5 フラワーアレンジメント
水曜の早朝から、守口はゴミ袋やバケツを持ってせわしなく動いていた。『橘フラワー』店長のみどりも、花の入った箱を抱えて大股で動き回り、花ばさみを鳴らしている。
「とりあえずいったん終わり。休憩しよう」
そう言ってみどりが肩をぐるぐると動かす。ちゃんと学校に行きなさい、とみどりに言われている守口がアルバイトに入るのは、主に早朝と夕方だった。
「花によっては、かすみ草より葉物やヒペリカムを合わせたほうが可愛い雰囲気が出るんですね」
店内の椅子に座った守口が、みどりの作ったミニブーケを眺めて言った。なにごと、とみどりが守口を見る。
「どうしたの。花屋みたいじゃない」
「勉強してきました」
得意気に親指を立てて、守口が知ったような口ぶりで続ける。
「ブーケやフラワーアレンジメントって、花だけじゃなくて、野菜を使ったりするのもアリですよね」
「そうね、上級者向けかもしれないけど、プチトマトやミニかぼちゃ、トウガラシなんかを使う人が多いかな。初心者なら、ミニりんごとかミニパイナップルがお薦めだけど」
そう言ってみどりが切り花のコーナーに目をやった。その端にはアクセントに加えるためのブルーベリーやブラックベリー、赤い実をつけたヒペリカムなどが並んでいる。
守口はおもむろにスマートフォンを取り出しながら言った。
「その、上級者向けのを、僕も作ってみたんですよ。『花風水で金運アップ』がテーマです」
キメ顔を作る守口に、風水? とみどりが考えながら言う。
「ああ、『西に黄色い花を飾って金運が上がる』とかね」
「それです。黄色をメインに、ちょっと個性を効かせたフラワーアレンジをしてみました」
画像を表示させたスマートフォンを守口が差し出す。その画面を覗き込み、みどりが絶句した。
咲きはじめのユリと黄色いカーネーション、オレンジのガーベラで作られたドームに、九条ねぎや丹波しめじ、万願寺とうがらしがまんべんなく刺さっている。
「どうですか。昨日、スーパーで買った花と野菜だけで作ったんです」
「……なんて言えばいいのかな、これをフラワーアレンジメントと呼んじゃいけないような気がする。野菜はあとでちゃんと食べなさいよ」
京野菜じゃない、とみどりが画像を凝視する。
「姐さん、フラワーアレンジメントとしての感想が欲しいです」
「……アルチンボルドみたい。あと花ならウチで買いな」
アルチンボルド? と検索した守口が、花と野菜がみっしり詰まった肖像画を見て変な声を上げる。みどりは少し考えてから真面目な顔で言った。
「まあ、こういうジャンルも存在するから、いろいろやってみるのはいいと思う。でも、もう少し引き算することを覚えたほうがいいかもね」
引き算ですか、と守口が首を傾げる。
「実ものは小さめのものを選んで。あくまでもフラワーアレンジメントとして作るのなら、花を飾るっていう主目的を忘れないこと。あと構図に合わないと思ったら、不要な実や花は落とす。ユリの花が乱雑に見えるでしょう?」
「あー、もったいないし、ちょっと可哀想じゃないですか」
「そんなこと言ってたら、生け花の先生はもっと容赦ないよ。生ける形を決めたら、残す部分以外は、花やつぼみがあっても切り捨てるの。一つの枝を選んで、それ以外の枝を切る覚悟をする。本当に必要な枝を活かすために」
みどりの言葉に肯きながら、守口はスマートフォンをポケットに入れた。
「厳しいんですね。いらない、って言われた花が可哀想」
「そうね。でも、すべてを選ぶことはできないし、なにより美しくない。それに、いらない子なんてないから、ウチではこうしてミニブーケになるの」
やっぱり僕には無理かも、と小さな花束を見て守口が弱気な声を出した。最初はそんなもんよ、とみどりが続ける。
「何かを捨てるって、可能性の一部を捨てる決断をすることだもの。そこから繋がる未来も、これから咲くつぼみも、捨てる覚悟がいる。だからみんな、大きな枝を切るのは怖い」
さて、とみどりが時計を見ながら立ち上がる。花ばさみを手にすると、付け足すように言った。
「でもそれは、大事な一つを選ぶっていうことなの。厳しいけれど、選んだ枝を美しいって思うからできることでしょ」
昼過ぎ、病院近くの公園の横を通りかかった守口は、見覚えのある少女を見かけた。あの子じゃん、と思わず立ち寄る。
茶色のブレザーを着て、赤いフレームの眼鏡をかけている少女は、一人で花壇のそばに立っていた。昨日コンビニエンスストアで見かけたとき、一緒にいた女の子が『ノリコ』と呼んでいたのを思い出す。
「また会ったね。ええっと、ノリコちゃん」
「え…………?」
少女はぴくりと体を震わせ、固まったように動きを止めた。眼鏡越しの目を見開き、恐ろしいものを見たように表情を強張らせる。数秒の間があったあと、少女が絞り出すように言った。
「……あの、……違います」
「あれ、違ってた? まあいいか、ごめんね。なんかびっくりさせちゃったかな」
思わぬ反応に焦っていると、いえ、と少女は怯えの表情を消し、ふわりと笑ってみせた。安心した守口も明るく話そうとする。
「あのさ、」
「妹に、なにか用か」
低く冷たい男の声に振り向くと、体格のいいスーツ姿の男が守口を睨んでいた。何かを言おうとする守口に構わず、少女に向かって叱るように言う。
「行くぞ。最近は物騒なんだ、知らない男に話しかけられても相手にするな」
失礼な、と声には出さずにいる守口の横で、はい、と少女が素直に頷いた。スーツの男は冷徹な目で守口をもう一度睨み、少女を連れて公園の脇に停めてある白い車に乗り込んだ。
しかたなく守口も公園を離れ、少し歩いて振り返る。『ノリコちゃん』が後部座席のドアを開けると、車内からもう一人、髪の長い少女が降りてきた。昨日見かけたときと同じ、深緑色の制服を着ている。
そのあと、入れ替わりに『ノリコちゃん』が車に乗り込んだ。
杏梨と入れ替わりで車に乗り込んだ乃梨子は、大きく息を吐いた。名前は誰にも言っていないし、違うと言ったらそれ以上は気にしてなさそうだったから、大丈夫なはずだけど。
じゃあね、と車の外で杏梨が片目を閉じ、上機嫌で病院へ歩いていく。『プフランツェ』を担当しているウシタ製薬の人間が今、あの病院にいる。
杏梨を見送り、乃梨子は偵察した内容を深見に報告する。さっきの人に名前を呼ばれたことは言えずにいると、深見がバックミラー越しに乃梨子を見る。
「どうした。そろそろ嫌になったか」
「いいえ。嫌な作業ではありません」
乃梨子が笑って顔を上げると、深見は困った顔で言った。
「それはいい」
午前の診察が終わった病院のエントランスホールでは、ウシタ製薬の竹中と、その上司である逢坂がソファで話していた。
製薬会社と製菓会社の合併で宙に浮いていた部署を再編成し、管理していたのが逢坂だった。サプリメントの開発部門もその一つで、二年前に竹中を加えたことでプフランツェが生まれている。
『医療病院グループ統括推進部長』の肩書きを持つ逢坂は、プフランツェの販売戦略にも心を砕き、竹中を監督していた。
「新作のモニター用アンケート、追加項目には目を通したかな」
「はい、『あなたの内側で起こった変化を教えてください』と『いつもと違ったできごとはありましたか』ですね。結果の集計は、再来週を目標にしています」
「よろしく頼むよ。私もこんな質問項目に意味があるとは考えていないんだが、偽薬効果が現れやすい要因があるかもしれないからね。結果に顕著な偏りがあったケースは、より詳細なデータが欲しいので必ず報告するように」
逢坂は言葉を切ると、歳の割には可愛げのあるピンク色のシャツに、チャコールグレーの上着を羽織った。まだ早いな、と腕時計を見て竹中に向き直る。
「河出君は、君を優秀だと言っていたよ。無理ばかりさせて申し訳ないね。河出君が戻ってきてくれればいいんだが」
隣に制服姿の少女が座ろうとしているのを見て、竹中がほっそりした足を揃えたまま鞄を膝の上に置いた。逢坂もちらりと少女に目をやる。
長い髪で隠れているが、その両耳の辺りから白いイヤホンのコードが下がっていた。機嫌良さそうに軽くリズムをとりながら体を揺らしている。その手には、小さな音楽プレーヤーがあった。
「いえ、回収が遅れているのは私の責任です。紛失したモニターリストはまだ見つかりませんが、メールアドレスは残っていますから。ただ、あまりはかどらなくて」
申し訳ありません、と頭を下げる竹中の顔を覗き込むように逢坂が尋ねた。
「ところで、あれから警察は、河出君に関して何か言ってきたのかな」
「いえ、何も。自主的な失踪の可能性もある、というお話でしたから。会社で支給されている携帯からの着信も最近はありません。こちらからかけても、繋がらなくて」
「そうか。まあ、警察から見て、事件性があるようには思えないということかな」
呟くように逢坂が言うと、竹中は不安げに膝の上で指を組んだ。苦い顔で逢坂が続ける。
「書類が紛失しているし、なんらかの事件に巻き込まれた可能性もあるんだが、手掛かりがなくてね。河出君の件で何かわかったら、すぐに報告してもらえるかな」
「わかりました。……すみません、時間なのでそろそろ行ってきますね。逢坂部長は?」
「次の病院へ行くのは二時過ぎなんだ。その前に会社へ連絡を入れるよ」
逢坂が携帯電話を取り出して見せる。それでは、と竹中は席を立ち、事務所へ向かった。
杏梨は長い髪で耳を隠したまま、イヤホンのコードに触れた。耳の後ろに掛かっているだけのイヤホンには音が流れていない。リズムを取りながら聞いていたのは、竹中と逢坂の会話だった。
ふと、逢坂が手にしている携帯電話が振動した。隣にいる杏梨に構わず通話をはじめる。
「……いや、今までの回収分はほとんどハズレなんだ。先発品が届いたと思われるモニターは、紛失しただの消えただのと言っている。跡形も残らないならそれでもいいが、すべて摂取されてもね」
自分の携帯電話を取り出した杏梨が、操作しながら小さくため息をつく。長時間の録音ができない機種だった。しかたなく、リズムを取りながら耳を澄ます。
「PCPの量にもよるが、まあ、客層が客層だからな」
「それでは、このあと三階に寄らせていただきます、ありがとうございました」
竹中が頭を下げながら廊下へ出てきた。事務所のドアをずっと見ていた杏梨が席を立つ。少し離れて後を追うと、竹中がエレベーターホールに到着し、ボタンを押すのが見えた。
杏梨は先回りして階段を上がり、三階の病棟に到着する。廊下を歩いていると、隅にある花台に目を止めた。
杉原が三階の病棟から一階の調剤室へ戻ろうとしたとき、廊下の隅に小さな人影を見つけた。
奥には患者の家族や見舞客がくつろぐフリースペースがあり、手前には花台と、小さな花瓶に飾られたドライフラワーがあった。
少女は人形のように静止して、ピンクのバラで作られたドライフラワーを見つめている。
深緑色のブレザー、白いブラウスに臙脂色のリボン。この辺では見かけない制服だった。学生カバンは高校のもののようだが、きゃしゃな体格は中学生のようにも見える。
それなのに大人びて見えるのは、表情のせいかもしれない。すっと刷いたような眉に、意志の強そうな瞳が、乾いた花を睨んでいる。
ふと少女が動きを取り戻し、右手を伸ばす。表情のない顔でドライフラワーの束を掴み、脇にある屑かごへ落とした。
杉原が眼鏡を押さえて注視する。少女は踵を返し、向かいの階段へ消えた。杉原は少女の立っていた廊下の隅へ行き、空になった花瓶と足元を見た。乾いて重さをなくした花が一輪、屑かごを逸れて床に落ちている。
杉原は乾いた花をなんとなく拾うと、それをしばらく眺めていた。