3 橘フラワー
翌日の午後、授業を終えた守口がアルバイト先の『橘フラワー』に入ると、店の奥では背の高い女性が配達用の花を選り分けていた。
ふんわりと花の匂いがする湿った空気のなか、クールに花ばさみを動かす。動作は早いが、花の扱いは優しく丁寧だった。カラーと呼ばれる白い花を主体に、小花やグリーンをあわせた束を次々と仕上げていく。
さらに女性は大股で動き回り、ころりと丸い芍薬のつぼみや薄紫のライラックをピックアップしてアクセントに加えた。足元には、切り落とした葉や茎がぎっしり詰まったポリ袋が、三つほど置かれている。
同じく忙しそうに鉢物の手入れをしていた小柄な女性が声をかけた。
「みどりさん、それ裏に運びましょうか」
「ん、このままでいいよ。守口が来たら全部運ばせるから。……お、来たな運び屋」
待ってたぞ、と背の高い女性が涼しげな目を守口に向け、にやりと笑った。
「……おはようございます。僕って、本当に体力しか期待されてないんですね」
「最初に言ったでしょう、なんでもかんでも運ぶ仕事がメインになるって。……それじゃアヤさんこれ、配達お願い。守口君、あんたはとっとと長靴履いといで」
『橘フラワー』の店長である橘みどりが、顎で店の裏側を示す。はあい、と目の前のずっしり重いポリ袋を両手に持ち、守口は裏へ回った。
顔が治ってよかったね、とアヤさんと呼ばれた小柄な女性は守口に声をかけ、近くのスペイン料理店へ配達に向かった。
長靴に履き替えてエプロンをつけた守口が、残りのポリ袋を運ぶ。
「花よりも、水バケツやゴミ袋運ぶのがメインになるとは思ってなかったなあ」
気にしない気にしない、とみどりが複数の作業を同時に進めながら言う。高校生の守口がアルバイトでピザの宅配をしていたころ、ほぼ毎日届けていたお得意様が、この橘フラワーだった。
守口が無事故無違反であることを聞いて感心し、『スタッフ・お客さん共に女性率の高いバイトがしたいなら面接においで』と誘ったのがみどりだった。
みどりは次から次へと守口に指示を出しながら、バケツの水に浸けた花の茎を切る。ぱたぱたと動いていた守口が、赤紫のクレマチスの前で動きを止めた。みどりが思わず声をかける。
「今度はどうした」
「色の濃い花って、味も濃いんですか」
一瞬止まったみどりが小さく息をつく。守口に見つめられた可憐な花が、命乞いをするかのように揺れていた。
「いろいろと面倒な世の中になってきてるとは思ってたけど、花屋が花を売るのに『食べないでください』ってお断りしないといけないところまで来たのか」
「あ、やっぱり食べられる花があるって知ってたんですか」
みどりは答えず、並んでいる花々から、ケントビューティという小さくやわらかな葉のついた茎を取って見せた。透けるような淡い緑の先端はうっすらとピンク色を帯びている。
「これも本来はオレガノっていうハーブ。桜、菜の花、菊のほかにも、チューリップやスミレ、椿も食べられるんじゃなかったかな。芍薬は薬の材料だったりするし」
「じゃあ、これもあれも食べられるんだ。すごい」
「……いちいち説明したくないけど、観賞用の花を売るのが花屋の仕事なの。だから、お客さんに得意気に話さないでね。うちのは観賞用なんだから責任持てない」
それよりこのバケツと段ボール持ってって、と次の作業に移行したみどりが指示を出す。水の入ったバケツを持ちあげて守口が呟いた。
「僕も、花の豆知識とか、花言葉なんかを覚えたほうがいいのかなあ」
「君には、もっと覚えなきゃいけないものがたくさんあると思うけど」
「でも僕、花屋っていうより運び屋ですよね。ピザ屋より体力は付いてきたけど」
よっ、とバケツの水を換える守口に、いいじゃない別に、とみどりが言った。
「なんの基礎も技術もない子に、いきなり花束作らせる花屋なんてないわよ。警察だって入ってすぐに拳銃撃たせてくれるわけじゃないんだし」
「花と拳銃が一緒でいいのかなあ」
守口がオレンジ色のアマリリスの鉢を作業台へ運ぶ。黄緑色のラッピングペーパーを用意しながらみどりが言った。
「相手のハートにとどめを刺すのは、どっちも一緒」
「それ、警察じゃなくて殺し屋です」
「どっちにしろ、商売道具の扱いは熟知してるものでしょ。あなたも花の名前と扱いから覚えないと怪我するわよ」
トゲも毒もあるんだから、とみどりがラッピングを終え、リボンを切った。
「僕が思ってた『花屋のお兄さん』は、お客さんの花を親身に選んで、的確なアドバイスができて、でもどこか僕のセンスが光るような」
「ぼくぼくうるさい。いいから配達行って」
みどりが配達先の地図を見せ、配達用のバイクの鍵を渡す。時間指定は三時半以降とあった。時計を見ながら確認する。あと二十分で三時半。守口は三輪バイクの大きな荷台に鉢を載せて固定した。
花を傷つけないでね。いつもみどりに言われる言葉を反芻する。ヘルメットをかぶった守口が、親指を立ててみどりに言った。
「それじゃ行ってきます、姐さん」
「姐さんって呼ぶんじゃない。せめて店長って呼びな」
車に気をつけてね、とみどりが笑いながら水仕事で荒れた手をひらひらと振った。
「三時過ぎたよ。そろそろ行こうか」
深緑色の制服姿の杏梨が、鞄ではなく籐のバスケットを持って車を降りた。続けて茶色のブレザーを着た乃梨子が降りる。車のガラスに映った自分を見て、眼鏡の赤いフレームをきちっと直すと、運転席の男に笑顔で言った。
「行ってきますね、深見さん」
「ああ。一応、本人の目は俺が逸らすから、もし見つけたらさっさと終わらせろ。絶対に無理はするなよ」
「はい」
乃梨子が笑顔で返事をすると、深見は車を移動させてその場を離れた。二人で目の前のアパートへ向かう。目的の部屋は一階。この部屋に住んでいる女性は外出中で、今、部屋にいるのは若い男性一人のはずだった。
杏梨がバスケットを抱えてドアチャイムを鳴らす。少しの間をおいて、はい、と男の声が聞こえた。杏梨が幼げな声を出す。
「あの、上の階のウエダです」
ドアが開き、二人の前に現れたのはポロシャツに短いズボンを穿いた若い男だった。もじもじと恥ずかしそうな二人の少女に首を傾げる。
バスケットを抱えた杏梨が、顔を赤くしながら言った。
「すみません、あの、ベランダに洗濯物を落としちゃって……その、拾わせてもらってもいいですか」
「ああ、はいはい。それなら」
「あのっ、お願いです!」
ベランダに行こうとする男を、杏梨が泣きそうな声で止める。乃梨子もすがるように男を見た。
「あの、ちょっと恥ずかしいので、自分で拾いたいんですけど、だめですか」
下着とかあるから、と杏梨が必死に訴える。乃梨子も顔を伏せて頬に手を当てた。
普段は『笑っていろ』とか『不安そうな顔をするな』と言われているけれど、今は困った顔をする必要がある。それなのに、杏梨の演技に吹き出してしまいそうで、乃梨子は赤い顔を伏せていた。
何も知らない男は、そんな二人を見て少しだけ笑った。
「ああごめん、いいよ。見ないようにしてるから、安心してどうぞ」
「ごめんなさい、ありがとうございます」
お邪魔します、と脱いだ靴を揃え、二人が部屋に上がる。
電話の位置を確認して、ゆっくりとベランダへ向かいながら部屋を観察した。リビングにあのボトルはない。寝室には入れないけど、この感じならダイニングにあるはず。男は気を遣ってか、リビングでスマートフォンを凝視している。
窓を開けて二人が屈みこむ。ベランダには、外から投げ込んでおいた白い下着が落ちている。洗濯物の汚れを気にするような口ぶりで、杏梨が言った。
「どうかな」
「たぶん平気」
乃梨子がちらりとダイニングテーブルを見る。炊飯器や調味料など、細々としたものをテーブルに出しておくタイプの家らしい。杏梨がまっさらな下着をのんびり拾っていると、部屋の固定電話が鳴った。
乃梨子と杏梨が顔を合わせる。男が電話に出たタイミングで、下着を入れたバスケットを抱えて杏梨が立ち上がった。
「はい、ヤマシタです。……はい、ああ、そうなんですか。今は出かけてるんで、戻るのは……」
電話は、同居している女性の親戚を装った深見によるものだった。電話に集中している男の横で、ありがとうございました、と二人が頭を下げる。男はぎこちない笑顔で手を振りながら通話を続けている。
男の位置からは見えないことを確認して、乃梨子が素早くダイニングへ行く。ピンクゴールドのキャップを見つけると、杏梨が差し出すバスケットに入れ、すぐに玄関へ向かう。
靴を履いてドアを開けると、電話の向こうの深見に聞こえるよう、ありがとうございましたー、と二人で声を合わせた。
アパートから遠ざかり、乃梨子が携帯電話を取り出した瞬間、深見から着信があった。不測の事態に備えて、電話が繋がっても名乗らないことになっている。通話ボタンを押した乃梨子は、一呼吸置いてから報告した。
「終わりました」
『よし。俺はその先のコンビニの駐車場へ向かう。お前達もそこへ向かえ。わかっているだろうが、その中身は絶対に、口にするな』
はい、と元気よく返事をして通話を終了する。杏梨のバスケットを指差して乃梨子が言った。
「それ、絶対口にするなって」
「ね、乃梨子、『これ』は絶対口にしちゃいけないけど、他のはいいってことだよね」
「え、どういうこと」
不思議そうな顔をする乃梨子に、杏梨がにやりと笑ってコンビニエンスストアを指差した。深見の車はまだ来ていない。
「おやつは買っていい……ってことにならないかな?」
「なるのかな。でも、ちょっとお腹空いたかも。杏梨は?」
「私は甘いものが食べたい。大丈夫、深見さんの分も買えば叱られないよ。乃梨子には甘いから」
そんなことないよー、と笑いながら乃梨子が財布を出す。非常時用の一万円は使えないが、コンビニエンスストアやファストフード店で待機するための小遣いは渡されていた。杏梨もにっこり笑って自分の財布を出す。
二人はきゃいきゃいと笑いながら、目の前のコンビニエンスストアへ入っていった。
「のりこ……?」
コンビニエンスストアの脇にバイクを停め、ヘルメットのあごひもを締めていた青年が閉まる自動ドアを眺める。三輪バイクの大きな荷台には『橘フラワー』とあった。
「そういえばね、杏梨」
小分けに包装されたマドレーヌやパウンドケーキを眺めながら、乃梨子が言った。
「昨日、知らない人に、『会ったことない?』って聞かれちゃった」
フルーツケーキを手に持った杏梨が、少し考えてから小声で尋ねる。
「……大人の人?」
「うーん、私服だからわからないけど、高校生っぽかったような気もする。男の人」
杏梨は一瞬目を閉じ、不安そうな乃梨子の目を見てにっこり笑った。
「それなら平気。大人は危険だけど、高校生の男の子が、私達を知ってるはずがないよ。どんな顔の人?」
「……なんだか、顔がちょっと変な感じの人だったかな」
マドレーヌを手にしたまま乃梨子が考える。人と関わることが極端に少ないせいで、杏梨と深見以外の顔はあまり印象が残らない。乃梨子の頬をつついて杏梨が言った。
「でも、どっちにしろ深見さんには言わないほうがいいかもね。外に出られなくなると、つまんないでしょ?」
「うん。でも私、深見さんに勉強教えてもらうのも楽しいよ?」
「コンビニとかに来れなくなってもいいの?」
「それはちょっと、嫌かも」
深見がコンビニエンスストアの駐車場に車を停めると、乃梨子と杏梨がきゃいきゃいとはしゃぎながら車に乗り込んできた。その手にはバスケットと白い袋がある。
「また余計な買い物か」
「だって、こっちは絶対口にしちゃダメでしょ? 代わりに、おやつはいいのかなって」
杏梨がバスケットから蜂蜜色のボトルを取り出して見せる。ピンクゴールドのキャップに、サーモンピンクのラベル。そこには『プフランツェ ワイルドローズ』のロゴが印刷されている。
「深見さんのぶんもありますよ」
乃梨子がマドレーヌを取り出して見せると、深見は杏梨からプラスチックボトルだけを受け取り、車を出した。前だけを見ながら冷たい声で言う。
「こっちはまだ仕事中だ。これから次の病院へ行かなきゃならない。お前達はもう部屋で大人しくしていろ」
「はーい」
二人は元気よく声をそろえた。