18 水をわたる魔女
翌日の木曜、隈池病院のエレベーターを降りた逢坂に、杉原が声をかけた。午後のエントランスホールはほどよく混雑しており、二人はソファの脇で立ったまま世間話をした。ところで、と杉原が切り出す。
「竹中さんは今日、いらっしゃらないのですか」
少しだけ上目遣いで尋ねる杉原に、おや、と逢坂が意外そうに笑う。
「勉強熱心とは思っていましたが、竹中は薬剤師の恋人を作っていたんですかな」
「とんでもない、お忙しそうで声もかけられないくらいです」
振られっぱなしですよ、と笑顔を作る杉原に、それはそれは、と逢坂も口の端を上げる。
「竹中は今日、他の製薬会社さんと合同で行うセミナーの手伝いに行かせているんです。ウシタ製薬からは『美容サプリメントとの上手なつきあいかた』、クラオ製薬さんの化粧品部門からは『心も変わるスキンケア』。どちらも、働く女性を対象にした企画なんですよ」
「ああ、それで女性の竹中さんを」
「ええまあ……向こうの担当者さんは、これからは男性にも必要になりますよ、なんて言ってましたけどね」
参りますな、と逢坂は鞄からプリントされたイベントの案内を出し、杉原に手渡した。会場には市内のコンベンションホールの名前がある。
杉原はプリントから顔を上げ、眼鏡を直しながら尋ねた。
「そういえば、去年まで竹中さんとご一緒にいらしていた河出さん……失踪したという噂を聞いたんですが」
「それは……すみません、社内でも伏せている話なんです」
声をひそめた逢坂が、困ったように肩をすくめてみせた。あわせて杉原も声をひそめる。
「なるほど、それで竹中さんもお忙しいんですね。プフランツェの新作でいろいろあったような話を聞いたので、そっちでお忙しいのかと思っていました。……回収されてるとか」
「ああ、竹中が躍起になっていたようですな。彼女も結構、細かいところがありまして」
「そうでしたか。ネーミングの問題で、逢坂さんがマーケティング的にNGを出したのかと思っていました」
「いえいえ、私はこの通り、部署が違いますし……プフランツェの件についても、指示を出していたのは河出でしたからね。今は竹中が実質的な責任者みたいなものです」
遠い国の話でもするように逢坂が言った。杉原が少しだけ複雑な顔をする。
「出世されているみたいで、うらやましいです。……ちなみに河出さんも、竹中さんと仲がよかったんですか?」
「いやいや、そういう心配はいらないですよ。プライベートの付き合いなんていうものはなかったはずです。もしあったなら、河出だっていなくなったりしませんよ、あんな美人を残して」
「確かに。少し安心しました。それにしても、河出さんはどうされたんでしょう」
質問しながら逢坂を観察する。それが、と逢坂は首を横に振りながら答えた。
「彼のご両親に話を聞いてみたりもしたんですが、見当がつかないそうです。警察は、事件性はなく、自主的な失踪ではないかと言っています。そのうちひょっこり帰ってくると信じたいのですが」
「何か、トラブルでも抱えていたんでしょうか」
「うーん、会社で何かあったとは思っていませんが、……杉原さん、何か思い当たるようなことでも?」
興味深げに顔を覗き込む逢坂の視線から逃れ、いえ、と杉原は天井を見ながら言った。
「特別親しかったわけではありませんが、河出さん、プフランツェのことでは悩んでいるような様子がありましたから……少し、気になっていたんです」
「プフランツェ……やはり竹中が」
竹中さんが? と訝しむように聞き返すと、いやいや、と逢坂は打ち消すように続けた。
「もちろん本人は何も知らないそうです。ただ、彼女は人目を引くので噂になるんですよ、いい話も悪い話も。河出が最後に会ったのは竹中ではないか、という話もありまして」
逢坂が困ったような表情を作る。杉原も深く頷き、目の前のソファを見ながら非難するように言った。
「疑わしいからといって証拠もないのに、ひどい人もいるものですね」
「まあ、噂がどこまで噂かもわかりません。……しかし、仮におかしな話が出てきたら、彼女を庇いきれなくなるかもしれませんな。杉原さんも恋人は慎重に選んだほうがいいと思いますよ」
逢坂は神妙な顔で言葉を切ると、思わせぶりに笑った。参考にさせていただきます、と杉原がにこやかに頭を下げる。正面玄関を出ていく逢坂が見えなくなったころ、目の前のソファに座っていた深見が、顔だけを杉原に向けた。
「ひどい人で悪かったな」
「まあそれはともかく、プフランツェに関しては、竹中さんと逢坂さんの言っていることが若干違っていますね。二人が共謀しているようには思えません。さらに言うなら……どちらかというと、竹中さんより逢坂さんのほうが疑わしいような気がします」
「気がするだけだ」
「では、確かめに行きませんか、今夜」
杉原は深見の前に回り込み、セミナーのプリントをひらひらと振ってみせた。
夜、仕事を終えた杉原たちは、深見の車で市内のコンベンションホールへ向かった。地下駐車場に車を止めると、助手席で杉原が腕時計に目をやる。九時を過ぎたところだった。
そろそろ終わるころですね、と呟く杉原の後ろの座席で、セミナーのプリントを見ていた守口が言った。
「働く女性たちのセミナーって、こんな時間にあるんだ」
「働く女性だから、こんな時間なんじゃないですか」
杏梨が横から口を挟む。『働く女性たちのビューティセミナー』の開催時間は夜の七時から九時までとあった。そろそろ受講者たちが帰り、講師も引きあげ、竹中小百合を含めた補助スタッフも撤収作業を進めているはずだ。
では、と杉原がプフランツェの入ったケースを持って車を降りる。続いて降りようとする杏梨と乃梨子に、深見が厳しい口調で言った。
「お前たちは駄目だ」
「えー、せっかく証拠の書類もカバンに入れてきたのにー」
「車の中に、子供を置いていっちゃダメだと思います」
「すぐ戻る。お前たちはそこにいろ」
少女二人のブーイングに構わず、深見が車を降りる。杉原は後部座席を覗き込み、素早く眼鏡を外しながら言った。
「あとで、私の忘れ物を届けてください」
そう言って杏梨に眼鏡を手渡し、片目を瞑ってみせる。杉原は守口を促し、何事もなかったかのような顔で深見と会場へ向かった。
会場である多目的ホールは、すでに半分ほど照明が落とされ、撤収作業もほぼ終わっていた。お疲れさまでした、とスタッフたちもお互いに挨拶を交わしている。
深見さんは向こうで待っていてください、と目くばせをして、守口と会場を見回す。荷物をまとめたスタッフが次々と引きあげるなか、最後まで残り、会場の椅子を丁寧に揃えているスーツ姿の人影に、たけなかさーん、と守口が声をかけた。
「えっ、守口さんと……杉原さん、ですね? 一瞬わかりませんでした。眼鏡、どうされたんですか」
「いえちょっと。それより、竹中さんに見ていただきたいものがあるんです。もうここは閉めるんですよね? そのあと、少しお時間よろしいですか」
向こうのロビーで待ってます、と杉原がエントランスの一画を示すと、小百合は不思議そうに頷いた。ひとけの途絶えたロビーで待っていると、お待たせしました、と小百合が現れる。
「お疲れのところ、突然すみません。実はこれを見ていただきたいのです」
杉原は周囲を確認しながら、手に持っていたプラスチックケースを開く。小百合が目を見張った。
「これは、ワイルドローズ版の……どうして」
「回収の理由を、もう一度お伺いしてもよろしいでしょうか」
「えっ、ですからそれは、パッケージのマイナーチェンジに伴ったもので、上から回収の指示が出たんです」
「竹中さんの判断によるものではない、ということですよね?」
不思議そうな顔で頷く小百合に、杉原が続けた。
「中身に問題はないんですよね」
「はい、ありません」
小百合は瞬きしながら、杉原とその手元のプフランツェを交互に見る。杉原はケースを閉じると呟くように言った。
「私がこれを持っていることに関して、不安もなさそうですね」
「……そういえば、どうして杉原さんがこれを持っているんでしょう。あの、何かあったんでしょうか」
何かって、と守口が困ったように笑う。杉原も困ったように肩をすくめながら、少し大きな声を出した。
「このワイルドローズ、竹中さんとの取引の材料にはならないようですよ、深見さん」
えっ、と驚く小百合の前に、柱の陰から深見が姿を見せた。小百合は一瞬目を見開き、すぐにその表情を消す。深見が口を開いた。
「必要ないというなら、何が目的で動いている?」
「……どういうこと、ですか」
「答えられないのか」
「……私は、」
「こんばんわー」
突如、深見の背後から明るい声が響き、杏梨と乃梨子がにっこり笑って現れた。お前ら、と深見が顔色を変えて二人を見る。驚いている小百合を前に、守口が乃梨子を庇うように言った。
「えっと、すみません。僕の妹です」
「あ、そうなんですか……えっ、あなたは、さくらさん?」
「忘れ物を届けにきました」
そう言って杏梨はにっこり笑うと、持っていた銀縁の眼鏡を杉原に手渡した。
「私の眼鏡を届けてくれたんですよね、どうもありがとう」
さらりと受け取った杉原は、もの言いたげな深見を横目に平然と眼鏡をかけると、竹中に向き直った。
「そんなわけで、彼女たちも同席させてください。竹中さんにお伺いしたいのは、十三年前の話です」
「……なんでしょう」
小百合の声や表情がかすかに強張る。深見は距離を保ちつつも、小百合の正面に立った。
「俺の母親を殺したのは、なんのためだ?」
「……深見さんのお母さんが亡くなったのは、事故ではなかったんですか」
「お前が関わっているのは確かだ」
「当時のことは、よく覚えていません。警察にもお話ししましたが、混乱していたので覚えていないんです。私が何をしたのか、深見さんがどんなふうに事実を認識しているのか、私も知りたいです。教えてください」
「ふざけるな。お前はあの日、俺の母親に指輪を嵌めて、滝に突き落とした」
「その話ですが」
杉原が片手を上げて話に割り込み、小百合に尋ねた。
「深見さんから少しだけ話を聞きましたが、竹中さんは、以前から深見さんのお母さんと知り合いだったんですか?」
「いえ、あの日にあったのが初めてです」
ゆっくりと小百合が答える。杉原は、深見と小百合を交互に見ながら聞いた。
「事件のあった日、深見さんがお母さんを見失ってから、お父さんと車で家に戻るまで、十分ほどしか経ってないと聞いています。そのあいだに、深見さんの家でお茶を飲んで、指輪を返したんですか?」
「そのあと、俺の母親を滝に突き落としている」
「まあ、待ってください。……深見さんが、約束の場所に来なかった竹中さんを探していたのは二時から四時のあいだで、しかたなく家に帰ったのが四時過ぎですよね。そして機嫌の悪いお母さんを含め、三人で車に乗ったのが四時半」
ですよね? と深見に確認を取りながら、杉原が話を整理する。
「車なのでアルバイト先には五分で到着した。バイトに入ったのは四時三十五分ごろ。五時には雨が降ってきて、まだ車があることに気付き、深見さんが様子を見に行ったのが五時三十分ごろ。お母さんは外へ飛び出したあとで、そこにはお父さんしかいなかった」
「父親の話からすると、母親が外へ出たのは、少し前の二十五分ごろだな」
「そして、車なら五分で到着する道を十分かけて帰り、家につくころ雨が止んだ。これが五時四十分。家の鍵は開いていて、洗ったカップがあったのに、母親はいなかった。裏のダムへ行くと、向こう岸の滝の下で、竹中さんがステンドグラスを捨てていた。これが五時五十分ごろ。こんな感じですよね?」
尋ねられた深見は、顔を逸らしながら頷いた。考えながら杉原が続ける。
「深見さんのお母さんが、五時二十五分に車を飛び出して家へ向かったのなら、到着は十五分後の五時四十分、走って短縮できたとしても五時三十五分くらいでしょう。カップを洗うどころか、お茶を飲む時間もありませんよ」
「紅茶は飲まずに、直接、裏の滝へ誘い込んで突き落としたんだろう。家にあったのは洗ったカップだけだ、紅茶を飲んだ痕跡そのものはない」
「だとしても、竹中さんが五時五十分に川の反対側に立つためには、少なくとも五時二十五分にお母さんを突き落とし、向こう岸へ向かわなければなりません。ですがその時間に、深見さんのお母さんは車から飛び出していったんですよね? 時間的な辻褄が合いませんよ」
「五時四十分に俺の母親を突き落としたあと、こいつはどうにかして川を渡った。それで辻褄は合う」
「無茶ですよ。仮にそうだとしても、カップを洗ったのは誰ですか? お母さんは興奮状態だし、鍵を持っていないし、家に入れなかったはずですよね」
黙ったまま、平然としている小百合を前に、杉原と深見が議論する。不思議そうに小百合を見ていた杏梨が質問した。
「小百合さん、どうして深見さんではなく、お母さんに指輪を渡したんですか」
「それは……返さなければいけないと思ったから、返したんです。覚えていません。混乱していましたから」
「指輪を返したことは認めるんだな」
鼻を鳴らす深見を見ながら、小百合は少し考えるような顔をして続けた。
「深見さんのお母さんに指輪を返したのは私です。あなたの家で紅茶をいただいて、カップを洗ったのも私です」
どういうことだ、と深見が小百合を睨む。その前に、と杉原が尋ねた。
「深見さん、川で遺体が見つかったのは、次の日ですよね」
「発見されたのは次の日だが、死んだのはあの日の夕方らしい。警察は、川を見に行った母親が足を滑らせてダムへ落ち、滝下へ流されたと思っている。発見されたのはダムの下流側だ。こいつは、その近くで……ゴミを川に捨てていたんだ」
「そんな、ゴミなんて」
乃梨子がいたたまれない様子で深見を見上げる。あらぬ方向へ顔を逸らす深見を、杏梨も不思議そうに見た。その横で杉原が言う。
「溺死については、警察の見解を支持したいところです。それより……家の鍵もなければ、お湯を沸かす時間もないのに、竹中さんはいつ紅茶を飲んだんですか?」
「……覚えていません」
平然と答える小百合を、深見が睨みつける。杉原は考えながら言った。
「失礼ですが、竹中さんの実の母親が共犯、というのもないんですよね。竹中さんの母親は、いつ……?」
「竹中小百合の母親の死亡時刻は、五時から六時のあいだ、だそうだ」
「ということは、竹中さんは自分の母親を死なせて、興奮状態の深見さんのお母さんに指輪を返し、深見家で紅茶を飲んだあとカップを洗い、また自宅へ戻ってガラスを捨てた……これをすべて、五時から六時のあいだに行ったということになりますね」
覚えていません、と小百合が静かに答える。杏梨が口を挟んだ。
「やっぱり、警察の考えたとおり、車を降りた深見さんのお母さんが、深見さんちの裏へ直行して、一人でダムに落ちたって考えるほうが、まだ自然じゃないですか?」
「私もそう思います。五時三十分ごろ、お互いの家の中間地点、つまり橋のあたりで深見さんのお母さんと会っていたのなら、そこで指輪を返し、それぞれの家へ戻れば、お互い五時四十五分には川へ辿りつけます。……紅茶のカップは謎のままですが」
黙っていた小百合が、ぽつりと呟いた。
「カップの説明がつかないんですね」
「川を渡ったことは、否定しないのか」
「覚えていないので、わかりません。ですから、つじつまが合うのなら、そうだと認めます」
静かに言い切る小百合に、杉原が尋ねる。
「ですが、川は、渡れないはずではありませんか? 川というよりも、ダムですよね。流れもあって危険だし、無理ですよね?」
「……ガリラヤ湖のキリストみたいに、水の上を歩いたのかもしれません」
「ふざけるな。人を殺しておいて、なぞなぞ遊びじゃないんだ」
小百合を睨む深見を、心配そうに乃梨子が見た。二人を見つめていた杏梨が、ひょい、とあいだに入る。
「小百合さん」
「……はい」
「小百合さんは、薬物中毒で錯乱したお母さんを死なせてしまった。深見さんの家で紅茶を飲んで、深見さんのお母さんに指輪を返して、ひょっとしたら水死させてしまったかもしれない。でも混乱していたから、覚えていないんですよね」
「はい」
「実のお母さんが亡くなったのは五時以降。これは認めますか」
「……はい。警察がそう言っていましたから」
「それなら、これは答えられますよね。事件の当日、どうして約束の場所に来なかったんですか?」
かすかに小百合の表情がこわばる。その目をじっと見つめながら杏梨が続けた。
「約束は二時でしたよね。まだ混乱するような時間じゃないですよ」
こわばったまま黙っている小百合を見つめながら、では、と杏梨が質問を変える。
「深見さんのお母さんの話を、小百合さんは深見さんから聞いていましたか」
「……ほとんど、聞いていません」
「今までの話で、『深見さんのお母さんが雨の中を飛び出した』ことについて、小百合さんは特に驚いていませんでしたよね。深見さんのお母さんが癇癪を起こしやすいことを、小百合さんはいつから知っていたんですか?」
小百合が再び口を閉ざした。杏梨は頷きながら言う。
「答えられる質問と、答えられない質問があるんですね」
納得している杏梨を訝しげに見ながら、深見も尋ねた。
「もう一つ。お前はあの事件の一年後に、俺の父親から百万近くの金を受け取っている。次の年もだ」
「……あなたのお父さんは、何か言っていましたか」
「何も言わなかったから聞いているんだ」
厳しい口調で問う深見の脇で、杉原が優しく言った。
「深見さんは当時、竹中さんの話を父親にはしていたようですし、お父さんも竹中さんには同情的な部分があったと思います。でも、お金のことを息子に話していないというのは不自然です。額が大きいので、慰謝料や口止め料など、悪意ある推測も可能ですが、そういう類のものですか?」
黙ったまま、小百合は首を横に振った。じゃあ、と杏梨が考えながら言う。
「たとえば、小百合さんが実の娘とか?」
「いいえ。私と深見さんに、血の繋がりはまったくありません。初めから、兄妹でもなんでもないんです」
小百合は俯いて小さく笑うと、顔を上げて続けた。
「私からも質問させてください、深見蛍さん。あなたは今まで、誰かを殺そうと思ったことはありますか」
ん? と杏梨が声を出す。深見は目を閉じたあと、暗い目で小百合を見ながら答えた。
「…………まだない」
「本当なんですね」
そう言って目を細める小百合を、杏梨は不思議そうな顔で見ていた。深見が射るような目で問う。
「お前はあの場所から出たかった。俺は出してやれなかった。……あんな形で出ていくことを、お前は望んでいたのか?」
「何も、望まなかっただけです」
「だったら、なんのために」
「あなたのためにしたことだと、思うんですか」
平然とした小百合の声に、迷いの色を帯びていた深見の目が険しくなる。
「……ならばこっちも気が楽だ。安心してお前の悪事を暴くことができる」
「十三年前の証拠が、出てきたんですか」
「そっちじゃない。今、お前が証拠を消して回っているほうだ」
証拠? と首を傾げる小百合に構わず、深見は事務的な口調で言った。
「河出康行の失踪も、お前が関わっているんじゃないのか? 河出は、プフランツェに関連する不穏な動きを掴んでいた。不正に薬が流れた記録もある」
「私が、ですか?」
「なぜ河出たちと行動を共にしていた?」
「それは、会社の都合です。当時は私の意志で同行していたわけではありません。河出さんも逢坂さんも、畑違いの私に勉強させてくれようとしていただけです」
「それは本当だと思いますよ」
宥め(なだ)るように杉原が口を挟んだ。小百合も慌てて説明する。
「今も隈池病院へときどき行っていますが、プフランツェの担当として行っているだけです」
「それで問題のワイルドローズを慌てて回収しているわけだ」
杉原の手にあるプラスチックケースを見ながら深見が言う。小百合は困ったような声を出した。
「上司の指示です」
「そんなことで言い逃れができると思っているのか。証拠は俺が保管している。すべて、服用後に特別な症状が現れたモニターのものだ」
「えっ、どういうことなんですか」
「……小百合さん、まさか本当に知らないんじゃ」
杏梨が複雑な表情で呟く。杉原も不安そうな表情で尋ねた。
「竹中さん、回収したプフランツェは、どうされているんですか」
「そのまま、すべて逢坂さんに渡しています」
「では、特別な効果があったモニターに限って、プフランツェが不自然に紛失していたことにも、気付いていないんですか?」
どういうことですか、と小百合が目を見開く。深見はしばらく黙ったあと、杉原の手にあるプラスチックケースを奪うように取り上げて言った。
「今まで、ワイルドローズが紛失していたのは、俺が先回りして回収していたせいだ」
「なんのために、ですか?」
「……まともに話す気はないようだな」
そういうことならこれは渡せない、と深見は背を向けた。
ウシタ製薬ビルの三階、企画第五課に残っていた南雲は、突然現れた逢坂を前に狼狽していた。
「逢坂さん……今日は直帰のはずでは……?」
「そうもいかなくてね。それより君は、こんなに遅くまで、一人で何を?」
逢坂は興味深げにフロアを見回し、書類に目をやる。南雲の手元にあるのは、深見から受け取った書類の写しだった。
「それは?」
「これは、……河出の」
「河出の仲間は、無関係だったんだろう?」
「つまり、結局……竹中が怪しいとしか考えられなくて、その、確認を」
逆心を気取られぬよう、慎重に南雲が答える。逢坂は緩めていたピンク色のネクタイを締め直し、南雲を見た。
「この書類はどこから? どうして君がこれを持っている?」
「これは、竹中を調べていたら……」
「なるほど、それは興味深いな。それで、竹中のデスクだけでなく、私のデータまで?」
立ち上がった端末に目をやりながら、逢坂が優しい口調で尋ねる。引き出そうとしていたのは、不正の裏付けになる記録と、逢坂と竹中の情報だった。
乾いた唇を舐めながら、南雲が答える。
「……実は、竹中が河出を殺したのではないかと考えています。これは、それが発覚したとき、逢坂さんに迷惑がかからないかを確認しようと」
「河出を? 竹中くんが?」
「はい、河出はやっぱり死んでいて……」
神妙な表情をつくる南雲に、逢坂がのんびりと言った。
「違うよ、南雲くん。竹中くんはそんなことしていない」
「でも、前に言っていた話では……どうして」
「私は、竹中くんが河出を殺していないことを知っているんだよ」
「それは、どういう……?」
立ちつくす南雲の首筋に汗が伝う。端末を操作し、開いてあるファイルを閉じながら逢坂が言った。
「そんなことより、いろいろとご苦労だったね。やはり君は勘がいいし、有能だ。先月立ち上げたユズハラくんたちのチームに入ってもらおうと思っていたが」
逢坂は言葉を切ると、南雲の手にある資料や書類を回収して自分の鞄に入れた。
「急な話だが、もうひとつ良い話があるんだ。今から少し、付き合ってもらえるかな?」




