の手元には置かないほうがいいんです」
そう言って竹中はバッグから名刺を取り出し、杏梨に手渡した。
「名前を言うのを忘れてましたね。そんなわけで竹中小百合です。あなたは?」
「あ、佐倉……ええっと、さくらです。南十字さくら」
棚にある『南ヨーロッパの世界遺産』や『教会と十字架』に目をやりながら答えると、珍しい名字ですね、と竹中が感心したように息をついた。杏梨が無理やり話題を変える。
「ところで、竹中さんって彼氏とかいるんですか」
うしろ暗いものを隠している気配はない。あと考えられるのは『男の存在』と深見は言っていたけれど、少なくともここには出入りしていないような気がする。
竹中は笑いをこらえながら言った。
「さくらさん、わかって聞いてるでしょう。そういう人がいれば、私はさくらさんに、こんな器でミルクティを出しませんよ」
「……でも、ちょっと不思議です。竹中さんって、とってもきれいなのに」
少し焦りながら杏梨が言う。本当のところはわからないけれど、竹中は清廉な白い花を思わせるような、たおやかな雰囲気がある。優しい声にも、どこか魅かれるところがあった。
杏梨に見つめられた竹中が、少し恥ずかしそうに言った。
「誉めてもらえてうれしいですけど、私はずっと、こんな感じで暮らしてますよ」
「……寂しくないんですか」
「こういうのは、慣れかもしれないですね。お掃除やお洗濯ができて、ごはんを作れたら困りませんよ」
そう言って竹中が、日本茶を飲むような手つきでミルクティを飲んだ。そうなのかな、と杏梨は少し真面目な顔をする。
「お掃除やお洗濯ができても、自分のことを自分一人で決めて、正しく暮らすなんて、できないです。私には」
「正しくなんて、私だって無理ですよ。ただ、決めるべき人間が自分しかいないだけです」
「……そういうの、怖くないですか」
どこか真剣な杏梨の声に、竹中のまなざしが変わる。宙を見ながら杏梨が続けた。
「決めることって、本当はとっても怖いです。だからいつも友達を巻き込んじゃうんです。食べちゃいけないケーキを『この子にあげたいから』って理由をつけて、二人で食べちゃったり」
「経過はどうあれ、食べたかったケーキを二人で食べることができたなら、そんなに悪いことでもないでしょう」
「でも、いつも大事な友達を巻き込んで、いろんなことを変えてしまうと、時々とても怖くなります。一番いい方法がわからなかったから」
ぼんやりと宙を見つめる杏梨に、竹中はやわらかな声で言う。
「そんなふうに思えるのは、さくらさんがその友達のために、真剣に考えて決めたからですよ。決めることは勇気が要ります。選ぶということは、ほかの選択肢が持つ可能性を、捨てる覚悟がいるでしょう」
「……そういうとき、どうやって決めるんですか」
杏梨の呟くような問いに、竹中が目を細めて答える。
「一番いい方法なんて、考えても私はわかりませんでした。結局、大事なことを感情で決めてしまいましたから」
だからあまり参考にはならないですけど、と竹中が湯呑みを机に置き、杏梨と向き合う。
「さくらさんから見て、今のほうが不幸ですか? そのお友達は、笑ってないの?」
「笑ってくれます。今のほうが……今だけは、いいです」
目を伏せながらも強く言い切る杏梨に、竹中が笑いかける。
「それならきっと、私だったら後悔しないと思います。正しいかどうかはともかく、大事な人が笑ってくれたら、心は納得できるでしょう」
「竹中……さんも?」
「さゆり、でいいですよ、さくらさん」
竹中が膝の上でほっそりとした指を組む。その白い指をじっと見つめて杏梨が尋ねた。
「小百合さんの大事な人も、笑ってくれたんですか」
「……わからないんです」
穏やかな笑顔のまま、竹中が首を横に振る。杏梨が重ねて問いかけた。
「じゃあ、後悔してるんですか」
「いいえ。自分にとって、一番避けたいことを避けられたから、納得はしています。さくらさんもそうだったから、大事なことを決めたのではないですか」
「……そうですけど、その先が行き止まりなのをわかっていて、私は友達を巻き込んだんです」
どこか苦しげに杏梨が目を閉じると、竹中は組んだ指に力を込めて言った。
「最悪を避けるためなら、仕方がないと思いますよ。行き止まりの形をしていても、世界は終わりません。生きている限りは、続きがあります。大事なものは、決断の先にあるんだと思っています」
言葉を切った竹中が、杏梨を見る。しばらくの沈黙のあと、恥ずかしそうに竹中は続けた。
「……なんだか、大げさでしたね。私はただ、無理やり進路を決めて、親しかった人と会えなくなってしまっただけなんです」
「私もちょっとオーバーでした。私は、自分の進路に友達を付き合わせてしまっただけなんです」
杏梨も肩をすくめて笑う。ふっと二人で力を抜いたとき、学生カバンから携帯電話の振動音が響いた。
指定の場所に杏梨が来ていないことに、深見は最悪の状況を想定していた。道路の脇に停めた車内で、携帯電話を睨みながら考える。
学生カバンには本物の勉強道具が入っているし、自分との繋がりを示すようなものはない。身元を検められるような状況に遭遇した際は、持たせている携帯電話は隙を見て捨てるか、拾ったものだと話すことになっている。
今、杏梨に連絡を入れるのは得策ではない。一番避けるべきは自分の身の破滅だ。トラブルやアクシデントに遭遇した際は、切り捨てるという取り決めもしている。
今、杏梨に何かが起きているとすれば、プフランツェの回収に失敗したか、なんらかの事故などに巻き込まれたか。あるいは変質者に連れ去られている状況も考えられる。
しばらく考えたあと、深見は睨んでいた携帯電話を操作し、杏梨の番号を呼び出した。厄介な状況にあるなら、『杏梨です』とは応答しないはずだ。電話の向こうが杏梨ではない場合もある。
起こりうる様々な状況を想定しながら、深見は携帯電話を耳に押し当てた。しばらくコールしたあとに、電話が繋がる。
『あ、お兄ちゃん?』
明るく楽しそうな杏梨の声に、深見は黙って耳を澄ます。
『さくらね、塾の帰りにちょっと寄り道してて遅くなっちゃったの、ごめんなさい』
杏梨が勝手に話を続ける。私が説明しますから代わりますよ、と別の女性の声が聞こえた。杏梨が慌てて言う。
『ダメです、うちのお兄ちゃん、小百合さんが美人ってわかったら、お礼とか理由つけて誘いまくりますから。結構ねちっこくてしつこいですよ。……あ、お兄ちゃん、さくら今、竹中さんっていう人と話してたら遅くなっちゃったの。うん、お兄ちゃん妹の前でもナンパするから代わってあげない。ふふ』
深見は黙ったまま、はしゃぐような杏梨の声を聞く。どういうわけか、竹中小百合と接触しているらしい。
『そんなわけで今から帰るね。駅まで竹中さんと一緒だから平気。竹中さんの家? んー、言いたくないなあ。本屋さんを右に曲がってコンビニを左にー、あれ、右だったかな?』
深見は黙ったまま目元を押さえ、ため息をつく。はしゃぐ声の脇から、竹中小百合のやわらかな声が聞こえた。
『そういうときは、秘密ですって言えばいいんです。ごまかすために嘘を考えるより、素直に『秘密です』って言うほうが楽ですよ』
あ、そうか、と杏梨が笑う。そんなわけでじゃあねー、と電話は切れた。
駅に到着すると、杏梨は深く頭を下げた。
「ありがとうございました、小百合さん」
「これくらい、お安いご用ですよ」
照れたように笑いながら手を振ると、竹中はすっかり暗くなった街並みを眺めて言った。
「気をつけて。遠回りでも、ちゃんと明るいところを歩いてくださいね」
手を振って別れたあと、杏梨は帰っていく竹中を確認し、脇に停まっている深見の車に近付いた。いつものように後部座席へ乗ろうとすると、深見が助手席に乗るよう手で示す。
乗り込んだ杏梨がドアを閉めると、深見は車を出した。しばらく沈黙が続く。何から叱られるだろう、と杏梨も黙っていると、深見が口を開いた。
「どうだった」
「……真面目で、少し変わった感じの人です。悪い人という感じではなかったです」
話しながら窓の外を見る。流れる夜景を見るのは久しぶりだった。初めて深見の車に乗ったとき以来かもしれない。
「部屋にはあまり物がなくて、今まで入った部屋のなかでいちばん質素でした。前にテレビで見た、修道女の個室みたいです。食器も一人分しかありませんでした」
竹中の部屋を思い出しながら報告する。不審なものは見つからなかったし、多額の出費や悪事を窺わせるものもなかった。不審なカードや会員証どころか、請求書のたぐいも見当たらなかった。
「贅沢品はありません。ベッドと机はありましたが、服の数も多くなさそうです。テレビもありませんでした。宝石とかもなかったし、詳しくはわからないけど、化粧品も最低限のものしかありませんでした」
「そうか」
深見は前方を睨みながらそれだけ言った。信号待ちのあいだ、一瞬杏梨に目をやる。
「お前は、乃梨子といるときと、そうでないときは別人だな」
「でも、深見さんと二人のときに私がはしゃいでいるのも気持ち悪いでしょう?」
笑いを含んだ声で杏梨が答える。深見が考えるような顔をした。
「乃梨子といるときのお前は、あえてああなのか」
「だって、乃梨子が不安になるから」
「……杏梨」
外の景色を眺めている杏梨に深見が尋ねる。
「お前はどうしてここにいるんだ」
「なんの話ですか」
「二人セットで可愛げなフリをしているが、お前が乃梨子に付きあう理由はあるのか」
「二人セットじゃ、駄目ですか」
責めるような杏梨の視線に構わず、深見は前を見ながら言った。
「お前が乃梨子を放っておけないのはわかる。だがお前は、ただ乃梨子に付きあうためにいるわけじゃない」
「でも、危険な見知らぬ男の人と、乃梨子を二人きりにするわけにもいかないですよ。決めたのは私です」
「俺にそういう危険はない、と即座に判断したのはお前だろう」
しらじらしい、というように深見が睨む。杏梨はくすりと笑った。
「深見さんが悪い人じゃないっていうのは間違ってませんでした。勉強も教えてくれるし、今もこういう話を乃梨子のいないところでしてくれる」
「ねちっこくて、しつこい女好きの兄呼ばわりされても怒らないしな」
無表情のまま深見が呟く。ちょっとは気にしてたんですね、と杏梨が意外そうに笑った。
「私や乃梨子をこんなふうに外へ出してくれるし。……いいんですか」
「最初から決めてあるだろう。俺に危険が迫ったり、手に負えない状況になったら切り捨てる」
「そんな人じゃないと思いますけど」
「まともな人間なら、そもそもお前達とも関わっていない。怖いなら、自分の家に帰ったほうが身のためだぞ」
他人事のように深見が言うと、杏梨も他人事のように笑った。マンションの駐車場に車が到着する。
「お前の『お兄ちゃん』が見つかっているのは知っているか」
「……私も乃梨子も、あんまりテレビは見ないようにしてるんです。いつですか」
「お前達が消えた年の冬だ。驚かないのは、わかっていたからか」