19 杏梨の仮説
金曜の夕方、隈池病院の食堂の隅では、杉原に呼び出された守口が、テーブルで頬杖をついていた。帰る準備を済ませ、タイムカードを押した杉原が遅れて到着する。
「待たせて悪かったな。あがる間際に、薬局長とウシタ製薬のMRが、深刻な感じで話してて、聞き耳を立ててたら遅くなった」
「別にいいんだけどさ、僕ってひょっとして、ヒマって思われてない?」
「違ってたなら失礼。実は深見さんから電話があって、残業があるから二人の面倒を少しのあいだ頼むって言われたんだ。もうすぐ来るけど、……お前もバイトで忙しいもんな、悪かった、帰っていいぞ」
「あっいえ、今日はバイト休みです」
「いやいや、バイトがなくても、勉強にサークルに合コンに、二度とない青春の想い出を堪能する権利を、尊重してやるのが兄のつとめだった。悪い悪い」
「玲兄ちゃんって呼ぶと怒るくせに」
当たり前だ、と杉原は顔を逸らし、窓の外を見た。空は薄紫色に暮れかかっている。まあいいや、と守口が続けた。
「今回学習したもんね。女の子にお兄ちゃんとして振るまうといいことがあるって」
「中学生をかどわかそうとしたら、俺は責任持って全力で邪魔するからな」
「それを言うなら深見さんだってかなりアレじゃん。当時高校生のくせして、中学生相手に指輪のプレゼントとか、なんかこう、いろいろダメじゃん?」
「今のお前がやるよりサマになってる」
どうでもよさそうに言いながら、杉原がテーブルの上で指を組む。そうなの? と守口が身を乗り出した。
「のんびりしてたら僕のモテ期も終わっちゃうんですが」
「そんなもの、お前がビスコやチーズおかきを剥がしてるうちに終わってる」
「えっ、そんな早いうちから終わるものなの!?」
「何が終わったんですか?」
割り込んできた少女の声に二人が顔を上げる。杏梨と乃梨子だった。まだ終わってないから、と主張を続ける守口を押しのけ、杉原が立ち上がって椅子を勧める。
「昨日はお疲れさまでした。……深見さんは残業だそうですね。どんな様子でしたか」
食堂を見回す。夜勤や残業の職員は食事を終えていて、数人の見舞い客がいるだけだった。杏梨と乃梨子に注目が集まる心配はない。椅子に座った杏梨が答える。
「一人になりたそうでした」
「落ち込んでたみたいです」
心配そうに言いながら乃梨子も座った。赤い縁の眼鏡を外してカバンに入れると、ふと漂ってくる匂いに鼻を鳴らし、遠慮がちに厨房を見た。杉原が、乃梨子と杏梨の顔を交互に見る。
「もう夜になりますし、食堂が開いてるうちに何か食べませんか? 昼よりメニューは少ないですが、ごちそうしますよ」
少女たちは顔を見合わせると、入口を指さして言った。
「前に来たときから気になってたんですけど」
「あのサンプルのオムライスが食べたいです」
「深見さん、眠れなかったみたいです」
オムライスにスプーンを入れながら乃梨子が言った。杉原もオムライスの端をつつきながら頷く。
「無理もないですね。指輪を返されたり、ステンドグラスを割って捨てられたり、行動と発言だけなら、好意的な解釈は難しいですし」
「でも小百合さんに、深見さんを嫌いになる理由はなさそうなんですよね」
考えるような顔をしながら、杏梨も柔らかな卵の部分を口に入れる。守口がスプーンを咥えながら言った。
「実は、普通に深見さんが嫌だったんじゃないの? あのちょっと勝手で図々しい態度がかなり気に入らなかったとか」
「それはお前の嫉妬」
「でもさ、嫌いの反対だったら、『小百合、深見お兄ちゃんのためにお母さんを殺してあげたの』ってことにならない?」
オムライスを咀嚼しながら守口が言った。でも、と杏梨がごくんと飲み込む。
「小百合さん、深見さんのお母さんとは、事件の日に初めて会ったって言ってましたよね。それに深見さんも、自分の母親の話はほとんどしてない、って言ってました」
「言葉の端々に滲み出てたんじゃないのかな。本人が聞いてないと思って、あることないこと大げさに話す人っているじゃん。『妻とはうまくいってない、口も聞いてない』とか」
「高校生はそんなこと言わない」
「だから、『母親とはうまくいってない、口も聞いてない』って言ったとか」
「深見さんがそんなこと言ってなんになる? 反抗期真っ只中の情けない男子高校生としか思われないだろ。そもそも竹中さんがそれ聞いて『じゃあ私がそのお母さん殺すね』って思う人だったら、今ごろもっとすごい事件起こしてると思う」
「そこで起きたのが、河出さんって人の失踪事件と、プフランツェ回収事件じゃん。だから一応、そっちも疑ってるんじゃない?」
守口の言葉に、乃梨子も頷きながら言った。
「小百合さんが悪人であることを証明して、深見さんへの悪意でやったことだと納得したいみたいです。だから小百合さんの行動を追って、確かめようとしているみたい」
「……それを証明できたとしても、深見さんは救われるのかな」
スプーンを持つ手を止めて杏梨が呟く。守口がケチャップをすくいながら唸った。
「竹中さんってさ、深見さんのお母さんに関しては無実を主張できるのに、『私がしたのかもしれません』って、わざと言ってるんだよね。誰かを庇ってるんだとしたら、深見さんしか庇うべき人はいないのに、当の深見さんが、『母親を殺された』って怒ってる」
端に逃げていたマッシュルームをスプーンにのせた杉原が、杏梨に尋ねた。
「深見さんは当時の詳細を知っているんですよね」
「そのはずです。お部屋に資料が残ってましたから。小百合さん、深見さん家のことは知らないって、警察に証言したそうですよ。毎日会っていた深見さん本人との関わりも否定したそうです」
「家の鍵が開いていたことや、母親がしていた指輪は、問題にならなかったんですか」
「あ、それはお父さんの判断で、話さなかったそうですよ。鍵は開いてたけど、お金も時計も貴金属もなくなってなかったし、指輪は深見さんが購入した記録があるし」
「その状況で言いたくないよね。『本当は僕が彼女に贈った指輪です』なんて」
そう言って守口がオムライスを平らげると、乃梨子も天井を見ながら言った。
「指輪は抜けなかったので、そのまま葬られたそうです。あと、事故だと判断された決定的な理由は、以前もお母さんがトラブルを起こしていたからみたいですよ。不満があると、怒りにまかせて常軌を逸した行動に出ることがあったそうです」
「うわあ大変そう」
「深見さんも、お母さんの突発的な行動に苦労したそうです。事件の日も、急に留守番を命じられたから、すぐに家を出られなかったんですよね。お父さんも家にいたのに」
「そういえばそんなこと言ってたね」
守口はスプーンを置き、ごちそうさまでした、と手を合わせた。乃梨子の話を聞いていた杏梨は、考えるような顔でオムライスの中のチキンライスをつついている。杉原は乃梨子に聞いた。
「ところで、竹中さんのお母さんの死因は、はっきりしているんですよね」
「はい、切り傷による失血死だそうです。部屋には割れたガラスと、お母さんが暴れた痕跡があったそうです」
現実感がないのか、乃梨子はのんびりと言う。守口が恐るおそる聞いた。
「暴れたって、麻薬の禁断症状とかで?」
「はい。だから、正当防衛ではないけど、それに近い扱いだったそうですよ。凶器になったのは食器棚のガラスだそうです」
「あれ、そこは深見さんのステンドグラスじゃないんだ」
「はい、いくつかの傷口と一致してたそうですよ。小百合さんは『怖くて覚えてない』って証言して、一時的な心身耗弱状態だったと判断されたって、深見さんが言ってました」
暗記した文章を思い出すように乃梨子が言う。なんか変、と守口が腕を組んだ。
「何が変なのかわからないけど、なーんか変だな。てっきり、深見さん特製ステンドグラスが関係あるのかと思ってた。関係なくてもいいんだけど、なんか違和感っていうか」
「あ、私も思いました。ゆうべの深見さんの様子も、ちょっと不思議じゃなかったですか? 指輪のことは普通に話してたのに、ステンドグラスの話をしようとすると……というより、深見さんは『ステンドグラス』って言うのも嫌そうだったから」
「それ! なんかめちゃくちゃ嫌そうだったから、ステンドグラスがよっぽど凶悪な使われかたしたのかと思ってた。だから、そうじゃないことに変な感じがするんだ。単に手作りプレゼントが恥ずかしいのかとも思ったけど」
「お前はその羞恥心を、フラワーアレンジメントに生かすといいと思う」
どういうことなの、と不満げな守口を無視して、杉原が続けた。
「ともかく、口に出すのを無意識に避けてしまうというのは、そのことについて触れたくない、話したくないという気持ちが働いているのかもしれませんね」
そう言って杉原も最後の一口を食べ終わり、ごちそうさまでした、と手を合わせた。乃梨子が付け合わせのパセリを見つめながら言う。
「深見さんが、私たちに話したくないこと……?」
「それがステンドグラスと……あ、ひょっとしたら」
スプーンをかちりと皿に置き、杏梨が瞬きをした。人形のように動きを止めたまま、うわごとのように呟く。
「やっぱり小百合さんのあれは……だとしたら……お母さんのことも……」
「杏梨、わかりそうなの?」
「うん」
乃梨子に笑顔を返し、杏梨はオムライスの残りを元気よく食べはじめた。乃梨子も慌ててオムライスを完食する。おいしかったー、と少女たちは同時にごちそうさまを言った。
片付けまーす、と乃梨子と杏梨は四人分の食器を片付け、ジュース買ってきます、と食堂の入口にある売店へ向かった。なんかよくわかんないけど、と守口が呟く。
「何か僕にひらめくような発言あったかな」
「いやない。お前にはない。……杏梨さんは昨夜、質問しながら竹中さんの反応を見ていた。そこから何かに気付いたのかな。でも、竹中さんが明言したのは『指輪を返した、カップを洗った、母親とは初対面だった』くらいで、あとは『覚えていない、わからない』だ」
そう言って杉原がテーブルに肘をついた。売店の方から、杏梨と乃梨子が両手にジュースの缶を持って、きゃいきゃいとはしゃぎながら戻ってくる。うーん、と守口も頬杖をついて言った。
「ヘタな嘘より、何も言わないほうがいいって感じなのかな。『偽装するより隠すだけのほうがわからない』って小高さんも言ってたよね。偽装の意図がわかれば、本当に隠したいことのヒントになるって」
「小百合さんも言ってました。『ごまかすために嘘を考えるより、秘密ですって言うほうが楽ですよ』って。小百合さんの発言に嘘がないとは言わないけど、小百合さんが答えられる質問は『本当のこと』で、答えられない質問は『秘密』なんです」
杏梨がにっこり笑って席に着いた。
黄色はラッキーなんですよね、と乃梨子が守口の目の前にCCレモンを置いた。杏梨は黙って杉原の前にドクターペッパーを置く。
これは私にですか、と尋ねる杉原に、好きそうな気がしたから、と杏梨が答えて自分の前にはピーチのソーダを置いた。
「お前たち、何か食べたのか」
低い男の声に振り向くと、グレーのスーツを着た深見が、疲れたような顔で立っていた。お疲れ様です、と杉原と守口が挨拶すると、深見はかすかに笑って肩をすくめてみせた。パインのソーダを手にしながら、乃梨子が笑顔で報告する。
「オムライスごちそうになりました。おいしかったですよ。深見さんは?」
「いや、俺はいい。……こいつらが世話になって、申し訳ない」
芝居がかった口調で深見が杉原に軽く頭を下げる。デートですからお気になさらず、と杉原も頭を下げた。杏梨がにっこり笑う。
「ジュースをみんなで飲むところだったんです。深見さんのも買ってきますね」
深見が何か言う前に、杏梨と乃梨子はまたきゃいきゃいと売店へ向かい、栄養ドリンクの瓶を手にして戻ってきた。新発売のビスケットも買っちゃった、と杏梨がクリームサンドビスケットの箱を見せる。
深見は仕方なく椅子に座り、渡された瓶の蓋を開けて、それを一気に飲み干した。
「ビスケットも食べますか」
「お前たちが明日食え」
はーい、と乃梨子がカバンにビスケットをしまう。それよりジュースを早く飲め、と言いたげな深見に、ところで、と杏梨が真剣な顔をして聞いた。
「深見さんは、お母さんの水死が小百合さんのせいだって、本当に思ってるんですか」
深見が顔を顰める。空になった栄養ドリンクの瓶に目をやり、ため息をついた。
「……他に誰がいる? 共犯がいて、そいつを庇うためにとぼけているわけでもない。俺の父親から騙し取った金も、他人に流している様子はない」
「小百合さんが本当のことを話さないのは、深見さんのためって、考えないんですか」
「その心配はまったくなさそうだ。ガキだった俺が、あいつの都合も考えずに、勝手に図々しく引き回していただけだ」
深見が自嘲するように口元だけで笑う。守口は複雑な顔で黄色い缶を開けた。乃梨子がパインソーダの缶から口を離し、気遣うように言う。
「小百合さんがそう言ったわけではないんですよね」
「言われなくてもわかる。マイルドに言えば『母親とでも結婚してろ』ってことだ」
なにそれ、と首を傾げる守口の耳元で、赤い缶を開けながら杉原が囁いた。
「少しだけ下品に言うと、『お袋と寝てろクソ野郎』って感じの、英語圏では最大級の侮辱に取れたってこと」
はあ、と守口がわからないまま頷き、乃梨子が首を傾げる。その横で、杏梨が小さく吹き出した。
「中学生の小百合さんは、そんな言葉知らないと思いますよ。あと、小百合さんは深見さんと嫌々会ってたわけじゃないし、お金を騙し取ったりもしてないと思うんです」
「お前は優しいな。でも俺が同じことを考えていたら、優しいというより、馬鹿だ」
深見が椅子の背にもたれかかり、腕を組む。杏梨はピンク色の缶を開けると、両手を添えて言った。
「私、小百合さんに罪はないって考えてるんです」
深見は鼻を鳴らして目を閉じると、面倒臭そうに言った。
「自分の母親殺しについては自供している。俺の母親を殺していないなら、それをはぐらかす理由がない。庇うべき共犯者も存在しない」
「共犯者の可能性といえば、竹中さんは深見さんのお父さんから、大金を受け取っているんですよね。特殊な関係性はないんですか? 血縁関係やそれ以外の可能性も」
杉原の質問に、それ以外? と守口が首を傾げる。深見は一瞬考えてから答えた。
「血縁は間違いなく、ない。それ以外の可能性というのが、倫理的に問題のある関係のことなら、それもない」
「失礼ですが、言い切れますか」
「あいつにも父親にも、時間がない。父親は夜、いつも家にいた。……それ以前に無理だ」
深見が冷たい目で杉原を見る。
「では、父親共犯説もないんですね。深見さんを車で送るとき、お父さんは免許証を取りに一人で家へ戻っています。それで鍵の問題は説明できると思いましたが」
「俺の父親が仮に共犯でも、家にあいつを入れる意味がない。鍵をかけ忘れた可能性はあるが、そもそもあの日、三人で外に出ることになったのは、突発的なものだ。予測して示し合わせるのは無理だ」
「では、竹中さんは単独で深見家への出入りが可能で、大雨の中を戻ってきたお母さんに指輪を返し、五時四十分にはダムへ突き落として、自分は川を渡ったということですか? 五時五十分に、反対側でガラスを捨てる竹中さんを見たのは深見さんですよ」
「川を渡っていないというのなら、向こう側に誘い込んで殺せばいい。五時十五分までに自分の母親を殺し、橋へ向かって俺の母親と会えば五時二十五分。俺の母親を連れて川原まで歩けば五時四十分。殺して隠す時間はある」
嫌そうに語る深見に、杉原が呆れたような声を出した。
「理屈の上では可能かもしれませんが、人としてできると思いますか? 竹中さんのお母さんが暴れたことや、深見さんのお母さんが興奮状態で大雨の中を飛び出したことこそ、突発的で、予測できないものですよ」
「つじつまが合うなら認めると言ったのは竹中小百合だ」
「では、カップのことは? 洗ったカップがあったということは、三人が車に乗ったあと、つまり四時三十分以降に、竹中さんが深見家に出入りしたということです」
「その直後、カップだけを洗ってそのまま自宅へ帰れば、到着は五時前後。自分の母親を殺す時間はある」
「では、竹中さんはカップを洗うためだけに無人の深見家に侵入したとでも?」
「つじつまは合う」
深見が不機嫌そうな声を出すと、それなら、と守口が口を挟む。
「竹中さんは、深見さんの家で紅茶を一人で飲んでカップを洗った。鍵が開いていたのはお父さんのミス。車から降りた深見さんのお母さんは、自分で滝の下の川原へ向かったっていう説はダメなの? 水死は事故だって警察は言ったんだよね?」
「それだと、いつ指輪を返したことになるんだ?」
「……そっか。でもさ、五時四十分に家へ着いたとき、玄関が濡れてなかったなら、ずぶ濡れ状態のお母さんは、家には帰ってなかったってことだよね。逆に、竹中さんの家がある川原側へ向かったなら、竹中さんも指輪を返せるじゃん?」
「だとしたら、深見さんのお母さんは、水死する直前に竹中さんと会っていたことになる。事故だとしても、竹中さんが関わってないほうが不自然ってことになるだろ」
杉原はドクターペッパーを一口飲んで続けた。
「大体、竹中さんはどうやって、顔も性格も知らなかった『興奮状態の深見さんのお母さん』に指輪を返せたんだ? それに、人を殺すって、空き時間を利用してすんなりできることじゃないと思う。当時、中学生の女の子だぞ?」
険しい顔で杉原が考え込む。じっと考えていた杏梨が深見に尋ねた。
「あの、質問いいですか。その日は、何曜日だったんですか」
「八月十四日の、月曜」
考える間もなくさらりと深見が答える。杏梨が質問を続けた。
「お父さんは何をしていたんですか」
「二日ほど前から体調を崩していた。二階で休んでいたはずだ」
「それでお父さんは、家にいたんですね。そしてお母さんは急用で、深見さんは留守番を命じられた。だから、いつもの時間に家を出られなかったんですよね。……お母さんは、どこへ出かけていたんですか」
「聞いていない」
ふて腐れたように答える深見に杏梨が質問を続ける。
「お母さんが帰ってきたから、深見さんは家を出たんですよね? そのとき、何も聞かなかったんですか」
「母親が出先からかけてきた電話を、俺が取った。話が長くなる前に外出の許可を取って、すぐに家を出た。だから母親がいつ家に戻ったのかは知らない」
「電話越しに、外出許可が下りたんですね」
ああ、と不機嫌そうに深見が頷く。杏梨はゆっくり立ち上がった。
「深見さん」
ゆうべの小百合のように、深見の正面に立つ。
「私はある根拠があって、こう考えます。『小百合さんは、深見さんのお母さんを殺していない。川も渡っていない』。ただ、『指輪を返して、紅茶を飲んでカップを洗った』。あと、『自分のお母さんを死なせたのも、小百合さんではない』……つまり、小百合さんは誰も殺していない」
「どんな根拠があるのか知らないが、自分の母親に対して殺意があったのは確かだ。『怖かった』といいながら、逃げもせず、相手を死ぬまで切りつけている」
そう言って深見が杏梨を睨む。杉原が口を挟んだ。
「そんな状況に遭遇したら、まともな判断はできませんよ。母親は薬物中毒で錯乱していたんですから」
「だからといって竹中小百合が潔白とは言えない。混乱していようが覚えていなかろうが、非がないならそれを主張したらいい」
頑なな深見に肩をすくめると、杉原は杏梨を見ながら言った。
「まあ、竹中さんが殺したのかどうかはともかく、彼女には、自分の潔白を主張するよりも優先していることがある。……というのが、杏梨さんの仮説でしょうか」
そうです、と杏梨が頷いた。
「小百合さんは、『指輪を返して、紅茶を飲んだカップを洗った』だけで、深見さんのお母さんも、自分のお母さんも、死なせていない……これを説明できたら、深見さんは納得してくれますか」
「つじつまが合うならな」
「じゃあ、小百合さんに電話してもいいですか?」
深見の顔を覗き込み、杏梨は挑むように笑った。




