4 水槽に憧れる魚
七時を過ぎて深見が自宅へ戻ると、部屋の明かりを点けないまま、乃梨子と杏梨は壁際の水槽を見ていた。
二人は床に膝をついたままガラスに顔をつけ、青い尾びれがすっと流れていくのをぼんやりと見ていた。水槽を照らす青みがかった光のなかで、水草がやわらかく揺れている。
「暗いほうが、光がきれい」
ガラスに額をつけたまま、杏梨がぽつりと言った。お帰りなさい、と顔を上げた乃梨子も、また水槽に顔をつける。グッピー達は青いライトの中でのんびりと泳いでいる。
「青い光が、すごくきれい」
呟く杏梨に、光る小さな魚を目で追いながら乃梨子も言った。
「いいなあ。……水の中で、ただきれいだなあって思いながら泳ぐのって、とっても気分がいいような気がする」
「そしたら、私は水草になりたいな。きれいな光と水の中でゆらゆらしてたい」
「お前達は人間だ。人間用の食料を食え」
そう言って深見は白いポリ袋を二人に渡し、部屋の明かりをつける。手渡された袋を覗き込んだ杏梨がつまらなそうに言った。
「人間の食料って、おにぎりなんですか」
「海苔と梅干しで十分だ」
「たんぱく質が足りないと大きくなれないですよ」
「いつも買い食いしてるだろう」
深見が睨むと、杏梨が小さな舌を出して笑った。それを見て乃梨子も笑う。深見は首の後ろを掻きながら冷たく言った。
「下手なものを食べて病気になったら、病院の前に捨てていくからな」
「じゃあ、健康のためにサプリメントを摂ったほうがいいのかな」
杏梨が二人分のおにぎりと小さなサラダを出してテーブルに置く。乃梨子は窓際の机に置かれた蜂蜜色のボトルを見て言った。
「これは、そういうのじゃないんですよね」
いただきます、とテーブルに向かった二人が両手を合わせ、深見は窓際の机に向かった。パソコンを立ち上げ、次の目標として挙げていた女性のブログを表示させる。
『プフランツェ』は、その組成のせいか、ナチュラル嗜好の女性達に人気があった。
なかでも『ワイルドローズ版』は、なぜか神秘的な事柄に強く関心がある女性達に評価されていた。彼女達のあいだでは『浄化』や『瞑想』、『神秘体験』に有効なハーブやパワーストーンなどに替わり、手軽なスプレーやサプリメントが注目されているらしい。
このブログ内でも、『邪気を祓う』とか、『マイナスのエネルギーを浄化する』などの神秘的な単語が飛び交っている。
両手でおにぎりを持った乃梨子も、モニターに目をやりながら言った。
「お部屋の空気とか、体や魂とかをお祓いしたい人がたくさんいるんですね。みんな、ハーブとか石を取り寄せたりして」
「プフランツェはそのお手軽版みたいな感じだね。自分とその居場所のレベル? みたいなのを高めて、いい気分でいたいってことみたいだけど」
「真に受けるな」
深見がぼそりと言ってモニターを眺める。
『プフランツェは私と波長が合ってたみたいです。瞑想もすごく深いところまで行けたような気がするし、今まで恐れていたものが消えていくような、なりたい自分になれるトビラに手が届きそうな、そんな体験でした』
おにぎりを食べ終わった乃梨子が横から画面を覗き込み、不思議そうに呟く。
「どんな体験だったんでしょうか」
深見は頭痛を堪えるような顔で画面をスクロールさせた。そこには室内で撮影したらしいプフランツェのボトルと、その横に淡いピンク色の結晶が入った小瓶が写っている。
『こっちの瓶は、妹の河童娘☆が私に買ってきたお土産で、ヒマラヤの岩塩です。どっちも癒されるので一緒に飾ってます♪』
「妹さんがいるんだね」
サラダを咀嚼しながら杏梨が言った。乃梨子もサラダに手を伸ばして言う。
「河童娘って、きゅうりが好きな妹さんなのかな」
「泳ぎがうまいとかじゃない?」
「あ、本当だ。『妹は大会が近いから、しばらく特訓するそうです。毎日近くのプールへ行ってます』って書いてある」
「近くのプールって、市民プールかな。『学校のプールより、近くのプールの方が広くて独占できるから』って。プールに行けば、その子と仲良くなれたりしない?」
そう言って杏梨がにやりと笑う。乃梨子も頬に指を当てながら、大きな目をしばたたかせて深見に言った。
「友達になったりとかは難しいですけど、うまくいけば泳いでるあいだ、こっそり鍵を借りられるかもしれないです」
「他人に接触するのは危険だ。もっとましな方法を考える」
「そんなことないです。『木曜も妹だけおいてきぼりです。お土産買わなきゃ』ってあるし、留守がちな家みたいです。……でも、プールで仲良くなるなら必要なものが」
乃梨子と杏梨が説得するようにじっと深見を見た。杏梨の目が笑いを堪えるような色に変わる。不審そうに睨む深見に構わず、杏梨はマウスを操作して、通信販売サイトで『スクール水着』を表示させた。
「……お前達のせいで俺の購入履歴が無茶苦茶だ」
深見が肘をついて頭を抱える。乃梨子が慰めるように言った。
「あの……制服も下着も、水着も大切に、使いますから」
しばらく作戦計画を話し合い、深見は渋々、スクール水着の購入を決定した。『河童娘』と接触する乃梨子に、深見が厳しい声を出す。
「難しいと思ったらすぐに中止しろ。接触するなら、忘れにくい適当な名前を考えておけ。名前を聞かれてから考えるようじゃ駄目だ」
なんにしようか、と食事を終えた杏梨が乃梨子を見た。乃梨子が少し考えて言う。
「ユキ、にしようかな。『お前らは白雪姫か』って深見さんに言われたから」
「あれはどういう冗談だったのかな」
杏梨が考えるような顔をする。乃梨子が首を振ると、深見が冷たい目で二人を睨んだ。
「家に帰れなくなった白雪姫に、小人は『炊事、洗濯、掃除をするなら匿ってやる』と条件を出した。お前達は『炊事、洗濯、掃除もなんでもするから連れていけ』と俺に言った。『でないと俺を犯罪者にする』と脅迫してな」
「そうだったかな」
困ったように乃梨子が笑い、覚えてない、と杏梨が深見の横から白雪姫のストーリーを検索する。
「けっこう、怖い話だね。ラストのほうにいろんなバリエーションがあるよ。継母が焼けた靴を履かされたり、怒り狂って死んじゃったり、癇癪起こして魔法の鏡を叩き割って、その破片が心臓に刺さったり」
「……継母は、死んじゃうんですね」
どこか遠い目をして呟く乃梨子に深見が応えた。
「初版は継母じゃなくて実母らしい。昔からこの手の話はどこにでもあったんだろうな」
少しだけ気遣うような目で乃梨子を見ると、深見は画面の隅にある花の広告を見た。母の日が近いせいか花の広告が目立つ。
「花屋は忙しそうだな」
どうでもよさそうに花の広告をクリックして話題を変える。気遣うような目をする杏梨の隣で乃梨子が笑った。
「きれい。今はいろんな花を贈るんですね。この花はあんまり好きじゃないから、あっちのほうがいいな」
乃梨子は画面をスクロールさせて赤いカーネーションを画面から追い出し、白い百合の花を表示させた。
「その花は俺が好きじゃない」
深見が軽く鼻を鳴らすと、ほっとしたように杏梨が笑った。
「みんな好き嫌いが多いね」