7 グッピーとカッパ娘
午後三時過ぎ、乃梨子と杏梨はプールがある大型施設の外にいた。二日ほど調べたところ、例の『カッパ娘』は中学生で、学校が終わると自宅へ戻り、このプールへ泳ぎに来ている。家は留守がちで、サプリメントの持ち主である姉は旅行中だ。
「乃梨子なら泳ぎも得意だし、とりあえず、仲良くなれたら話は早いよね」
そう言って杏梨がにやりと笑うと、乃梨子の持つ携帯電話から深見の声が響いた。
『絶対に無理はするなよ。お前達がしくじれば、俺は破滅するんだからな』
「大丈夫です。仮にそんなことになったら、私達も終わりですから。何かあっても、絶対に深見さんの名前は出しません」
なだめるように乃梨子が言った。普段は深見の監督のもと、不自然に思われない時間帯のみ行動しているが、今日は深見が抜けられないので、二人だけで外に出ている。
杏梨も深見に聞こえるように言った。
「何かあっても、携帯は『拾った』って言うんだしね。そうだ、この服も『盗みに入った深見さんって人のお部屋に、偶然ちょうどいい女の子の制服があったから』ってことにしようか」
「それなら深見さんの購入履歴と、つじつまが合うかも」
少し笑いながら乃梨子が携帯電話に耳を澄ますと、深見の冷たい声が聞こえた。
『本気で言ってるなら、二度と外には出さないからな』
電話を切り、しばらく待機していると、ビニールバッグを持ったポニーテールの少女が現れ、建物の中へ入っていった。カッパちゃんだね、と杏梨が囁く。乃梨子は水着の入ったバッグを持ち、少しだけ不安そうに言った。
「ね、もしまた誰かに『会ったことない?』って聞かれたら、どうしよう」
「うーん、逆に『会ってますよ』って言っちゃえば? 『よく見かけますね』って言えば、単純でお人よしな人なら納得するんじゃないかな?」
杏梨がいたずらっぽく笑うと、乃梨子もほんのり笑って頷く。
「ん、なんか難しいけど、いい人っぽい相手になら、そう言ってみる」
施設に入り、受付前のフロアに杏梨を残し、乃梨子だけがプールの利用を申し込む。
平日の昼過ぎは利用者が少なく、更衣室のロッカーはほとんど空いていた。それなのに、ロッカーではなく棚にタオルや荷物をそのまま置いている人もいる。
水着に着替えてスイムキャップを被り、荷物をロッカーに入れて鍵をかけた。鍵に付いているコイル状の輪を手首に通してプールへ向かう。
光が差し込む温室のような空間には、メインのプールと子供用のプールがあり、浅い子供用プールでは母親と小さな子供が水を掛け合っていた。
軽く体を動かし、シャワーを浴びる。メインプールの競泳用レーンでは、ゴーグルをつけた『カッパ娘』が伸びやかに泳いでいた。
とりあえず近付いてみよう、と水に入る。いったん深く潜り、水の感触を久しぶりに味わいながら壁を蹴った。水を掻きながら目を開けると、青い光のなかで細かな空気の粒が昇っていくのが見える。
水槽のグッピーを思い出しながら、乃梨子は体の動くままに泳ぎはじめた。隣のレーンにはカッパ娘が泳いでいる。グッピーが追いつけるか試してみたい。
楽しみながらプールの端と端の間を往復しているうちに、カッパ娘を追い抜いていた。最後に潜水したまま壁へ到達し、足をついて息を整えていると、隣のレーンのカッパ娘が追いついてくる。
「けっこう速いね」
カッパ娘がゴーグルを外しながら話しかけてくる。反射的ににこりと笑うと、カッパ娘も明るく笑った。
休憩してください、という係員の指示で全員がプールから上がり、プールサイドのベンチに二人で座る。知らない子と話すのは苦手だけど、深見のためにもがんばりたい。
乃梨子は、杏梨になったつもりで明るい声を出した。
「でも泳ぐの久しぶりだから、フォームが変かも、私」
「え、部活じゃないの? 学校のプールは?」
驚いたようにカッパ娘が目を見開く。ぽたぽたと落ちる水を気にしながら、乃梨子は申し訳なさそうに言った。
「ただの練習だから、学校のプールはちょっと」
「じゃ、あたしと一緒だー。学校のプールって狭いし、実は他の子達がちょっと邪魔で、こっちで練習してるんだ。先生も『あとはトレーニングだけがんばればいい』って言ってくれたから」
「あ、わかる。きれいなフォームだったもん」
乃梨子が言うと、なんか恥ずかしー、とカッパ娘がうれしそうな声を出した。でもさ、と乃梨子の目をじっと見つめる。
「ゴーグルしたほうがいいんじゃない? せっかく目が大っきいんだから、悪くしちゃだめだよ。あたしのでよければ貸そうか?」
カッパ娘は少し羨ましげに笑った。
二人で更衣室へ行くと、カッパ娘は、棚に置いてある荷物のひとつに手を伸ばした。驚いている乃梨子の前で、これでよければ、とビニールバッグからゴーグルを出す。ありがとう、と乃梨子が遠慮がちに笑った。
「でも、……ロッカー使わないの?」
「手首に鍵ついてると泳ぎにくいし、持っていかれるようなものもないから平気だよ。混んでる日はこうしてる人多いし、あたしはほとんど毎日通ってるから慣れちゃった。家が近いから、水着だって着てきちゃうし」
そう言ってカッパ娘がビニールバッグを棚に置き、その上に服とタオルを被せる。そうなの? と乃梨子は拍子抜けしながら笑った。
プールへ戻り、ゴーグルをつけたカッパ娘がフォームについて語りながら水に入る。借りたゴーグルをつけた乃梨子は少し考えるような顔をして、手首からロッカーの鍵を外して見せた。
「やっぱり私も手首が気になるから、置いてくるね。先に泳いでて」
おっけー、とカッパ娘がすっと水に消える。ほんとに河童みたいかも、と思いながら小走りで更衣室へ移動すると、見学エリアから見ていた杏梨が入ってきた。
実は、とカッパ娘のビニールバッグを指差して説明すると、出しっぱなしなんだ、と杏梨が肩を震わせて笑った。乃梨子も笑って手首に付けていた鍵をロッカーに差す。
「そういうわけで、これからまた一緒に泳ぐから、三十分は平気だと思う」
「それなら余裕。乃梨子もがんばってね」
じゃあね、とプールへ戻る乃梨子を見送り、杏梨はすぐにカッパ娘のバッグから家の鍵を取り出す。一瞬考えたあと、杏梨は急いで乃梨子の服に着替え、タオルを被りながら外へ出た。
『カッパ娘』が着ていた服装は白のブラウスにベージュのチェック柄スカート。乃梨子の服なら、もし誰かに目撃されても、プール帰りの『カッパ娘』に見えるかもしれない。
夕方にさしかかる四時ごろ、竹中はプフランツェを送付したモニターを尋ね回っていた。
住所録が消えてしまったせいで、対象サンプルの回収は遅れている。配布から時間が経っているせいもあるけれど、返送してくれたモニターは思っていたより多くなかった。
次の訪問先を確認する。モニターのほとんどは忙しい日々を送る二十代の女性で、希望の時間を聞いたところで空振りが多い。
さて、と手帳を閉じたとき、携帯電話に着信があった。立ち止まり、電話に出ながら通りを眺める。右手には次に向かう予定の家、その先に市民プールのある大きな施設が見えた。
『竹中君、今は出先かな』
気遣うような逢坂の声に、大丈夫です、と竹中が進捗を報告する。視界の端に、頭にタオルを被ったベージュのスカートの少女が見えた。これから訪問する予定の家へ入っていく。
『特に回収が遅れているのは、昨年末にサンプルを送付したグループだったね?』
「はい、モニターさん達のお宅も回っているのですが、なかなかお会いできなくて。運よくお会いできても、不自然なくらいに『紛失した』とか『消えた』とおっしゃるモニターさんが多いんです」
『返却したくない』という声はこのグループに限らないが、『紛失した』と断られるのは少し不可解だった。月曜に病院で会ったモニターの女性も『なくなった』と言っていたが、決して噓とは思えなかった。
『何者かが、回収を邪魔している可能性は?』
「え……?」
『いや、そういう気配がなければそれでいいんだ。ただ河出君のことがあったからね。今は少し大変だけど、よろしく頼むよ。君のおかげで安心して仕事ができる』
ありがとうございます、と竹中が宙に向かって頭を下げる。その先に見える家から、先刻の女の子が現れた。タオルを頭に被ったまま、市民プールのある方向へと早足で向かう。女の子の手元が一瞬、ピンクゴールドに光ったような気がした。
『一応、モニターのデータと面談の記録を提出してもらえるかな。私のほうでも少し調べてみたい』
「わかりました。それでは次のモニターさんのお宅へ伺います」
竹中は電話を切り、再び歩き出した。
仕事を終えた深見が部屋に戻ったのは七時過ぎだった。手にしている箱を見て、乃梨子と杏梨がうれしそうに目を光らせる。
「わーい、ドーナツだー!」
珍しいね、とうれしそうに手を取り合う二人に、深見がサラダの入った袋を突きつける。
「ただし野菜を先に食え」
はーい、と二人が声をそろえてサラダを手にする。プチトマトをつまみながら杏梨が聞いた。
「深見さんは食べないの?」
「俺はいい」
「あの、私達、簡単な料理くらいしますよ?」
乃梨子が深見の背中に問いかける。深見の部屋には、来客を想定した食器や調理器具はない。コーヒーを飲むためのマグカップが一つと、使い道のなさそうな果物ナイフだけだった。机に向かった深見が書類を取り出しながら言う。
「一人暮らしの俺が、鍋だの炊飯器だのを買い始めたらおかしいだろう。今後もお前達に生活の世話をさせるつもりはない。お前達を隠すだけでも手一杯なんだ。自分の事は自分でやれ。とっとと自立しろ」
「はい、努力します」
そう言って乃梨子がドーナツの箱を覗き込む。中にはチョコレートや粉砂糖がかかった三種類のドーナツが二個ずつ入っていた。いただきまーす、と杏梨が砂糖のかかったドーナツをつまむと、深見が二人を睨みながら言った。
「食べたら歯を磨け。あとは勉強していろ」
歯を磨いたあとの二人は、じゃあ勉強しまーす、と宣言し、寝室のベッドに寝そべりながら適当にノートを開いていた。やがてどうでもいい会話が混じるようになり、杏梨の拗ねたような声が聞こえた。
「お鍋や炊飯器はなくても、電子レンジくらいあってもいいよね。あと、かわいいカップ。だめって言われたけど」
「でも、歯ブラシとか勉強道具は買ってくれたよ。靴とか」
「制服とか下着とか水着とかもね」
くくっ、と笑う杏梨に、乃梨子が声をひそめて言う。
「でも、水着なくてもいけたね。……なんだか、今日は眠いかも」
「プールに入ったからだよ」
しばらくすると、二人の声が聞こえなくなった。深見が寝室を覗くと、乃梨子は参考書を掴んだまま体を丸くして眠っていた。杏梨は数学のノートを枕にして、うつ伏せで眠っている。
深見は部屋の照明を落とし、煙草を咥えてベランダに出た。
二年前、隈池病院でウシタ製薬の河出に同行している竹中を見た。
研究施設を増やしたいウシタ製薬が、土地を多く所有する製菓会社と合併したという話は深見も知っていた。より詳しい話を聞き出すため、同じ病院に出入りしている河出に接近した。
「今年に入ってから気が休まらないんですよ」
河出の趣味である釣りに付きあい、何度か水辺で話を聞いた。
今回の合併は、それに伴った人員の削減も多く、現場の混乱やストレスは想定よりも大きいものだったという。組織が引き継がれず解体されてしまった部署もあり、所属が決まらない社員も少なくない。河出は、その中に不審な動きを感じているようだった。
「合併のせいだけでなく、おかしな事が起きているような気がして」
「妙な形跡でもあったんですか」
「ええ、形跡というか、動きというか……例えばここも、です」
河出が釣り竿を固定しながら後方に目をやる。この日、河出に連れられて来ていたのは『ウシタ製薬 日辻研究所予定地』の近くにある湖だった。予定地とはいっても建物はほぼ完成していて、一部の人間はすでに出入りしているのだという。
「そういえば、最近同行されてる女性はMRですか?」
「……ああ、竹中ですか。彼女はMRではありません。一時的に私と同行しているだけです。製菓会社側の人間なんですが、女性向けサプリメントの開発チームにアサインされています。ここの施設も、恐らくそのチームが主に使用するはずです」
河出はいったん言葉を切ると、周囲を窺うような素振りを見せて続けた。
「なぜか、私もそのチームに名前が入っているんです」
「河出さんが? 会社もまだ混乱しているんじゃありませんか」
「だとしても、突飛な話です。一時的な、名目上の話だけならわかるんですが。新しい直属の上司も、無関係な部署をいくつか統括していることになっていますし、何かおかしなことに巻き込まれているんじゃないかと」
考えすぎですかね、と水面を見つめながら河出が笑う。合併の混乱はよくある話だろう。組織がまとまらないのも珍しくない。不本意な異動に腐る社員はどこにでもいる。
ただ、本当に不穏な動きがあるのなら、この混乱を利用しない手はないだろうし、そこにあの女が関わっている可能性は十分にある。竹中の裏の顔を暴くなら、こっちもこの好機を逃す手はない。
その後も深見は水辺に出向きながら、河出の話を聞いた。釣りの真似事をするのも厳しくなってきた去年の冬、酷く憔悴した河出から書類を預かった。身の危険を感じているようだった。
見てもいいかと尋ねると、構わないが、まだ説明はできないという。実際に目を通してみたが、この書類だけで何かを理解することは不可能だった。
「勘違いならいいんですが」
詳しい話はいずれまた。そのやり取りが、河出との最後の会話だった。
その後、ウシタ製薬のMRであり、隈池病院の担当だった河出は、行方が解らなくなっている。捜索願は出ているらしいが、騒がれてはいない。代わりに見かけるようになったのが、逢坂という男だった。
その後、竹中は逢坂の指示で、サプリメントを担当しながらも病院に出入りしている。河出の失踪との関連は不明だが、その直後、竹中がモニターに配布した『プフランツェ』の回収が急遽始まった。理由は商品名及びラベルの変更で、中身に問題はないという。
だが、一部のモニター達は回収に応じたがらない。インターネット上に公開されているモニター達のレビューの中には、使用者の感性や思い込みだけとは考えにくい内容も書き込まれている。配布した『プフランツェ』に何かがあるのは明らかだった。
協力させろという乃梨子と杏梨を使い、深見は無防備に情報を公開しているモニター達を探し出し、竹中より先に『プフランツェ』を盗み出した。
二、三本でも十分だったが、乃梨子と杏梨が面白がって回収したがるせいで、手元のプフランツェは十本以上になる。そろそろ異変に気付くかもしれないが、それはそれで構わない。
むしろ、その反応で『プフランツェ』と竹中の正体に推測がつくだろう。