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17 ねじれる八月

 少女を見たのは、町の外れにある教会の近くだった。

 またあの子だ、と高校生になった深見が遠目に少女を観察する。小学校の高学年くらいか。気になったのは、少女のほっそりとした体つきと、俯きがちな姿だった。

 田舎町にはそぐわない、十字架のある尖塔せんとう。小さいながらも教会然とした建物。それを少し離れたところから、飾り気のない服を着た少女が眺めている。

 ランドセルを背負った少女は、いつも教会を外から見ていた。俯きがちな顔を上げ、祈るように教会を見つめていた。

 初めて口をきいたのは夏休みだった。買い食いしようと入った隣町のスーパーマーケットで、見覚えのある少女が切り花の並ぶコーナーに佇み、白い花をじっと見ている。

 ユリの花か、と少し離れて少女を眺めた。その日は白い服を着ていて、覗き込んでいる白い百合と、おそろいのように見える。少女は少しだけ花に顔を近付け、香りを楽しむようにうっすらと微笑んだ。

 空腹を忘れて眺めていると、少女はふと表情を消し、その場を離れた。深見が思わずあとを追う。俯きながら店内を歩く少女の横顔は暗かった。

 レジの近く、煙草の入ったクリアケースの横で立ち止まる。少女は一度ケースに目をやると、嫌そうに顔を逸らした。しばらく周囲を窺い、人の流れが途切れた瞬間、店員のいないレジの裏から煙草のケースに手を伸ばす。

 脇にいた女性店員が気付き、驚いて少女に声をかけた。

「ちょっと、どうしたの」

 あ、と少女が怯えたように動きを止め、何も言えずに立ちつくす。深見はとっさに前へ出て、店員に声をかけた。

「すいません、妹なんです」

 店員に頭を下げながら、深見が少女の手を掴む。そのまま少し大袈裟に笑って言った。

「ユリ、そろそろ行くぞ。……ああ、父さんの煙草はいいよ。似てるのが多いし、間違って買っても怒られるから、あとはパンだけ買って帰ろう」

 驚いて固まりかけた少女を連れ出し、兄妹のふりをしたまま、大量に菓子パンを買いこんでレジを通った。白い大袋を右手に持ち、左手で少女と手を繋いだまま店を出る。

 しばらく歩いて、花壇のある公園に入ると、少女はやっと声を出した。

「あの、……どうして私の名前を知ってるんですか」

「まさか、本当にユリっていうのか」

 深見が驚きながらベンチに座る。覗き込んでいた百合の花とお揃いに見えて、とっさに言っただけだった。白い服の少女が慌てて答える。

「あっ、ええと、小百合さゆりです」

「そうか、……まあいいや。とにかく俺は腹が減った。なんか食べよう」

 深見は小百合にも座るように促し、白い袋を探った。高校生の深見が大人に見えているのか、小百合はおずおずと尋ねる。

「あの、おつかい……ですよね?」

「いや、腹が減ったから、パンでも買おうと思っただけだよ」

「……こんなに、いろいろ食べるんですか?」

「ああ、なんていうか、おつかいに来た兄妹っぽく、適当に買ったらこうなった」

「え、あ……ごめんなさい」

 助けられたことを理解した小百合が、下を向いた。俯いたような白い花と、それを覗き込んでいた小百合の表情を思い出す。たぶん、こっちがこの子の本当の表情だ。なんとなくそう思った。

「そんなわけで、もう少し兄妹のフリしてるほうがいいだろう。飲み物もあるから、パンを減らすのを手伝え、ユリ」

 黙ってしまった小百合に、菓子パンとジュースを手渡す。ふと思い出し、ついでに聞いてみた。

「ユリは教会に行きたいのか?」

「……どうして、知ってるんですか」

「教会を睨んでるのを、ときどき見てたんだよ」

 睨んでないです、と小百合が焦る。妹のような存在を面白がりながら、深見が続けた。

「冗談だよ。教会に入りたそうな子がいるなって覚えてたんだ。違うか?」

「あ、はい。……でも、お金がいるんですよね」

「あー、礼拝のとき、お金渡してたな」

 とりあえず食べよう、と深見がクリームパンを食べる。小百合も両手で持ったメロンパンを少しずつかじりながら聞いた。

「教会に入ったこと、あるんですか」

「あそこの教会じゃないけど、俺が小学生だったころに、おやつが食べられるって聞いて、子供用の礼拝に行ったことがあるんだ。途中で回ってきた袋に、みんながお金を入れてるのを見て焦ったことがある」

 二十円しか入れなかったな、と呟く深見に、ほっとしたように小百合が笑った。

「行ってみるか? ちょっと見学させてくれって言えば平気だよ。献金だかお布施だかお賽銭だか知らないけど、兄妹のフリして一緒に払えばいい」

 食べ終わったパンの袋を丸めながら言うと、小百合は一瞬うれしそうな顔をして、また俯いた。

「でも、そんな……それに、兄妹のフリなんて、神様にうそをつくことにならないですか」

「教会の人たちって、本当の兄妹じゃなくても男の人を兄、女の人を姉って表すらしいんだ。『神を信じる者はすべて家族』って考えじゃなかったかな。修道女をシスターっていうだろ?」

「……聞いたこと、あるような気がします」

「だから嘘にはならない。お前は妹のユリで、俺は兄貴だ。つまりユリは、教会に行ってもいいんだ」

 だから俯くな、と深見が笑うと、小百合は顔を上げて微笑んだ。

「いちど、中から見てみたかったんです」


 二人で蝉の声を聞きながら、町の外れにある教会へと歩いた。見学させてください、と小百合を連れて頼んでみると、教会にいた女性はにこやかに二人を招き入れた。礼拝堂の中を見せてもらいながら、緊張している小百合に笑いかける。

「な、大丈夫だったろ」

 小さく頷いた小百合は顔を上げ、きれい、とため息をついた。視線の先には、聖者を描いた簡素な図柄のステンドグラスが、夏の光で神々しく光っている。

「なるほど。たしかに、これは中から見ないと意味がないな」

「でも、簡単に来られるところじゃなかったから」

「ここは神に祈る場所だからな、こうやって」

 そう言って指を組んでみせると、小百合もそれを見ながら細い指を組んだ。深見が小声で囁く。

「せっかくタダで見せてもらえたんだ。一応、神に祈るフリだけでもしておこう」

 特に思うところのない深見が、ただ目を閉じる。しばらく神に祈る真似をしていると、小百合の小さな、でも真剣な声が聞こえた。

「お願いします、神様。私をここから出してください」


 それからも、深見は小百合を見かけるたびに話しかけた。一人っ子の自分に偶然できた、秘密の妹。それが面白くもあったが、気になることもあった。少し細すぎる体。手を伸ばし、盗もうとしていた煙草。教会で聞いた小さな声。

 小百合は、あのときの話をしなかった。家庭環境に問題はありそうだが、小百合そのものに問題があるとは思えない。深見が声をかけるたびに、小百合はうれしそうに目を細めていた。


 次の春になると、中学校へ通うようになった小百合と、毎日顔を合わせるようになった。あいかわらず痩せてはいるが、制服を着た小百合はどこか少しだけ大人びて、なぜか感動したのを覚えている。

 それからも深見は帰り道の妹を誘い、教会の見える場所まで歩いた。外側からだとイマイチだな、とステンドグラスを眺めるたびに深見が言うと、そのたびに小百合が笑った。

 勉強を教えるという名目で、休日に会う約束をするようになった夏の日、小百合が思いついたように言った。

「私のうちの近くに、お気に入りの場所があるんです。川が小さなダムみたいになって、滝みたいなところがあって」

「近くって、高織川たかおりがわ砂防さぼう堰堤えんていのことか? 俺の家の裏から五分もかからないぞ」

「えっ、私の家からも五分くらいで……うちが一番近いはずですけど……まさか、深見さんって、ご近所さんだったんですか?」

「かもしれないな、とにかく行ってみよう」

 小百合の案内で川沿いの道路を歩き、背の高い草に囲まれた道へ入った。さらに奥へ進んだところに、小さな川原と水の壁が現れた。

 川原の右手にあったのは、高さ十メートルほどの人工的な滝だった。落ちた水が目の前で飛沫しぶきをあげている。水の音に負けないよう、小百合はこころもち大きな声を出した。

「ここなんですけど」

 小百合の『お気に入りの場所』は、この地域を二分するように流れている高織川上流の砂防さぼう堰堤えんていだった。山からの土石流を防ぐためのもので、コンクリート壁でせき止められた川の水が、滝となって落ちてくる。

 なるほど、と納得しながら、深見は手頃な岩の上に荷物を置いて座った。

「どっちの話も間違ってないわけだ。俺の家があるのは反対側っていうか、川の向こう岸だよ。この滝より上のほうだけど」

 そう言って深見が『滝』の向こうに見える高台を指差した。よかった、と小百合も安心したように近くの石に座る。

「何がよかったんだ」

「自分の家とか、知られるのが恥ずかしいから」

「でも、川を渡ればユリのところにすぐ行けるわけだ」

 困らせるように深見が笑う。直接渡ることができれば、遠回りして橋を渡らなくても小百合に会える。だが実際には、川幅と深さ、そして滝の存在がそれを不可能にしていた。

 渡れない川に安心しながら、小百合も笑った。

「ふふ、キリストみたいに水の上を歩けるなら」

「さすがにここは無理だな。うっかり落ちたら死ねる」

 青緑色の水面を眺めて肩をすくめる。川の向こうというだけで、お互いの家はそう遠くない。川を渡る橋が遠いだけだ。この場所も、深見の家から十分歩いて橋を渡り、再び川沿いを十五分歩かないと、たどり着けない。小百合が笑いながら念を押す。

「ですから、絶対だめですよ」

 しかたないか、と深見は岩の上で寛ぐように伸びをした。この場所は気に入った。水の音と鳥の声。拡散されて漂う水の粒子。苔むした岩にはカワセミが止まっていて、風にそよぐ木陰もあって、そこに夏服の小百合がちょこんと座っている。

 そうだ、と深見は持ってきた荷物の梱包を慎重に解きはじめた。

「ここから家が近いなら、少しくらい大きくても持って帰れるか?」

 緩衝材に包まれていたのは、B4サイズの色ガラスでつくられた花の絵だった。日の光にかざしてみせると、その下の小百合にガラスの色が映る。

「……きれい」

「授業で作ったんだよ。ステンドグラス製作ってやつで、ちゃんとデザインから俺が考えたんだ」

 少し得意気に深見が言うと、小百合がため息をついてステンドグラスをじっと見る。紺に近い青や緑、いくつもの色ガラスで組み上げられた枠の中心に、白い百合が映えていた。取扱いには気をつけろよ、と小百合に手渡す。

「私がもらっていいんですか」

「絵柄を見ろ。お前以外に誰にやればいいんだ。ずっと俺の部屋に置いておくものでもないだろ」

 そう言って深見はどうでもよさそうに顔を逸らす。小百合はステンドグラスを大事そうに抱えながら、目を細めてにっこりと笑った。

「ありがとうございます。すごくうれしいです」


 次の年も、深見は図書館で小百合に勉強を教えたり、暑くなるころには、二人で『お気に入り』の川原へ行ったりした。八月の半ばにさしかかるころ、中学二年生になった小百合が心配そうに尋ねる。

「深見さん、三年生なのに、あの、勉強とかは大丈夫でしょうか」

「勉強って、俺の受験勉強の心配してるのか?」

 誰に向かって言ってるんだ、と鼻で笑ってみせる。だって、と木陰の岩に腰掛けた小百合が口ごもる。そのすぐ隣に深見も座った。

「心配か」

 顔を覗きこまれた小百合が、恥ずかしそうに下を向く。深見は突然ごろりと寝転がり、小百合の膝に頭を乗せた。固まったように下を向いたまま、赤くなっている小百合と目が合う。深見は真面目な顔をした。

「ユリはどうするんだ、これから」

「どうって…………私のことより、深見さんは首都圏の大学へ行くんですよね」

「いや、遠くへは行かないつもりなんだ。会えなくなるだろう」

 ポケットを探りながら、当たり前のように深見が言った。反応に困っている小百合を見て、のんびりと付け足す。

「お前に勉強を教える奴がいなくなる」

「……それはそうかもしれないですけど」

「来年はユリががんばらなきゃいけないんだ。三年になったら大変だぞ」

「でも、そこまでしてもらっても、私は」

 小百合が困ったように言葉を切る。安らぐような匂いと、どこからか伝わってくる鼓動を感じながら、深見は真剣に小百合を見た。

「迷惑か?」

 そうじゃなくて、と小百合は泣きそうな声を出す。深見は頭の重さを預けたまま手を伸ばし、俯く小百合の右腕を押さえた。その指に、きゃしゃな銀色の輪をそっと通すと、小百合が目を丸くした。

「これ、どうしたんですか」

「いや、兄としては、妹に似合いそうだからプレゼントしようと思ったんだけど……あんまり深く考えるな」

「ええとこれ、どうしたら」

「ただの銀細工だし、本当に、深く考えなくていい。これから忙しくなるし、俺が少し安心したかっただけだから」

「安心?」

「話したがらないから無理に聞くつもりはないけど、いろいろありそうだからさ。俺は、ユリの家とか家族のことを知らない」

「……ごめんなさい」

「謝らなくていい。ただ、俺が嫌じゃないなら、あんまり手の届かないところへ行ってほしくないんだ」

 そう言ってもう一度、小百合の両腕を引き寄せた。ほっそりとした手が微かに震えているのに気付き、手を離す。小百合はまだ中学二年だ。深見はのんびりと付け足すように言った。

「これで俺も安心して受験勉強に励める」

「でも、こんなものをいただいたら」

「あー、盗んできたわけでもないし、あんまり言いたくないけど、五千円もしないんだから深く考えるな。それに親公認だぞ、一応」

「えええ?」

「いや、親父の友達でこういうの作る職人がいてさ、親父に付き合ってその工房に行ったとき、見せてもらったんだよ。そのうち一つがなかなか綺麗で、ユリに似合いそうだと思っただけなんだ」

 説明がつい早口になる。動揺して目を白黒させている小百合の指に光っているのは、透かし彫りの花がデザインされている、銀の指輪だった。

「それで俺がちょっと値段やサイズのことを聞いたら、親父とその職人から、ニヤニヤしながら追及されたんだ。でもまあ、親父やその人に相談できたおかげで、サイズも問題なさそうだな」 

 工房で銀の指輪を見たときに、小百合のことを思った。手にとってしばらく見ていたら、君より年下で静かなタイプの女の子ですね、と父親の友人に言い当てられたのを思い出す。

「ユリ、お前はもう少し太ってもいいな。指輪のサイズを話したとき、職人のおじさんが心配してたぞ。『サイズ以前に心配だから連れておいで』って言われたくらいだ」

「あの、どこまで私のことが知られてるんですか」

 泣きそうな顔をする小百合を、安心させるように深見が笑った。

「母親にはさすがに言ってない。いろいろとうるさいからな」

「……そうなんですか」

「どこの家にも困ったタイプはいるんだよ。ユリだって、それで悩んでるんだろう?」

 細い手を握ったまま、膝の上から問いかける。小百合は目を泳がせながら言った。

「あ……はい、ちょっと」

「あのときの煙草も、そうなのか?」

「えっ」

「欲しくてろうとしたんじゃないだろう、あれは」

 深見がなるべく優しい声を出す。それでも、小百合の顔からすっと血の気が引くのがわかった。しばらく黙ったあと、小百合は掠れるような声で尋ねた。

「あのとき、どうして助けてくれたんですか」

「俺にもわからない。花を見ていたユリが、笑ったからかな」

 小百合の腕に抱かれたまま、のんびりと言った。首を傾げる小百合に深見が続ける。

「煙草をろうとしていたお前は、嫌そうだった。……違うか?」

 その問いに、小百合の体がこわばるのがわかった。小百合は遠くを見ながら、今もいろいろあるから、とだけ答えた。そうか、と深見が頷く。

「ユリ、それでもお前は大丈夫なんだよな? どうにもならないと思ったら、ちゃんと俺に言えよ? なんとかする……どうにかすることはできるんだ」

「……どうにか、って」

「どうにでも、やりようはあるんだよ。親に問題があるなら、親から子供を離して、施設で過ごさせることもできるって、親父も言ってた」

「施設……」

 ぼんやりと小百合が呟く。その目がひどく空ろに見えて、深見は小百合の手を強く握った。

「いざとなったらの話だよ。とりあえず、そういうのは今のところ、ないな?」

「…………はい」

「ならいい、そんなわけだ。俺が心配になるから、明日もここへ来るんだぞ」

 ふう、と深見が大きく息を吐く。明日も、と小百合が心配そうに言った。

「でも、勉強で忙しくなるんじゃ」

「俺だって息抜きしたいんだよ。うちはうちで息が詰まるんだ」


 次の日、小百合は川原に来なかった。どこを探しても小百合はいない。

 その日はどことなくやりづらくて、何かとうまくいかない日で、蝉の声に急かされるような焦燥感が、深見のなかでくすぶっていた。

 午前中、急用ができた母親から留守番を頼まれ、小百合と約束していた時間に遅れた。いつもなら一時半に家を出て、二時には小百合のいる川原に着いているのに、この日に家を出ることができたのは、二時十分前だった。

 小百合の家に電話はなく、連絡を取ることもできないまま、川の向こうへ急いだ。八月の真昼、少し遅れて到着した川原に、小百合の姿はない。

 引き返しながら小百合を探す。知らないふりをしているだけで、深見は小百合の住所や家の事情をある程度知っていた。川原から五分の場所にある、古い集合住宅で暮らす母子家庭。母親に問題あり。その対策についても、指輪を買った日の帰り、父親に相談していた。

 『竹中』の名前が出ている一階の角部屋。ドアストッパーでわずかにいた玄関には、母親のものと思われる派手なヒールしか見えなかった。裏手側から様子を窺っても、小百合の気配はない。

 結局、小百合を見つけることができないまま、しかたなく家へ戻る。もうすぐ四時になる。五時からはアルバイトがあるし、母親に顔を見せるためにも、一度家に戻らなければならない。神経質な母親をなるべく刺激しないように、深見は努めていた。

 家に戻ると、母親はダイニングで寛いでいた。珍しく、金の装飾が入ったティーカップで紅茶を飲んでいる。機嫌は悪くなさそうだが、ふとしたことで小さなヒステリーを起こすことを深見はよく知っていた。

 シャツを着替えながらも、母親の様子を観察する。カップを持つ左手が震えている。テーブルの隅には、なぜか一万円札が二枚置かれていた。視線に気付いた母親が、その二万円を投げるように押し付けた。

けい、お小遣いはお母さんがあげてるわよね? いいかげん、アルバイトなんてやめなさい。勉強する時間がなくなるでしょう」

「そんなことはないって。毎日、朝のうちに勉強はできてるし、成績も偏差値も十分だって、父さんも言ってただろ」

「なんなの二人とも!? またそうやって、私のいないところで話をしているの」

 母親の声が強く病的なものになる。しまった、と心で舌打ちしながら、家を出る準備をした。四時二十五分。橋の向こうのアルバイト先には、歩きで十五分かかる。いつもの時間に入るには、もう家を出ないといけない。

「とにかく、もう時間がないから行くよ」

「待ちなさい! それならお父さんに車を出してもらえばいいでしょう!」

 苛立った声に呼ばれて、父親が二階から降りてくる。またか、と疲れたような目で息子を見た。

「ごめん父さん、大丈夫か?」

「ああ、……とりあえず車に乗れ。話はあとだ」

 じゃあ、と車のキーを持った父親と二人で外へ出ようとすると、母親がかん高い声をあげた。

「話って何? また二人で、こそこそ隠れてなんの話なの? 聞かれて困らない話なら、ちゃんと私の前でしなさいよ!」

 自分の声で精神を昂らせた母親が立ち上がり、つかつかと玄関へ向かう。こうなると手がつけられなかった。三人で車に乗ると、エンジンをかけた父親が、思い出したように再びドアを開けた。

「待っててくれ。免許証を取ってくる」

 なんなのもう、と母親が車内の熱さに苛立ちを募らせる。戻ってきた父親が車を出したのは四時半だった。

 川沿いを走り、橋を渡って国道に出る。アルバイト先の観賞魚店の反対側の車線に車を停めると、母親もシートベルトを外した。おい、と止めようとする父親に、金切り声でたたみかける。

「一緒に行くのよ。やめるって言ってあげるから」

「母さん、美穂子、待ちなさい。……けい、お前は行っていいぞ」

「ごめん、父さん。行ってくる」

 どうにもならないまま深見が車を降りる。四時三十五分。結果的に、いつもより早くアルバイトに入ることになった。

 ひどく暑くて、蝉の声がうるさい。天気はいいのに、今日はずっと晴れだと天気予報も言っているのに、母親の機嫌は悪くなる一方だった。不快指数が高いのか、とぼんやり考える。妙な不快感が、自分にも伝染しているような気がした。

 五時を過ぎるころ、空模様が突然崩れて強い雨が降り出した。店長が驚いて外を見る。

「予報では降らないはずだったのに、雨すごいな」

「まずいですね。外のもの、しまいますか」

 そう言って深見は、ミドリガメのプールや、積んである水槽を次々と店内へ運んだ。作業を終えてふと道路の反対側を見ると、両親の乗っている車がまだ停まっている。まさかまだ揉めているのか、と目を凝らすが、雨が強くて中まで見えない。

 腕時計を見ると五時半になろうとしていた。

「すみません、ちょっと、ウチの親の様子が」

「親御さん?」

 驚く店長に、当たり障りのない程度に説明する。道路の反対側で、雨に霞む車を指差した。

「あの車なんですけど、見てきてもいいですか」

「あー、いいよいいよ。雨がこんなんだし、もし何かあったんなら、そのままあがっていいよ」

 すみません、と深見が傘を借りて店を出る。道路の反対側へ渡ると、横断歩道の向こうに、ずぶ濡れの父親が立っていた。

「母さんが、飛び出して行った」

「今? この雨の中?」

 嘘だろ、と深見が顔をしかめる。父親が絞り出すような声を出した。

「そっちに行かなかったか」

「いや、来てないけど、どうしてそんな」

「いつものことだ。癇癪かんしゃく起こしかけたから、落ち着かせようとしたんだが」

 父親がため息をついた。傘を差しかける意味がないほどに濡れている。今ごろ、母親も同じくらいに濡れているはずだ。

「どこへ行ったんだろう。財布も何も持ってきてないのに。一人で家に戻った?」

「わからん。追いかけようとしたんだが、見失った」

 とにかく探そう、と深見がずぶ濡れの父を車へ促す。家に戻っていたとしても、鍵がかかっている。母親が、雨に濡れて頭を冷やしてくれるタイプならいいが、かえって頭に血が上り、家の窓を叩き割ったりしかねない。

「なんなんだよ、今日は」

 思わず深見が呟く。面倒ばかりが増えて、何もかもうまくいかない日だ。小百合はいないし、母親はヒスを起こすし、雨は降るし、その中を飛び出した?

 車を方向転換させて家へ引き返す。急速に黒雲が過ぎ、橋を渡るとふっと雨が止んだ。車の窓を開けると、水と混じった土や、草の匂いがした。怒りだしたように蝉が鳴きはじめる。

 五分で戻れる道を十分かけて探したが、母親は見つからなかった。家に着き、深見が車から降りると、父親も車を降り、ドアをロックしながら言った。

「どこかで雨宿りしてるのかもしれない」

「……父さん、玄関の鍵が開いてる。まさか帰ってる?」

 扉に手をかけながら深見が言った。父親が驚いてポケットを探る。

「そんなことは……鍵はかけたし、ここにある」

 父親も気味悪そうな顔をして家へ入る。玄関に母親の靴はない。何か用事があって、また出かけたのかもしれない。

「母さん?」

 ダイニングテーブルとキッチンを眺める。普段はあまり使わないティーカップで紅茶を飲んでいたのは覚えている。それは飲みかけのままテーブルの上にあった。

 次の瞬間、意味がわからず目を疑った。シンクのそばにある食器かごに、もう一客、同じティーカップが洗った状態で置いてある。

 誰が、いつ、ここに置いた?

「父さん、俺が帰ってくるまでに、紅茶を飲んだ?」

 いや、と、父親は部屋の戸締まりを確認しながら答える。ならば、昼に来客があって、シンクの中にこのティーカップがあったのかもしれない。ただ、水切りかごにカップはなかった。こんな、まだわずかに水滴が残る状態で。

「やっぱり、母さんは一度帰ってきたのか?」

 母親が来客の食器を洗い、また出かけたのなら、戻る途中で会っているはずだ。反対方向へ行ったとしても、この奥にあるのは、高織川の砂防さぼう堰堤えんていしかない。

 裏を見てくる、と言い残して外へ出た。裏手の山道から砂防さぼう堰堤えんていを見下ろす。豪雨が一時的なものだったせいか、川の水はまだ増えていない。滝の下へと落ちていく水も濁っていなかった。

 水の行方を目で追う先に、ほっそりとした人影を見つけた。

 小百合がいた。川の向こう側、落ちていく水の下。約束の場所に、何かを大事そうに持った小百合が、暮れかけた水辺で俯いている。

 わずかに安堵しながらも、なぜかその姿が、ひどく遠いものに思えた。小百合はその手にあったものを、少しずつ水に捨てはじめる。青く透き通るガラスのかけら。白、緑。

「あれは、俺の」

 ステンドグラスだ。そう気付いて目を凝らす。細い指から、紺に近い青のガラスが水に落ちてゆく。ごうごうと増え始めた水の音と、蝉の声がやけにうるさい。小百合はガラスを沈めた水面を見つめたあと、すぐにきびすを返した。

 急いで深見も戻り、父に告げて小百合の家へ走る。橋を渡り、小百合の家に近付くと、点滅する赤い光が目に入った。赤色灯のついた車たちは深見を追いぬき、小百合のいる集合住宅へ向かっていく。

 おかしい、と走りながら深見が呟く。この世界は何かおかしい。

「なんだよこれ」

 警官たちに阻まれて、小百合のところに近付けない。蝉の声と赤い光に包まれた光景がシュールで、わけのわからない夢を見ているようだった。

 それから、小百合と会うことはなかった。




「竹中小百合は、川にガラスを捨てたあと、『母を殺してしまった』と公衆電話から自分で警察に電話した。『私を施設に入れてください』と。十三年前の話だ」

 そう言って深見が暗い目をした。ワイパーの音が響くなか、杏梨が静かに尋ねる。

「深見さんのお母さんは」

「次の日、例の川原で見つかった。溺死だ。見つかった遺体の指には、俺があいつに渡した指輪があった」

 えっ、と乃梨子と杏梨が目を見開く。杉原も眉を寄せた。どういうこと、と守口が呟く。

「言った通りだ。竹中小百合は、薬物中毒で錯乱した自分の母親を殺した。そして俺の母親の死にも関わっている。殺しているか、そうでなくとも、その死体に指輪を返した」

「そんなこと……深見さんは味方だったのに」

 考え込む杏梨に、どうでもよさそうに深見が言った。

「最初から、俺の助けは必要としていなかった。ただ自分を『ここ』から出せと神に祈った。その結果がこれだ」

 水に捨てられたガラスの絵。母親の死体に無理やりめられていた、細い銀の輪。どちらも小百合に贈ったものだ。

 どうにもならないなら俺に言え。手の届かないところへ行くな。その約束のつもりで送った指輪は、深見の母親の指に返され、何も言わず、邪悪ともいえる形で小百合は遠くへ行った。自分との未来よりも、あの環境を出ることを選んだ。

「どうすることが正解だったのか、どうしたらあの結果を回避できたのか、今もわからない。だから乃梨子が、あいつと同じことを言ったとき」

 言葉を切った深見の脳裏に、小百合の声と乃梨子の声が重なる。お願いです。私をここから出してください。

「無理やりにでも出してやれば、前より少しはマシな結果になると思った」

 そう言って振り向くと、深見はかすかに笑って乃梨子と杏梨を見た。再び暗い目に戻る。

「ただ、俺が何をしようとも、あそこから出ることだけを望んでいて、そのための手段を選ばなかったというのなら、竹中小百合は初めから救いようのない人間だった、ということだ」

 救えなかったことより、助けを求められなかったことに納得がいかなかった。繋ごうとした手を振り切って、お前はいらない、役立たずだと言われたようなものだ。初めから、小百合が助けを求めていた相手は神だった。

「そして現在もサプリメントを隠れ蓑にしたドラッグの密造に関わり、河出が消えたことにも関与している」

「それは……小百合さんが関わっているってはっきりしてるのは、その、十三年前の話だけですよね」

 責めるような杏梨の声に、深見は証拠を突きつけるように言った。

「それだけじゃない。さらにそのあと、俺の父親から、多額の金を受け取っている」


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