2 プフランツェ
ランチタイムのピークも終わり、食堂は静けさを取り戻していた。
ジュースとサンドイッチを買った守口が観葉植物のある窓際の席に座ると、遅めの昼食をとりにきた杉原が、ランチメニューの寿司セットを持って向かいに座った。
ジュースのパックを腫れた顔に押し当てている守口の向かいで、杉原が箸を割る。その横に、弁当の包みを持ったスーツ姿の中年男性が現れた。
「お隣いいですか? おや君は、守口君……ですよね?」
「あー、やっぱり小高さんは、僕のことわかってくれてるんですね」
守口は顔を冷やすのをやめて、ジュースにストローを挿して飲みはじめる。杉原の隣に座ったのは、事務局の経理課長である小高だった。
弁当の包みを広げながら小高が尋ねる。
「漆の木に体当たりでもしたんですか」
「いえ、そういうのには当たってないです」
「だったらなんに当たったんだよ」
いただきます、と杉原が両手を合わせながら聞くと、守口が自慢気に答えた。
「ついさっき、高校生になりたてみたいなかわいい女の子とぶつかりました!」
迷惑なやつ、と杉原が寿司に箸をつける。守口はぺたぺたと腫れた顔を触りながら続けた。
「ほんと迷惑だよこの顔。普段の僕ならもっとカッコよく振る舞えたのに」
「お前が迷惑なのは普段から。で、今回はなんのアレルギーだったんだ?」
「配達先のペットショップで、オカメインコに頬ずりしたのが原因だと思う。ね、この顔いつ治るかな?」
サンドイッチを食べながら、守口が薬袋をテーブルに置いた。杉原が箸を止めて考える。
「今日出した白い飲み薬は、副作用で顔が丸くなることもあるから、顔についてはなんとも言えない。ムーンフェイスとか満月様顔貌っていうんだけど」
「なにそれ、どうしようこの顔」
恥じらう乙女のように守口が両手で頬を押さえる。杉原が再び箸を動かしながら言った。
「冗談。量も多くないし、長く使うのでなければ問題ない。たぶん、明日には引くんじゃないか?」
「よかった、次にぶつかるときには男前に戻ってるね」
今のほうが男前だぞ、と杉原が水を差し出す。それで薬を流し込んだ守口は、そうかな、と真顔で続けた。
「あーでも、さっきの子、この顔見てもぜんぜん怖がらなかったし、にこっと笑って僕の心配してくれたんだよね。どこかで見た子なんだけど」
「確認しなかったんですか」
二人を温かい目で見守っていた小高が、興味深げに口を挟んだ。したんですけど、と守口が真剣に答える。
「今の僕の顔には見覚えがないみたいだったから、『今は本当の僕じゃないんだ』って言っておきました」
ぐっと親指を立てる守口に、バカかこいつ、と杉原が眼鏡を押さえて顔を顰めた。
「無駄に元気なところが厄介だな」
「妙にハイなのは薬の作用かもしれませんね」
弁当を食べ終えた小高がのんびりと言う。ああ、と守口はぽんと手を打った。
「そういえばさっきから、元気とやる気がみなぎってるみたい。注射のおかげかな」
「恐らくそれだよ。肝機能異常とかアレルギー皮膚炎に使う薬を注射したあと、一時的に目に見えて元気になる場合があるんだ。だからって暴れ回らず安静にしてもらいたいんだけど、……今日もバイトか?」
「そのはずだったんだけど、休みにされました。学校休んでおいてバイトにだけ出るなってことかな」
腫れた顔でジュースを飲む守口に、その顔で来るなって話だよ、と杉原がため息をついた。そんな二人をにこやかに見守っている小高の背後から、涼やかな女性の声が聞こえた。
「小高さん、こちらでしたか」
守口が顔を上げる。そこには、色白でほっそりとしたスーツ姿の女性が微笑んでいた。
「こんにちは竹中さん。いらしてたんですね」
どうぞ、と小高が椅子を勧める。杉原も手早くテーブルを片付け、セルフサービスのお茶を四人分用意した。こんにちは、と初対面の守口が頭を下げると、竹中はつややかな髪を静かに揺らし、守口に会釈をする。
「ウシタ製薬の竹中です。今日はご挨拶のついでに、三階のナースステーションで新作を配らせてもらったんです」
「あ、竹中さんって薬屋さんなんですね」
「はい、でも私はMRではなくて、サプリメントの担当なんです」
竹中が少し恥ずかしそうに答えた。MRですか、と知ったように頷く守口に、小高があらためて説明する。
「MRは医薬情報担当者、ひらたく言えば薬の営業さんです。病院で使用する薬を専門とする特別な人達ですよ。MRが薬を配るようなことはありませんが、竹中さんはサプリの担当なので時々おまけをくれるんです」
「小高さん、おまけじゃなくてサンプルですよ、竹中さんのは」
遠慮がちに杉原が訂正すると、茶碗に細い指を添えながら竹中が笑った。
「私はもともとお菓子の会社にいたんです。二年前『ウシタ製薬』に吸収合併されたんですけど」
お菓子の会社にいたんですか! と身を乗り出す守口に、はい、と竹中が頷く。
「合併後の人事交流でMRの助手として仮配属されていた時期があったので、よくMRと間違えられます。今はサプリメントを企画する部署に配属されているのですが、私は専門の知識がないので、時々こちらで小高さんや医局の先生方にご意見をいただいているんです」
「僕は経理ですから、味見くらいしか役に立っていませんが」
なかなかおいしいですよ、と小高がお茶を飲んだ。おいしいの? とさらに身を乗り出す守口に、竹中が肩をすくめる。
「その、私が関わっている商品は、サプリというよりお菓子に近いんです。私はお菓子の会社にいたので、ついそっち寄りの方向へ押してしまうんですよ」
小高も目を細めて頷いた。
「合併して少し毛色の違う仕事になったようですが、竹中さんに向いているみたいですね。光るものがあったのでしょう」
「そんな、みんな製薬関連で頭のいい人達ですから、雑用させられる人材がいなかっただけですよ、きっと」
そう言って竹中は鞄から蜂蜜色のプラスチックボトルを取り出し、三人に手渡した。キャップ式の蓋はピンクゴールドで、中の錠剤が透けて見える。守口が思わず声を出した。
「これ見たことある。さっき女の子が持ってた」
「こちらは『プフランツェ』第三弾の『ハイデローゼ』です。キャッチコピーは『花開くような気分へ』。花のエッセンスも含まれているんですよ」
「花って、どんな効き目があるんですか」
興味深げに守口が尋ねると、竹中が少しだけ困ったような顔をした。
「薬ではないので、『効果』というものはありません。ですが、とってもご好評を頂いているんです」
「じゃあなんだろう。体から花の匂いがしたりとか」
「いえいえ、そういうのはすでに他社さんにありますよ。うちのはもっとお菓子寄りで、気持ちがほぐれるような商品を目指しているんです。美容をサポートするマルチビタミン案もありましたが、杉原さんに意見を伺って、方向修正したんです」
杉原が肩をすくめる。
「そう言われると責任を感じますね」
「何言ったんですか」
守口が責めるような目で杉原を見る。竹中が微笑みながら答えた。
「サプリメントを買うのもいいですけど、改善したい症状があるなら、医師からビタミン剤を薬剤処方してもらった方が早いですよ、って教わったんです」
「含有量が全く違いますし、飲み合わせも指導しますからね」
言い訳するように杉原が付け足すと、竹中が頷いた。
「そのおかげで、私の出る幕があったんですよ。方向性をぐっとお菓子寄りにして、気軽で手に取りやすい商品になりました」
「あー、なんかわかります。商品名もなんとなく女の子の名前っぽいし」
わかってないだろ、と杉原が冷ややかな目で守口を見る。竹中が説明した。
「プフランツェは、ドイツ語で『植物』という意味です。英語のプラントと同じですよ。含まれている成分の多くが植物由来で、国産オーガニックハーブなどを使用していることからつけられました。また、フレーバーにはそれぞれ花の名前がついています」
「その名前が元で回収中なんですよね」
小高が思い出したように言うと、竹中は祈るように細い指を組みながら頷いた。
「今回の第三弾は『ワイルドローズ』から『ハイデローゼ』に変更になりました。名前とパッケージデザインを変えただけなのですが、サンプルとしてモニターに配布した『ワイルドローズ』版は全部回収です」
厳しいですね、と杉原が眼鏡を押さえる。竹中は困ったように笑った。
「慎重なんです。不当表示に抵触する可能性は徹底的に排除する方針ですし、語感やイメージにも厳しいんですよ。『新製品にケチをつけるわけにはいかない』って上司も言ってましたから、縁起を担いでいるのもあると思います」
「ワイルドローズって縁起が悪いんだ」
「いえ、そんなことはないです。野生種のバラのことですから。ただ、『ワイルド』という響きがイメージに合わないという理由でNGが出たんです。結局、同じ意味のドイツ語で『ハイデローゼ』になりましたが、成分は一緒です。オーガニック栽培の食べられる花を使った、お菓子みたいなサプリメントですよ」
「そっか、食べられる花もあるんですよね」
「お前はそれでも花屋なのか」
杉原が呆れたように守口を睨むと、竹中が驚いたように目を見開いた。
「あ、守口さんって、お花屋さんなんですか」
「今日の守口君は患者さんですが、病院のエントランスにあるお花や、このフロアにある観葉植物を届けてくれているんです」
ね、と小高が守口に笑いかける。杉原がすかさず付け足した。
「花はほとんど触らせてもらえないアルバイトですけどね」
「そうなんですか……? お仕事先で言われているかもしれませんが、毒を持つ花もありますから、おいしそうでも気軽に口にしないでくださいね」
はい気をつけます! と守口が腫れた顔でにんまりと笑った。
テーブルに置いたプフランツェのボトルに目をやりながら、小高もにこやかに言う。
「最近は花風水とか、花のおまじないみたいなものも流行っているみたいですね。ボトルも可愛いですし女性ウケするんじゃありませんか?」
「はい、おかげさまで順調です。ただ、返却したくないっていうモニターさんが多くて、ワイルドローズ版の回収がなかなか進まないんです」
ああ、と杉原が思い出したように言った。
「シルデナフィルが開発されたときもそんな流れでしたよ。臨床試験で被験者が返却したがらなかったって聞いた覚えがあります」
なにそれ、と聞き返す守口に、杉原はどうでもよさそうに言う。
「ん、狭心症の薬なんだけど、別の症状に効果があったって話。でも今回は薬じゃなくて、お菓子寄りのサプリメントなのに、大企業は大変ですね」
いえいえ、と竹中は照れたように手のひらを振ると、二人を交互に見ながら微笑んだ。
「それにしても、守口さんがいると杉原さんの雰囲気が違いますね」
「杉原さんは、本性を隠して、優しくて親切な人のフリをするのが上手なんです」
真顔で言う守口を無視して、杉原がため息まじりに竹中に説明する。
「ああその、こいつは従兄弟なんです。昔は近所に住んでいて、兄弟みたいに育ったので」
「僕は三年前にこっちに引っ越してきたんです。今年大学に入って、花屋のバイトを始めたらこんなことに」
「こんなことって、そのお顔は、お花屋さんで?」
顔? と一瞬考えた守口が、自分の顔に触れて現状を思い出す。
「忘れてた。顔は関係ないです。普段はもっとカワイイですから僕。杉原さんより」
「仲がいいですねえ」
小高が目を細めて守口と杉原を見る。竹中も羨ましそうに二人を見た。よくないですよ、と杉原がため息をつく。
「うちの病院に出入りしてる花屋で働くとは知らなかったんです。こんなのにウロウロされて、こっちはいい迷惑ですよ」