6 ディザイア
翌日も、守口は朝早くから水の入ったバケツを運び、段ボールを運び、葉や茎の詰まったポリ袋を運んでいた。
みどりは市場で買い付けた花の処理に追われている。母の日が近付いた橘フラワーにはカーネーションが溢れていた。
「はい次、持ってきて。この子達が弱る前に、とにかくやっつけないと」
言いながら、みどりが仕入れた花を手早くバケツの水に漬け、枝葉を切る。次はあれ、次はそれ、と次々に指示が飛ぶ。朝の作業はいつも慌ただしいが、今週に入ってさらに慌ただしくなってきている。
「このあとイヌイ園芸さんに行くから、助手頼むね。隈池病院に納める観葉が準備できてるから」
「了解です。なんか、ヤバくないですかみどりさん」
「ヤバいかどうかはまだわからないけど、母の日が終わるまでは不眠不休みたいなもんよ。タウリン千ミリグラムだろうが、マムシエキスだろうが、効くならなんでも持ってきて。飲むから」
視線を手元に固定したまま、みどりが鋏を動かす。ポリ袋を持ち上げながら守口が言った。
「まだ木曜ですよ。母の日って日曜じゃないですか」
「もう木曜じゃない。私達にとって、母の日はその前後三日間なの。早めに母の日する家も多いし、うちはスタッフが配達するから、日曜に全部ってわけにはいかないもの。アレンジメントの作り置きもなるべくしたくないし」
「え、マジで大丈夫なんですか」
普段は、病院や店舗に置く大型の観葉植物をみどりが軽トラで運び、花束やアレンジメントは主に守口が配達している。
「近場だけだし、無茶な予約も受けてないから平気。何がなんでも母の日に、っていう注文は避けてるしね。ほかの花も多少は入れておきたいし」
「いえ、配達が心配なんですけど。さすがに宅配業者の出番だと思ってました」
床の掃除をしながら守口が顔色を窺うと、作業を終わらせたみどりが手を拭きながら言った。
「花を傷つけたくないから、なるべく自前で届けるの。それに、大量の花を一カ所に持って行くわけじゃないから、車なんて出さないわよ」
「一応聞きますけど、どうするんですか」
「あんたの出番。そのためにいるんだから覚悟なさいな」
「……本当に僕って運び屋なんですね」
「じゃなきゃ、スクーター乗りまわしてる宅配ピザ屋の男の子なんかスカウトしないわよ」
そろそろ行くぞ運び屋、とみどりが軽トラの鍵を掴んで笑った。
昼過ぎ、杉原が食堂へ行くと、窓際の席で守口が寛いでいた。観葉植物を入れ替えたらしく、窓辺にあった細い葉のアレカヤシが、重量感のあるゴムの木に変わっている。
「ここは学食じゃなくて、病院だって知ってるか」
杉原はしかたなく守口の向かいに座り、トレイを置いた。午後は休講になったから、と守口がトレイの焼き魚定食を覗き込む。
「花屋はどうした」
「夕方から。今日は朝早くからがんばったんだよ僕。それより僕、玲兄ちゃんに相談が」
「ぼくぼくうるさい。あと兄ちゃんって呼ぶな」
そう言って杉原が食事を始めると、守口が泣きそうな目をする。
「杉原さん、なんか僕には怖い。他の人には別人みたいに優しいのに」
「患者さんに優しいのは当然だろ。白衣着てるときの俺は営業中なんだよ」
「今だって白衣じゃん。小高さんや竹中さんは誰にでも優しいよ? ラムネくれたし」
「竹中さんも営業。くれたのはラムネじゃなくて試供品のサプリ」
ラムネみたいなサプリじゃん、と言い返す守口に構わず、杉原は箸を動かす。
そこに茶封筒を持った小高が現れ、杉原の前に座った。
「これ、このあいだの研修参加費の立て替え分です。……ところで杉原君、今日はジェームズ・ボンドですか」
「えっ?」
「胸ポケットに花が見えたので」
慌てて杉原が胸元を見る。白衣の胸ポケットに、昨日拾ったドライフラワーの花首を入れたままだった。
「あ、まあ、これはちょっと」
「ジェームズボンドって、こんなのなんですか」
守口が杉原を指差すと、まあちょっと違いますね、と小高が笑った。
どっちかというとジョニーイングリッシュのほうじゃないかな、と守口がビスケットの箱を取り出し、クリームサンドのビスケットを慎重に剥がしはじめる。普通に食えよ、と杉原が叱るように言うと、ああっ、という声とともにビスケットが割れた。
「もう。占ってたのに」
「花屋なら花占いでもしてろ」
「花屋だから花には優しいの。あ、でもこれ『何かが当たる』のパターンだ。ほら、ここのクリームの形が」
ほらほら、と守口が剥がしたビスケットを見せようとする。いいから食後の薬を飲め、と水を差し出す杉原に、じゃあこれあげる、と守口が小袋のビスケットを押し付けた。
「杉原さん用のお薬。食べるといいことあるよ」
「そんな薬があってたまるか」
「ラムネでも信じて飲めば効くこともあるって言ってたじゃん」
「プラシーボと縁起担ぎを一緒にするな」
杉原が冷たく言うと、小高が微笑みながら口を挟んだ。
「まあ、奇跡みたいなことは結構ありますよ。病院でも」
「ほらー。小高さんも言ってるじゃん」
小高さんもどうぞ、と守口がビスケットの小袋を差し出す。いただきます、と受け取った小高が立ち上がり、では、と食堂を出ていった。
薬を飲んだ守口が、そうそう、と少しだけ真面目な顔をする。
「僕、あの子と再会できたんだよ。病院とぜんぜん関係ないところで見かけちゃった」
「見かけたのと再会は違うぞ」
「再会して話したの!」
それは奇跡だな、と杉原が時計を見る。でね、と構わず守口が続けた。
「可愛いんだよ。目が大きくて、ふわっと笑う感じで。で、やっぱり会ったことあると思って聞いてみたんだけど、お兄さんらしき人が来て、もう一人の女の子と入れ替わりに白い車で帰っちゃった。妹って言ってたけど、誘拐犯かもしれない」
「何言ってるんだお前」
呆れたような杉原に、真面目に聞いてよ、と守口が真剣な顔をする。
「ずっと思ってたんだけどさ、あの子、僕がこっちに引っ越してくる前の町で、時々見かけてた子に似てるんだよ。あと、調べてわかったことなんだけど」
杉原が眼鏡を直す。三年前まで守口は、日辻町という比較的のどかな地域に住んでいた。でさ、と守口が続ける。
「高校に入るタイミングで引っ越しちゃったから、僕はよく知らなかったんだけど、その次の年に、いなくなった子供がいるんだよ。ニュースにもなってた」
「……同じ子供だっていうのか」
「たぶん。僕は、あの子を知ってる。……と思う」
真剣に頷く守口に、待て、と杉原が手のひらを見せた。
「ちょっと待て。あの子っていうのは、お前が月曜に体当たりした子だよな? で、日辻町で見かけてた子に似ている。さらに行方不明になった子かもしれないという情報を得て、お前はそれを一緒くたにしてる。でもその三つを簡単に繋げて考えるのは」
「でも、おととい見かけたとき、一緒にいた女の子に、『ノリコ』って呼ばれてた。調べてみたら、二年前に日辻町で行方不明になった女の子は、佐倉杏梨と、桜井乃梨子って名前なんだよ?」
「……それを、本人に聞いたのか?」
「ノリコちゃん、って僕が呼んだら、違いますって言った。あと、僕のことも覚えてないみたいだった」
「それ顔のせいだろ」
杉原がすかさず指摘すると、あっそうか、と守口が納得する。
「まあ顔のことはともかく、この話がニュースになったのって、桜井乃梨子ちゃん達がいなくなって、二カ月も経ったあとなんだよ。当時六年生なのに」
「誘拐の可能性があるから、報道を控えてたんじゃないか?」
「でもさ、二人がいなくなったのが五月、捜索願が出されたのは七月だったらしいよ。で、思ったんだけど、僕が見たもう一人の子、佐倉杏梨ちゃんじゃないかな」
身を乗り出す守口に、杉原が心配そうにため息をついた。
「……聞き間違いと勘違いだろ。もしそうなら今は十四歳……中学生くらいの外見だぞ」
「それくらいに見えたし、もう一人の子もアンリって呼ばれてた……と思う」
「その二人が桜井乃梨子と、佐倉杏梨……なのか?」
「だと思う。違うって言われたけど」
あとお兄さんっぽい人から不審人物みたいな扱いを受けた、と不本意そうに守口が言う。杉原はテーブルに肘をつき、息を吐いた。
「だったら違うんだろ、ちゃんと家族もいるし。お兄さんの対応も決して間違ってない」
「お兄さんと名乗ってるだけの誘拐犯に『シラを切れ』って言われてるのかもしれないじゃん。僕の占いでも『なんか当たる』って出たし」
「俺の意見はビスケット以下か」
「だって杉原さんが僕の話を聞き間違いとか勘違いとか妄想とか言うから」
「妄想はまだ言ってない。じゃあ一応聞くけど、誘拐だったらなんのために?」
「ん、あんまり心の汚れた発想はしたくないけど、……可愛いから、かな」
真剣な目をして守口が言い切る。杉原は眼鏡を押さえ、考えながら言った。
「たとえばの話だけど、誘拐されて監禁された状態が続けば、大人でも恐怖やストレスで尋常じゃいられないだろうし、長期に及べば心の病へ至ることもあり得ると思う。そういう兆候は外見のどこかに反映される。その子は、そういうふうに見えたのか?」
「……それは……あれ、おかしいな」
「あるのか」
「ううん、ぜんぜんない」
守口が天井を見ながら言い切る。あの子は楽しそうだった。酷い目に遭っているようには見えないし、そもそも、誘拐されて外を自由に歩けるのは変だ。
考え込んでしまった守口を横目に杉原がため息をつく。昼休みも終わるな、と廊下に目をやると、スーツを着た男が小児科の医師と立ち話をしているのが見えた。
そろそろ行くか、と立ち上がる杉原を、突然守口が制した。
「あの人。あの人がノリコちゃん達を連れ回してる犯人!」
「え、小児科の宇津井先生が?」
「え、小児科の先生と話してるの? 絶対おかしい」
指名手配犯を見るように、守口がスーツの男を凝視する。おい待て、と杉原が慌てて宥めた。
「よーし待て。落ち着け」
「やっぱりあれだよ、入院してる女の子を誘拐するために下見に来てるんだよ」
「病気の子をさらってどうする。あの人は医材屋さんだよ」
「ディザイア!?」
「医材屋!」
ばかもん、と杉原がぺちんと守口の額を叩いて続けた。
「医材業者……あの人は、医療機器会社の深見さんだよ」
「なにそれ。欲望は関係ないの?」
「ないない。医療機器だけじゃなくて医療材料も扱ってるから、医材屋さんって呼ばれてる。注射針や聴診器なんかも納品してる」
立ち上がった杉原が、椅子の位置を直してトレイを持った。遠ざかる医師と医材屋を目で追い、マジなの、と守口が不安そうな声を出す。
「やっぱり、聴診器で本格的なお医者さんごっこしてるんじゃ」
「落ち着け葉一。お前の心は結構汚れてる」