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22 ラムネゲッツガール


「いくらなんでも遅いな」

 杉原の呟きに、沈み込んでいた深見がはっと顔を上げた。時計を見ると、すでに九時半を過ぎている。守口も食堂の入口を窺いながら首を傾げた。

「女子会でもやってるのかな、トイレで」

「守口、ちょっと女子トイレ行ってこい」

 嫌ですう、と口をとがらせる守口のそばで、着信に気付いた深見が胸元に手をやった。上着の内ポケットから携帯電話を取り出し、杏梨たちの番号であることを確認して通話ボタンを押す。

「お前達、どこで何してる?」

『深見さん、助けて』

 囁くような杏梨の声に、深見が顔色を変えた。守口と杉原が顔を見合わせる。

「どうした、どこにいる」

『わからないの』

「ああ?」

 立ち上がった深見が顔を顰め、受話音量を上げる。どういうことだ、何があった、と問いかける。杉原も近付いて耳を澄ませた。

『小百合さんって先手必勝だから』

「……わかるように話せ」

『なんていうか、小百合さんって、深見さんとの待ち合わせも早めに出るし、深見さんより先に『犯人です』って名乗り出れば勝ちって感じだったし、プフランツェのことも絶対、深見さんより先に確認しちゃうと思って』

「つまりあいつに、ついて行ったんだな、どこだ」

 途切れがちな音声に集中するように、深見が宙を睨む。

『おとといの、ウシタ製薬です。そしたらあの逢坂おうさかっていう人が会社の車に、小百合さんを……ぐったりしてる小百合さんを乗せたんです。だから、乃梨子と一緒について行ったの』

「どうやって」

『車のトランク』

「馬鹿! 何やってるんだ!」

 携帯電話に向かって怒鳴りつけると、深見はテーブルに片手をつきながら耳を澄ませた。

『でね、初めのうちは何度も停車してたんだけど、なかなか止まらなくなっちゃったから降りれないの。あと、さっきまでなんともなかったんだけど、今すごく揺れるー。絶対、深見さんより運転へただよ』

「余計なことはいい。どこにいるのか、わからないのか?」

『エンジン止まって、あの人が降りたら確認しようと思うんだけど、まだわかんないの』

「具合は悪くないか? 苦しくはないか?」

『大丈夫です。お腹すいたらビスケットも買ってあるし』

 杏梨の囁きに続き、でも飲み物がないよ、という乃梨子の声がかすかに聞こえた。お前ら、と顔を顰める深見から携帯電話をひったくり、杉原が呼びかける。

「杏梨さん。私の質問に答えてください。まず、そのトランクは閉まっているんですか」

『出られなくなると怖いから、カバンを挟んで押さえてます。警告灯がつかないタイプだから気付かれないって、乃梨子が』

「なるほど、車が止まる気配はない?」

 ぜんぜんないです、と杏梨が答える。杉原は腕時計を見ながら尋ねた。

「スタート地点はあのウシタ製薬ビルですね、走り出した時間はわかりますか? あと、後ろに他の車のライトは見えますか」

『時間……九時、十五分くらいだったと思います。あと、わからないけど、後ろに車はいないと思います。光が入ってこないから』

「どこを走っているのか、手がかりになるようなものは? 電車の音や、救急車の音など」

 深見と守口に目くばせをして食堂を出る。耳を澄ませていると、乃梨子の囁きが割り込んできた。

『さっき、花の香りがしました』

『したした! さっきの、気のせいじゃなかったんだ』

 花の香り? と一瞬立ち止まった杉原が眼鏡を押さえる。手がかりにならない、と階段を下りる深見に続いて、守口も急ぎながら言った。

「花屋さんを通りかかってもそんな匂いしないし、デパートの一階……もちょっと違うし、フローラルブーケ的な匂いなら、石鹸とか洗剤屋さんかな?」

 一階へ下りて外に出る。駐車場の車へ向かいながら深見が呟いた。

「洗剤、もしくは化粧品の工場か?」

「市街地を抜けてからはノンストップのようですから、高速道路を走行している可能性が高いです。まずはスタート地点から、現在までに通過できる範囲で、該当する施設がないか探します。……杏梨さん、そちらに変化は?」

『特にないと思います。止まらないで、ずっと走ってます。今のところ』

 高速か、と深見が車に乗り込み、カーナビゲーションを起動させる。杉原も通話状態のまま助手席に乗り、その画面を凝視した。後部座席に乗り込んだ守口も、スマートフォンで施設を検索する。方角の違う二点に、該当すると思われる施設があった。杉原が画面を指さす。

「出発した時間から、ここかここ、どちらかを通過したものと推測できます。とりあえず、どちらかに」

「どっちだ」

 深見が焦ったように頭を掻きむしる。杏梨さん、と杉原が祈るように言った。

「とにかく、車が停車したら状況を確認して、逃げてください。最悪、警察に通報することもありえますから、車のナンバーを覚えて、人のいる、安全なところへ」

『それより杉原さん、小百合さんはどうしたらいい? 逢坂って人が、薬を小百合さんのバッグに詰めてたの。もしあれ飲まされてたんだったら、死んじゃうんじゃないの?』

 杏梨が泣きそうな声で言った。杉原が目を閉じて考える。

「竹中さんは助手席に乗せられているんですよね。確証はありませんが、死亡している、もしくは、じきに死に至る状態ならば隠すと思います。……それこそ、トランクなどに。少なくとも現在は、仮に検問を受けても困らない状況と思われます。そうじゃない場合も考えられますが、なんの薬かわからないと」

『薬ならありますよ』

 乃梨子の声が割って入った。どんな薬ですか、と杉原が電話を強く耳に押し当てる。

『ピンクっぽい銀色のシートで、白くてまるい錠剤です。シートには紺色の字と、紺色のしましまっていうか、太い線が入ってて、……携帯の明かりで字を読みます』

 そう言って携帯電話を耳から話す気配と、薬の名前を読み上げる、乃梨子の少し遠い声が聞こえた。杉原が少しだけ安心したように息をつく。

「それなら、仮にお腹いっぱい飲んでも命に別状はないはずです。水なしで服用できる、眠るための薬です。飲みやすいようにラムネ味が付いていて、」

『ごめんなさい、もう電池が切れそう』

 乃梨子、と深見が電話を代わる。その瞬間、応答が途絶えた。

「切れた。まずいな」

 深見が携帯電話を握りしめる。杉原はカーナビゲーションの画面をスクロールして、到着予測時刻を表示させながら考える。

「高速道路で、洗剤や化粧品などの製造を行っている工場施設が隣接していて、先ほど通過したと考えられる範囲は、時間的にこの二点です。どちらかというと、こちらの化粧品工場を通過するルートが近いですが」

「目的もわからないのに、決め手に欠ける。逆だったらどうする?」

「でも他にヒントがないんだったら、とりあえず、僕は行ってみるよ。こっちなら、僕のバイクで追いつけるかも。会社の車って『ウシタ製薬』って書いてあるやつでしょ? 警察に捕まるのは避けたいだろうし、スピードはそんなに出さなくない?」

 守口がスクーターのキーをポケットから取り出す。おい待て、と杉原が振り向いて後部座席を見た。

「お前の原付で高速に乗れると思うなよ」

「原付じゃないですう。155ccですう。さらに言っちゃえば限定カラーのイエローですう」

「その言い方とその顔やめろ。……あと、仮にそっちのルートがビンゴだとしても、向こうがどこで高速を降りるかわからないぞ」

「そうなんだけどさ、車には『ウシタ製薬』って書いてあるんでしょ。この道の先って、元『アルパカ製菓』の工場があるんだよ。たしか、ウシタ製薬が研究施設を増やしたくて合併したとこでしょ? もしこっちがビンゴなら、そこに車停める可能性高くない?」

「……行ってみる価値はあるか。じゃあ俺と深見さんは、こっちの洗剤メーカーを通過するルートに行ってみる。こっちの先にも元『アルパカ製菓』の物流倉庫があるから、何かわかったら連絡する。着信に気付けるようにしておけよ、葉一」

「わかった」

 守口が後部座席のドアを開けると、バックミラーを見ながら深見が呼び止めた。

「守口君」

「へっ?」

「よろしく頼む。だが、もし、……もし、万が一、君やあの二人に危険が及ぶ状況だと判断したら、迷わず警察に通報してくれ。頼む」

「…………わかりました」

 じゃあ、と守口は車を降りると、バイク置き場に停めてある自分のスクーターに跨がり、ヘルメットを被ってエンジンをかけた。


 深見も車を出し、市街地を抜けて高速の入口へ向かう。カーナビゲーションを睨みながら杉原が言った。

「目的地、というより、目的はなんでしょう。眠らせた竹中さんを連れていくことに、まともな理由は思いつきませんが」

「高尚な理由とも思えないが、無意味に下衆げすな理由でもないだろう」

 苦々しげに深見が言う。杉原も、逢坂がくだらない理由で小百合を昏睡させているとは思えなかった。逆にそれは今、非常に危険なことのように思えた。




 目指すインターチェンジに向かって黄色いスクーターを走らせていた守口は、給油ランプが点灯していることに気付いた。マズい、と減速しながらウインカーを出し、慌ててスタンドに寄る。 

「危ないところだった」

 高速初めてなのに、と緊張しながらスクーターを降りると、見覚えのある軽トラックが隣で給油していた。

ねえさん」

 僕ですぼくぼく、とヘルメットを取り、計量器の横から手を振って声をかける。軽トラックの主は、橘フラワーのみどりだった。

「ちょっとあんた、こんな時間まで遊んでていいの?」

「それを言うなら姐さんこそ」

「……私が遊んでるように見える?」

 べん、とみどりが『橘フラワー』の名前が入った軽トラックを叩く。その荷台には、百合園の名前が入った輸送用のパレットボックスが積んであった。

「……みどりさん」

「どうした」

 守口は、軽トラックの荷台に近付きながら尋ねた。

「百合園って……ユリって、ハウス栽培だから、花の香りなんて、漏れませんよね?」

「ハウスったって、ビニールに閉じ込めたまんまじゃないのよ? 品種によるけど、ビニールは掛けたり外したり、寒冷紗かんれいしゃと使い分けたりしてるし」

「でも、開花前に出荷しちゃいますよね。車で通りかかっても、ユリの香りなんてしないですよね?」

「そりゃ、何万本もある開花前の花をすべて出荷してるならね。でも直販もあるし、ここの百合園なんて、開いちゃったユリを道路沿いの無人直売所にドンと置いてるわよ。花がぎっしり入った、でっかいバケツがたくさん並んでるの。むせ返る魅惑の香りに酔いしれるわよ?」

「あー、今年は開花時期が早かった……んで……?」

 ちょっとすんません、と軽トラックのドアを開け、守口はダッシュボードからロードマップを取り出した。急いでページをめくり、道のりを確認する。給油口から慎重にノズルを引き抜いているみどりに、開いたページを無理やり見せた。

「ちょっと、姐さんちょっと、この百合園ってここですよね? ね?」

「あー今、まとわりつくな、もう」

 どれどれ、とノズルを計量器に戻したみどりがマップを見た。そうそう、そこそこ、と確認しながら支払いを済ませる。守口がロードマップを返そうとすると、いいわよ、と小さく手を振り、軽トラックに乗り込んだ。

「必要なら使えば?……なんでもいいけど、ちゃんと帰りなさいよ」

 じゃあね、とみどりがスタンドをあとにする。守口は急いでスマートフォンを取り出し、杉原にコールした。

「……れい兄ちゃん、車の居場所がわかったかも! 僕たち、どっちも間違ってる!」




「間違ってる?」

 高速道路を走行している深見の横で、周囲の車に目を凝らしていた杉原が顔を顰める。強い調子で守口が告げたのは、杉原たちが考えていない方角だった。言われるままにその地域をカーナビゲーションに表示させて注視する。

『スタートは市街地だから信号もあるし、度々停車するけど、西に抜けて鹿野しかの峠に向かえば、たしかその先は信号ないよ。高速走ってるなら、後半ガンガン揺れるって変だし。でも峠道ならカーブばっかだし、時間的にも合ってるんじゃない?』

「……一般道のスピードで走ったとして、電話がかかってきた時間には、カーブだらけのエリアに入るな。可能性はある」

 逆方向か、と杉原が険しい顔でカーナビゲーションの画面を確認すると、深見が前方に見えてきた緑色の案内標識を睨む。あとさ、と守口が続けた。

『途中に、ウチの仕入れ先の百合園があるんだよ。今年は開花時期が早かったから、今、ユリの花の匂いがしてるはずだよ。それに、峠を抜ければ日辻ひつじ町に出る。その手前にある施設って、深見さんが忍び込んだっていう、ウシタ製薬 日辻ひつじ研究所予定地じゃなかった?』

「そこか! でも、こっちは今高速だ」

 杉原が眼鏡を押さえて地図を拡大する。深見がアクセルを踏み込んで言った。

「次のインターで折り返す」

『うん。僕は先に行ってる』

 



 車は停まり、しばらくして静かになった。物音や逢坂のひとりごとも、もう聞こえない。息をひそめて気配を窺ったあと、思い切ってトランクを開け、車を降りる。暑かったー、と乃梨子が伸びをして、気持ち悪かったー、と杏梨が深呼吸した。

「ここ、どこだろう」

「真っ暗だね。この建物以外」

 音を立てないよう慎重にトランクを閉め、周囲を見回す。見知らぬ場所。塀に囲まれた広い敷地。大きな建物。ひんやりした空気。現在地がわからないから、深見を呼ぶこともできないし、車のナンバーを覚えて逃げるにも、どこへ逃げたらいいかわからない。

 目の前のドアの隙間からは、かすかに光が漏れている。ひっそりとした明かりを見つめて乃梨子が言った。

「小百合さんはこの中にいるんだよね。急ごう」

「……助けられないかもしれないし、怖い目に遭うかもしれないけど、乃梨子は大丈夫? 杉原さんは逃げてって言ってた」

 一瞬、杏梨の目に不安がよぎる。最悪の状況を考えて、深見との繋がりを示す携帯電話は走行中に隙間から捨ててしまった。乃梨子は自分に言い聞かせるように話す。

「ここから逃げても、私たちは警察を呼べないよ。深見さんが最悪なことになる。それより、私も役に立ちたい。せっかく杏梨ががんばったんだし、深見さんと小百合さんに仲直りしてほしい」

「……そうだね。小百合さんを助けるチャンスを探そう。行き止まりに見えても終わらないって、小百合さんも言ってた。助けてから、あとのことを考えよう」

 そう言って杏梨はビスケットの箱を取り出し、あとこれどうする? と振って見せた。


 屋内に侵入する前に、カバンに不自然な所持品が残っていないか確認する。取り出した赤いフレームの眼鏡を乃梨子が眺めていると、杏梨が手を伸ばした。

「私がかけるよ。一度、逢坂って人に顔を見られてるし……どう?」

「あ、似合ってる。……でも、そのポーズちょっと杉原さんみたい」

 囁くように笑うと、二人は音を立てずにドアを開け、暗い廊下に侵入した。乃梨子が壁のスイッチパネルを指差すと、杏梨も周辺を見回して頷く。スイッチの位置表示灯が点灯しているのは、手前の区画だけだった。通電している範囲が限られているらしい。

「警備の機能とかを切ってるのかも」

「よくないことを、するためだよね」

 暗闇のなか、光がこぼれるドアの前に立つ。この先には逢坂と小百合がいるはずだった。かすかに震えていた二人の指が触れ、手を握りあう。

「じゃあ、行こうか」

「いつもみたいに」

 眼鏡をかけた杏梨が片目をつむる。乃梨子も顔を上げ、笑顔を作った。

「こんばんわー」

 ノックもなしにいきなりドアを開けると、戸棚に手を伸ばしかけていた逢坂が、招き猫のようなポーズで固まった。取り出そうとしていた白い小箱をゆっくりと棚に戻し、招き猫は目を見開いたまま、口だけを動かす。

「ど……どこから来たのかな、きみたち」

「かくれんぼしてたら、迷子に」

 嘘じゃないもん、と杏梨が部屋を見回す。想像していたより広い部屋。並んでいる大きな作業台。壁際には戸棚のほかに、コピー機や洗濯機に似ている機械がいくつも設置されている。かかとを上げて奥を覗き込むと、グレーの作業台の陰に、小百合の靴が見えた。

「こんな時間に何をしているんだ、親御さんは?」

 部屋に入らせないよう、視界を遮りながら逢坂が慌てて二人を押しとどめる。杏梨が困ったように言った。

「携帯持ってないから、呼べないんです」

「……しかたないな。とりあえず外に出なさい、車で送ってあげよう。家はどこなんだ?」

「でも、知らないおじさんの車に乗っちゃいけないって、お兄ちゃんに言われてるんです。あの、おじさんの携帯電話で、お兄ちゃんに電話させてくれませんか? 場所がわかれば、絶対に来てくれますから」

「いや、私の携帯を貸すわけにはいかないんだ、それにここは、関係者以外の人間が入っちゃいけないところなんだよ」

「じゃあ自力で帰りますから、ここがどこなのか、教えてください。あ、朝になるまで、ここにいていいですか?」 

「そんなわけにはいかんだろう。……そもそも、どうやってここまで来た?」

 訝しげに逢坂が尋ねる。その手には薄い手袋が装着されていた。わかんない、と首を傾げる杏梨の横で、乃梨子がとっさに言う。

「あの、お願いします、そっちに入れてもらっていいですか? 暗いのが怖くて」

「勘弁してくれ、駄目だと言っているだろう。あまり聞き分けがないなら、警察に連絡するぞ?」

 埒があかない状況を打開すべく、逢坂が高圧的に追い払おうとする。杏梨が一瞬にやりと笑った。

「えー? だって、関係者以外の人間を入れるわけにはいかないんでしょう? それに警察の人を呼べるなら、私のお兄ちゃんに電話してくれたっていいじゃないですか」

「……警察は別だよ」

「……じゃあ呼んでください」

 杏梨が眼鏡に手を添えながら顔を上げた。逢坂は冷静な表情を取り戻して尋ねる。

「……もう一度聞くが、どうやってここへ来た? どうしてこんなところにいる?」

「わからないから迷子なんです。ここ、どこなんですか? なんていうところなんですか? ここのお部屋、何があるんですか? そっちに誰かいるんですか?」

 はしゃぐフリをしながら部屋の奥を窺う杏梨を、やめなさい、と逢坂が制止する。その隙に乃梨子が脇を抜け、戸棚に触れようとする。やめろ、と逢坂は忌々しげに怒鳴りつけた。

「お前もだ! 触るな、何もするな! 大体お前達は、なんでここにいるんだ!?」

 びくりと震えて乃梨子が固まる。その手から逢坂はカバンを強引に奪い取った。よろめいた乃梨子がぺたりとその場に座り込む。駆け寄った杏梨が逢坂に訴えた。

「あの、本当のこと言うから、ひどいことしないで。……女の人を運ぶのが見えたから、車のトランクに隠れてついてきたんです」

「……なんだって?」

「あの女の人、そこにいるんですよね」

「彼女なら、眠くて寝てるだけだよ」

 そう言って逢坂は筆記用具や勉強道具、ビスケットの箱が入っているだけのカバンを覗きこみ、本当に携帯はないのか、と放り捨てる。慌ててカバンを拾った杏梨が逢坂に向き直った。

「逢坂さん、あの女の人、河出さんみたいになるんですか?」

「……ん? 君たちは河出の……どういう関係なんだ?」

 自分の名前を呼ばれた逢坂が、顔を歪めながら二人を見つめる。庇うように前へ出る杏梨のうしろで、乃梨子は隠し持っていた小百合の携帯電話をすばやく操作し、スカートのポケットに戻した。杏梨が考えながら答える。

「……秘密の関係です。だから、逢坂さんが悪い薬をつくってたことも知ってます」

「薬屋だからね。薬の扱いは得意なんだ。……君達と河出の関係は非常に興味深いが、人に言えない関係なら仕方がない。今後も秘密を守るためには、君達を、河出とは別のところに連れて行かなきゃならないようだ」

「河出さんはどこにいるんですか」

「もう会えないよ。この施設の工事は終わってるんだ。……それより計画変更だ、もっとこっちに来なさい。暗いのは怖いだろう?」

 優しげな声に命じられ、二人はゆっくり立ち上がり、逢坂に近付いた。奥には小百合が横たわっている。杏梨に手渡されたカバンを抱え、乃梨子が不安そうに尋ねた。

「計画って、……あの人を、どうするつもりですか」

「どうするつもりもないよ。彼女にはまだ眠剤しか飲ませてない。自殺だからね」

 自殺、と杏梨と乃梨子が顔を見合わせる。逢坂は戸棚を探りながら続けた。

「遺書があれば自殺になる。悪い薬を密造して、気付いた河出を殺し、裏切った仲間も殺してしまった、観念しての自殺だ。彼女は悪い人間なんだよ」

「あの人が、『密造した悪い薬』で自殺するんですか?」

 泣きそうな目をして乃梨子が尋ねる。逢坂は二人を安心させるように優しい声を出した。

「味見だよ。河出が余計な真似をしたせいで、新作を作り直すはめになったからね」

「だから河出さんって、殺されちゃったんですか」

「……死体がなければ失踪だよ。あれも、半分くらいは事故だ。私だって怖いことはしたくないんだよ。邪魔をしたり裏切る人間が一番怖い」

 そう言って逢坂は、戸棚から白い小箱とガムテープを取り出した。杏梨がぞっとしたような顔で尋ねる。

「南雲さんって人は、悪い薬をつくった仲間じゃないの?」

「仲間じゃない、部下だ。私は有用なアドバイスを与え、マネージメントしただけだ。実際に造っていたのは南雲だよ。納入先と繋がっているのもね。私は面倒見がいいだけで、悪い人間じゃないんだよ」

「でも、お金をもらえるんですね」 

「環境と知識を提供するんだから、当然だ。部下が仕事をやりやすいように計らってやるのが仕事だからね。私は管理職なんだよ」

 だからおじさんは怖くないんだよ、と逢坂が杏梨の赤い眼鏡フレームを憎々しげに指で弾いた。杏梨が顔を顰めながら目元を押さえる。

「南雲さんは、どうしたんですか」

「あとで会えるよ」

「生きて会えるんですか?」

「……可愛げがないな、君は」

「可愛くしてたら助けてくれるの?」

「……まったく、竹中で終わりのはずなのに、君は私をまた一つ悪い人間にしたいらしい」

 困ったように言いながら、逢坂は手袋をした手で封筒から二枚の書類を取り出した。慎重に二枚目だけを摘まんで作業台に置き、一枚目を封筒に戻す。

 乃梨子が心配そうな声を出した。

「でもでも、建物のカメラに全部写ってるのに、ここで何かしたら、逢坂さんが捕まっちゃいますよ?」

「そんなものは切ってるよ。ここも向こうもね」

 そう言って逢坂は上着を脱ぎ、眠っている小百合を抱え上げて椅子に座らせようとする。机に突っ伏しているような姿勢になるよう調整していると、乃梨子が助けるように手を添えた。

「あの、ごめんなさい。お願いします。私、お手伝いでもなんでもします。大人しくいい子にしてますから、怖いことしないでください」

「君はいい子なんだが、そこの生意気な赤眼鏡が問題だ。邪魔されたら困るからね」

 なんの邪魔ですか、と杏梨が口を挟むと、逢坂は面倒臭そうに答えた。

「……味見だよ。新作のね。彼女は、それを過剰に摂取することで死ぬ方法を選ぶんだ。少しでも長生きしたいなら、静かにしてなさい」

 むっ、と杏梨がふくれてみせる。その陰で、乃梨子がひそかに小百合の携帯電話に触れ、電源を落とす。夕方から長時間通話していた電話だ。このバッテリーまで切れたら、本当に通話が必要な状況になったとき、使えなくなる。

 時間を稼いで、小百合が目覚めることを期待したけれど、目を覚ます気配はない。逢坂を手伝うふりをして小百合に刺激を与えてみたけれど、効果はなかった。これ以上噛みついて逢坂の機嫌を損ねたら、自分たちに攻撃が及びかねない。

 通報も脅しにならない。隠し持っている小百合の携帯電話を奪われるだけだ。自分たちが逃げたとしても、逢坂が小百合の自殺偽装を実行したらおしまいだし、それを妨害する手段はもうない。

 しかたないね、と杏梨が力を落として俯いた。逢坂が白い小箱からプラスチックのボトルを取り出すと、乃梨子がおずおずと話しかける。

「逢坂さん、味見って、新しいお薬なんですよね。プフランツェみたいなのですか?」

「いやいや、こっちは有効成分の質と量が全く違う。プフランツェに混入した薬はお手軽品で、ほんのわずかな量だ。あんなものはラムネだよ」

 そう言って逢坂はプラスチックのボトルを振ってみせると、そろそろ大人しくしてもらおう、と乃梨子の手首を掴み、ガムテープを手に取った。待ってください、と乃梨子は大きな目でじっと逢坂を見る。

「お願いします。その前に私たちも味見したいんですけど、だめですか?」

「あん?」

 潤んだ目に、逢坂が顔を顰めながらも思わず手を離す。乃梨子はカバンから出したビスケットの箱を見せた。

「これ、ずっと食べたかったんです。新発売のビスケット、夕方に買ったけどまだ味見してないんです。ぐるぐるにするのは、そのあとじゃだめですか?」

「私もまだ食べてないです。すっごく楽しみにしてたんです。お願いします。あと、ぐるぐるの前にできればトイレ行きたい」

 俯いていた杏梨も歩み寄り、泣きそうな顔で訴える。さらに乃梨子も続けた。

「お願いします逢坂さん、ちゃんと言うこと聞きます。あとこの子にも、ちゃんと言うこと聞かせますから」

 大切な願いごとを頼むように、乃梨子がじっと見つめる。逢坂がため息をついた。

「…………さっさと食べなさい」

 やったー! と乃梨子と杏梨が手を取り合い、きゃいきゃいとうれしそうにリノリウムの床に座り込んだ。ガムテープを持った逢坂が、仕方なく二人の前で腕を組む。

 乃梨子はノートを取り出して未使用のページを広げ、がさがさと袋の音を立てながら、楽しそうに円形のビスケットを並べはじめた。そのいくつかを指差したあと、いただきまーす、と元気に手を合わせる。

 リスのように両手でビスケットを持ち、一口かじった乃梨子が、えへっ、と目を細めて笑った。

「あ、やっぱりすっごいおいしい! 生地がさっくり香ばしくて、挟んであるクリームがふわっととろける〜!」

「ほんとだおいしい! ネットでもすっごく評判よかったもんねー。なめらかでリッチな生地と、甘酸っぱい部分が最高〜!」

 杏梨も幸せそうに味わいながら、にまっと笑った。逢坂はちらりと二人を見て、ふん、と馬鹿にしたように息をつく。

「あんずのジャムに、クロテッドクリームっていうのも使ってるんだって。うれしい、やっと食べれたー」

 乃梨子がさくさくとビスケットを食べる。これはもうビスケットじゃないよねー、と杏梨も手にしたビスケットを見つめる。そんなものか、と空腹であることを思い出しながら腹をさする逢坂に、杏梨が生意気そうににやりと笑った。

「知らないの? これすっごい人気ですよ? 特に今回のはビスケット部分の塩味が絶妙で、クリームの爽やかさとマッチしてすっごくおいしいの。薄焼き堅めのビスケット、甘さ控え目ほんのりバター、新☆感☆覚サワーミルククリーム!……おじさんって一応、お菓子会社の人でもあるんでしょ? 知らないなんて許されないよねー」

 きゃははは、と笑いながら杏梨がまた一つビスケットを手に取る。乃梨子が気遣うようにノートをちぎり、クリームサンドのビスケットを数個乗せて優しく逢坂に言った。

「あの、よかったら食べますか? ……だからあの、怖くしないでください」




 ぐねぐねとした鹿野峠のカーブをいくつも越え、百合園の甘く優雅な空間を抜けてしばらくすると、前方の路面に白いタイルのようなものがスクーターのライトに反射した。避けようとスロットルを緩めて右側に寄り、通過した瞬間、見覚えのある形に気付く。

 まさか、と慌ててブレーキをかけてスクーターを降り、拾いに戻る。落ちていたのは白い携帯電話で、乃梨子と杏梨たちが使っていたものに見えた。

 守口は急いでスマートフォンを取り出し、拾った携帯電話を撮影して杉原に送信する。すぐに杉原から着信があり、守口が報告した。

「乃梨子ちゃんたちの携帯だよね? こっちで間違いないよ、早く!」


 スクーターの守口に深見と杉原が追いつき、その施設に三人が到着したのは、十時半を過ぎたころだった。奥に横付けしてある白色のセダンには、ウシタ製薬のロゴが入っている。

「……ここだ」

「状況によっては警察沙汰になります。一応、余計な指紋をつけないよう気をつけて」

 杉原が奥に見える明かりを指さすと、深見が施設に向かって走り出した。足音も構わず廊下を駆け、勢いよくドアを開ける。

「乃梨子! 杏梨!」

 空しくドアが鳴る。駆けつけた男たちは目を見開き、レッサーパンダのように直立した。

 小百合は、授業中に眠ってしまった学生のように、机に突っ伏して眠っている。

 逢坂らしき人物は、床で眠り姫のように横たわっていた。両足首はガムテープでぐるぐると拘束され、両手首も腹の上で拘束されている。ミイラを作るかのごとく楽しそうにガムテープを巻いているのは、乃梨子と杏梨だった。杉原が呟く。

「これは……警察沙汰にはできないな」


 駆けつけた三人を見て、きゃあ、と少女たちはうれしそうに飛び上がり、よかったー、と深見に飛びついた。深見は二人を抱えながら、怪我はないか、おかしなことはされていないか、と何度も確認する。

 いったい何をしたんですか、と杉原が尋ねると、乃梨子がにっこり笑って説明した。

「この建物に入る前に、ビスケットにお薬を混ぜました。守口さんがしてたみたいに、クリームサンドのビスケットをきれいに剥がして、杉原さんが言ってた『眠るためのお薬』をペンで粉々に砕いて、めいっぱいクリームに混ぜて、もう一度挟みました」

「……何錠入れたんですか」

「お腹いっぱい食べても大丈夫って杉原さんが言ったから、シート一枚分を全部粉々にして使いました。それを三つ作って、袋に入れ直しておいたんです。食べてもらえるチャンスがあったら、食べてもらおうと思って」

 すっごく上手にできたんだよねー、と杏梨が満足げに言うと、乃梨子もうれしそうに報告した。

「だから、どうしても食べてほしくて、がんばっちゃったんです。そしたら食べてくれて、すっごく眠そうになってたから、休んだほうがいいですよって言ってあげたんです」

「馬鹿、殺されていたかもしれないんだぞ」

 深見が叱りながらも安心したように肩の力を抜く。乃梨子もほっとしたように答えた。

「ごめんなさい。あの人、小百合さんを自殺に見せかけて殺そうとしてたから。でも、もう大丈夫です。証拠もあるし」

 そう言って乃梨子は、スカートのポケットから小百合の携帯電話を取り出して見せた。

「小百合さんの携帯で録音したんです。これ、証拠にならないですか」

 携帯電話を操作し、録音されていたやり取りを確認する。作業台に置かれている文書に守口が気付いた。

「ほんとだ。竹中さんの名前が入った遺書がある」

「遺書?」

 驚く杉原と深見に、それは、と乃梨子が封筒から書類を取り出す。

「こっちの書類と一緒でしたよ」

「……嘆願書?」

 首を傾げる杉原に、なにそれ、と守口も覗き込む。書面には『河出康行再捜索についての嘆願書』とあり、逢坂の署名がされていた。内容は捜索関係者への丁重な感謝の言葉と再捜索の要請、さらに自分達の力不足を反省するかのような文章で締められている。

 文章を読みこんだ杉原が、気持ち悪そうな声を出した。

「書類として繋がってはいるけれど、言葉選びが不自然で、妙なところで切れてる。『元気に戻って来ていただき、その上でこの』……ここで一枚目が切れて、二枚目からが『不祥事の責任を取りたいと考えます。誠に身勝手な言い分で申し訳なく思いますが、何卒ご理解賜りますようお願い申し上げます。竹中小百合』……二枚目だけなら遺書に読める」

「うわあ。この人ヤバい。どうする?」

「証拠になるから触るなよ。あと、目を覚ましたら面倒だから、適当なところに」

 そう言って杉原は守口に指示して、ミイラのような逢坂を、二人でそのまま男子トイレに運んだ。部屋に戻ると、深見が小百合を抱き起こし、険しい顔で様子を見ている。

 杉原さん、と杏梨が不安そうに尋ねた。

「小百合さんは平気なの? 小百合さんのバッグにあった薬のシート、六錠ぶん空になってたけど」

「……体質にもよりますが、命に別状はないはずです。通常は一回一錠ですが、十錠飲んでも眠れないという人もいます。健忘が起こる場合もあるので、無理に起こさないほうがいいとは思いますが、話しかけて、起きるようなら大丈夫だと思いますよ」

 そうか、と深見が安堵したように表情を緩めた。小百合の肩に手を添えながら、少しずつ呼びかける。乃梨子と杏梨は顔を見合わせ、そっと深見たちから離れた。

 守口もほっとしたように息をつく。

「でもよかった。心配したよ」

「私たちのこと、探してくれたんですよね。来てくれて、びっくりしました。……私たちも、小百合さんが心配だったんです。あと、役に立ちたかったから。私も」

 恥ずかしそうに乃梨子が首をすくめる。守口は、深見と小百合に背を向けながら小声で言った。

「そういえば二人とも……特に杏梨ちゃんって、ずっと竹中さんの味方だったよね。深見さんは、あんなに竹中さんを敵視してたのに」

「私、いい人ってわかるんです。それに、小百合さんのことは、証拠があるから」

「言ってましたね。竹中さんが深見さんを大切に思っている証拠がある、と」

 なんだったんですか、と杉原も声をひそめて尋ねる。守口と乃梨子も加わり、四人で盛大にひそひそ話を始めた。深見は四人を気にしながらも、身じろぎを始めた小百合に話しかけている。杏梨が困ったように笑った。

「……どうしよう。小百合さんは知られたくなさそうだったし」

「あれは、あのときのルールであって、約束ではありません。もう勝敗は付いて終わったゲームですから、話しても反則ではないですよ」

 杉原が笑いながら杏梨をそそのかすと、守口も身を乗り出した。乃梨子は笑いをこらえている。深見は、目覚めて辺りを見回している小百合に、少しずつ経緯を説明していた。

 じゃあ、と杏梨が小さく言った。

「小百合さんのお部屋にあった、平たくて薄い黄色のガラスが、なんなのかわかったんです」

「それって、チーズおかきみたいな円いガラスのこと?」

 守口が親指と人差し指で小さな丸をつくった。その背後では、立ち上がろうとする小百合を、深見が落ち着かせている。

「はい、それが『深見さんが口にするのを無意識に避けていた、触れたくないこと』です。……恥ずかしいから、私たちにも言わなかったんだと思いますけど」

 こんな感じだよね、と乃梨子が円形のクリームサンドビスケットを慎重に剥がし、クリームを見せた。

「そう、これくらいの大きさの、クリーム色のガラスです。あれは、深見さんが小百合さんに作ったステンドグラスの一部です。デザインは百合の花で、濃い青のガラスを多く使ったもの。つまり、夜の絵なんです」

 はあ、と守口と杉原が揃って頷く。杏梨は小さな声で続けた。

「深見さんが作ったのは『夜、百合の花のそばで蛍が光っている』ステンドグラスです。あの円いガラスは『蛍』ですよ。作者の名前は、深見『けい』さんでしょう?」

 おお、と守口がぽんと手を打った。背後では、眠っているあいだのことを教えられた小百合が、青ざめた表情で深見の話を聞いている。

「ステンドグラスを川原に捨てようとしたとき、その部分だけは捨てたくなかったんだと思います。小百合さんはそれを、宝物みたいに、今も大切に持っているんです。……深見さん、今度こそ認めてくれるかな」

 杏梨がちらりと二人を見た。真剣な表情で話をする深見に、小百合が俯いている。

「ごめんなさい」

「だから、どうしてお前が俺に謝る?」

 深見がためらうように手を離すと、小百合は申し訳なさそうに言った。

「……私はたぶん、深見さんの迷惑にしかなりません。それに、自分の母親の遺体を辱めることができる人間です」

「違う。悪かった。お前だけに、辛い道を強いた。教会で嘘をつくのも怖がっていたお前に、俺がお前に、惨いことをさせた」

 膝をつき、掠れる声で深見が言う。小百合は小さく首を振った。

「いいえ。本当の妹以上に、大事にしてもらいました」

「いや、今度こそ認める。……俺は、お前を妹なんて思っていなかった。お前は悪くない」

 下を向いたまま、言葉を吐き出す。小百合はゆっくり立ち上がり、深見を見た。

「私は、深見さんにこそ、俯いてほしくなかったんです。お願いです。だから俯かないで」

 薬の影響でふらつく小百合を、深見が立ち上がって支える。沈黙のあと、真面目な顔で言った。

「……お前はもう少し、太ってもいい。あと、願いごとなら、俺に言え。そのほうが叶う」


「あの強引さは少し見習いたいな」

 残っていたビスケットをかじりながら、杉原がぼそりと呟いた。仲直りしたね、と杏梨と乃梨子が手を取り合って笑う。守口が杉原に言った。

「ね、僕もロマンチックなこと言ってもいい?」

「俺に?」

「なんでよ。そうじゃなくて一応、許可もらってからと思ってさ。……生け花って、生ける形を決めたとき、残したい枝以外の花やつぼみは、惜しまずに切り捨てるんだって。選ぶってことは、他の可能性を捨てる覚悟がいるんだよ。本当に必要な枝を生かすために」

「それで?」

「竹中さんは、花やつぼみのある枝を切って、蛍のとまった葉を残したかったんだなって」

 ほう、とビスケットをごくんと飲み込んだ杉原が言った。

「……お前もよくやったな。俺と深見さんだけだったら、たぶん、ここには来ていない」

「もっと普段から褒めてくれてもいいんだけど」

 調子に乗るな、と冷たく言いながらも、杉原は守口の背中をぽんと叩いた。


 平衡感覚を取り戻した小百合が、深見に見守られながら少女たちに歩み寄る。

「杏梨さん、乃梨子さん、ありがとうございます。二人とも、大丈夫ですか」

「ぜんぜん平気! ……ね、小百合さん、私たちも『私をここから出してください』ってお願いしたことがあるんです。ちゃんと叶ったんですよ。なんで叶ったんだと思います?」

 得意そうに杏梨が言うと、乃梨子が笑って続けた。

「私たちは、神様じゃなくて深見さんにお願いしたんです」



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