16 再会
「竹中さん、ちょっといい」
水曜、昼食を終えて席に戻ってきた同僚の竹中に、南雲は申し訳なさそうに声をかけた。逢坂の指示により、プフランツェの回収やアンケートの管理は、先週から南雲も分担している。
なんでしょう、と振り向いた竹中に、南雲は声をひそめて言った。
「……その、河出さんのことなんだけど、その友人で、高橋さんって男性を知らないかな? 三十歳くらいで、体格がいい人らしいんだけど」
言いながら竹中の反応を見る。南雲が河出の母親から聞き出したのは、釣りを通じて河出と知り合ったという、高橋という男の存在だった。社外の人間なのに河出の仕事に詳しく、三日前にも母親から詳しく話を聞いていったという。
「高橋さん、ですか? あまりお友達の話は聞いていないですけど、……同業のかたですか?」
「いや、プライベートな友人らしいんだ」
「……すみません、ちょっとわからないです」
困ったように首を傾げる竹中に、そうか、と南雲はさらに声をひそめて言った。
「実は社内から、河出さんのファイルが見つかってね。個人的なメモかもしれないんだ。河出さんのお母さんに聞いてみたら、高橋さんっていう友人がいるって教えてくれてね。その人に確認してもらえるよう、お願いしたんだよ」
「そう……なんですか」
「ただ、ファイルは社外に出しにくいものだから、その高橋さんに出向いてもらうことになったんだ。でも、こっちに急な作業が入ったんで、代わりに竹中さん、応対してもらえないかな」
かまいませんよ、という竹中に、南雲は適当に作成した偽のファイルを端末に表示させた。
「今日の夕方、その高橋さんの仕事が終わってから、ここに来てもらうことになっているんだ。お茶出して、こっちの端末でファイルを確認してもらえれば、それでいいから。わからないならそれでもかまわないし。急な話で申し訳ないけど」
「わかりました。では夕方ですね」
頷く竹中に、南雲は明るく言った。
「一応、その高橋さんの住所と連絡先、あと勤務先なんかも聞いておいて」
夕方、橘フラワーでは、作業を終えた守口がエプロンを畳んでいた。お先に失礼します、と挨拶する女性スタッフに守口が手を振る。
「お疲れ様でしたアヤさん。……んじゃ僕も」
「ちょっと待ちな。その前に、配達一件お願い。私はユリを待ってなきゃいけないから」
そう言ってみどりは、レジの横にかけてあるカレンダーを指差した。そこには橘フラワーと直接契約している百合園の名前が走り書きしてある。
「こんな時間に、これからユリが来るんですか」
「あそこの百合園、思ってたより開花時期が早まってるんだって。だから蕾が開く前に、急遽仕入れることになったの」
「あー、花が開いてからじゃ遅いんですね」
「開いちゃうと、あっちも大変よ。一本でも香りが強いのに、何万本もあるからね。……それはともかく、あんたに届けてほしいのはこっちの胡蝶蘭」
みどりが華やかなラッピングを施した胡蝶蘭を両手で示した。赤い包装紙に包まれた鉢には、光沢のある大振りのリボンが結んであり、三本の茎からは、大きくまるみのある白い花が枝垂れるように連なっている。
「コチョーラン……ですか」
「漢字で書ける?」
「姐さんは書けるんですか」
「私が書けないと思う?」
馬鹿にしてんのか、とみどりがポケットからペンを取り出し、手元にあった紙に胡蝶蘭、薔薇、紫陽花、桔梗、とさらさらと書いてみせる。おおっ、と手を叩く守口に、やっぱり馬鹿にしてたでしょ、とみどりがため息をついた。
「バラの字は覚えておこうかな。ちょっと自慢できそう。……最後のはなんでしたっけ」
桔梗ね、とみどりは棚にあった図鑑を開き、青紫で星型をした小さな花を見せた。
「見たことあるでしょ。こっちのホタルブクロやカンパニュラも仲間っちゃ仲間」
そう言ってみどりが、隣のページの釣鐘型の花を指差した。『蛍袋』と漢字で書かれている。
「蛍を……フクロにするんですか」
深見の名前が『蛍』と書いてケイと読むのを思い出し、守口がにやりと笑う。何言ってんの、というみどりにかまわず、細い茎に連なる釣鐘状の花を見た。うなだれているような花の姿に、つい言葉が漏れる。
「なんだ、こいつも俯いてるじゃん」
「いいからそれより配達行って」
はいこれ、みどりが伝票を突きつける。守口が配達先を確認していると、みどりが親指を立てて情報を補足した。
「向こうの旧道沿いにウシタ製薬のビルがあるの知ってる? あの先にオープンしたキャバクラ。とっとと行ってきな」
「いやあ、すごいところだった」
キャバクラに胡蝶蘭を届けた守口が、再びバイクを発進させた。ウシタ製薬のビルに差し掛かる直前、手前のファストフード店の外で乃梨子を見かけ、引き寄せられるようにバイクを乗り入れる。
「乃梨子ちゃん。どうしたのこんなところで」
バイクを降りて声を掛けると、守口さん、と眼鏡の赤いフレームを押さえながら、乃梨子がにっこり笑った。
「こんばんは。杏梨もいますよ」
「深見さんは?」
「いません。ええっと、河出さんって人のお母さんから、連絡があったんです」
「じゃあ、深見さんは河出さんって人の家?」
「いえ、そのことでウシタ製薬に呼ばれているので、お仕事を終わらせてから、いったんここに来ます」
乃梨子がすぐ隣のウシタ製薬のビルを指差す。こんばんはー、と現れた杏梨の手には、持ち手のついたバッグ型のプラスチックケースがあった。
「それは?」
「話によっては必要になるかもしれないからって」
そう言って杏梨が開けたケースには、ワイルドローズのボトルが詰まっていた。その横で乃梨子が恥ずかしそうに言う。
「深見さんが来るまで時間があるから、ここでシェイク飲んでようかって話してたところなんです。よかったら守口さんも一緒にどうですか?」
いいの? と守口がうれしそうな声を出すと、はい、と二人がにっこり笑う。そしたら、とスマートフォンを出して杉原の番号を呼び出し、得意気に言った。
「あ、杉原さん? 僕今、両手に花なんだけどー、深見さんなんか忙しいみたいだしー、もう僕、配達終わってバイクを店に置いたらフリーだしー、今から四人でシェイクとか飲まない?」
そろそろだな、と南雲が時計を見て立ち上がった。
高橋という男には、河出の母親を通じて、竹中を尋ねるように伝えてある。自分は顔を見せずに、高橋という男の顔を影から確認する。先日アパートで遭遇した連中の一人であるならば、この人物の詳細を調べて正体を掴めばいい。
部屋を出ようとしたとき、南雲宛に内線が入った。高橋様から一番にお電話です、と受付に告げられる。
「俺に?……竹中さんじゃなくて?」
はい、と明るい声が電話の向こうから返ってくる。南雲はわずかにためらい、恐るおそる電話に出た。
「代わりました、……南雲です」
『南雲さんですね。高橋です』
反応できないままの南雲に、『高橋』はどこか楽しそうな声で続けた。
『私に用事があるのは、あなたですよね?』
「それは……その件は……竹中が」
『河出康行の母親から、私のことを聞き出したのはあなたでしょう? 確かに、竹中さんという女性に会うようにと言われましたが……私は女性が苦手なんですよ。できればあなたと話がしたいんです、南雲さん』
そのころ、橘フラワーでのアルバイトを終えた守口と、病院の仕事が終わった杉原は、乃梨子や杏梨とファストフード店で合流していた。
道路の向こうに見える、夕暮れ時のウシタ製薬ビルに目をやりながら、ホットコーヒーを片手に杉原が尋ねる。
「それで杏梨さんたちは、ここで待機ですか?」
「はい。本当は部屋で待つように言われたんですけど、仕事中に無理やり連れてきてもらったんです。お部屋でじっと待ってるのは不安だから」
「……深見さんは今、そこのウシタ製薬に?」
「はい。さっきワイルドローズと書類を持っていきました。ウシタ製薬の南雲っていう人が、河出さんのお母さんに『新しい手がかりが見つかったから、親しかった人を教えてほしい』って言ってきたそうです」
ストロベリーシェイクに口をつけながら杏梨が答える。それって怪しくない? とクリームソーダをつつく守口に、乃梨子が言った。
「はい、深見さんもそう思ったから、あのときの人かどうかを確かめるそうですよ。同じ人だったら、『ワイルドローズ』を使って取引を持ちかけるんだそうです」
「取引って……深見さん大丈夫なの」
「最初から嘘の名前を名乗ってるから大丈夫だって言ってました。それに、警戒されないよう、できるだけ優しく話すって言ってましたよ」
そう言って乃梨子が、バニラシェイクに口をつけた。
そのころ深見は、ウシタ製薬の正門の前に立っていた。耳に当てている携帯電話からは、南雲の動揺した声が聞こえる。
『あなたは、いったい……?』
「高橋ですよ。河出の友人の」
『……どういった用件で、私に?』
「あなたに会うことが私の目的です。少し、外に出てきませんか」
深見は目の前にあるウシタ製薬のビルを見る。焦りを含んだ南雲の声が耳に響いた。
『なんのために、ですか』
「私も、あなたにお見せしたいものがあるんです。……南雲さん、プフランツェを探していらっしゃるのでしょう?」
『それは…………もしかして、警察のかたですか』
「いいえ。私は、南雲さんに悪い話を持ってきたわけではありません。とりあえず今から言う番号に、あなたの携帯電話からかけ直していただけませんか」
そう言って深見が自分の携帯電話の番号を教える。すぐに南雲からの着信があり、会話を続けた。
「では、お手数ですが今すぐ西門へ来ていただけますか。そのまま外へ出てきてください。目の前の、道路を挟んだところにファストフード店がありますね。そこから顔が見えるように、立ってください」
深見も敷地の外側を移動し、フェンス越しに西門付近を窺う。ほどなくして、携帯電話を耳に当てながら、ビルから西門へ向かっている『南雲』が見えた。今日は紺色のスーツを着ているが、間違いなく守口を生け垣に放り込んだ男だった。
「……あそこで電話してる人、あのときの人ですよね」
ストローから口を離した杏梨が、少し暗くなってきた窓の外を横目で見ながら言った。どの人? と身を乗り出す守口を杉原が止める。
「やめろ。あからさまに見るな」
「でもあの人、めっちゃこっち見てる。っていうか、こっちくんな」
「深見さんは……?」
乃梨子も顔を動かさずに、視線だけで外を窺う。周囲に警戒されぬよう、二人の少女は大げさな素振りをしない習慣がついている。
道路の向こうがわの、ウシタ製薬の西門にいる男は、必死の形相で携帯電話を耳に当て、ゆっくりとファストフード店に近付きつつあった。
男のななめ後方には、同じく携帯電話を耳に当て、正門側から歩いてくる深見の姿がある。その表情に、守口がクリームソーダを啜りながら怯えたように言った。
「やさしく……話してるんだよね? なんかめちゃくちゃ悪い顔に見えるんだけど」
「でも笑ってます」
深見を見ながら珍しそうに言う乃梨子に、余計にこわい、と守口が呟いた。
正面のファストフード店を必死に窺っている南雲を眺め、深見が話を続けた。
「ああ、やっぱりあなたが南雲さんだ」
『どこですか?』
「……あなただけに、見ていただきたいものがあるんです」
手にしている封筒とプラスチックケースをちらりと見て、深見は電話を一方的に切った。道路を渡って男の後ろに立つ。こちらですよ、と声をかけると、ファストフード店を凝視していた男がびくりと肩を震わせ、深見に向き直った。
「あ……やっぱり、あのときの」
「お互い、予想通りでよかった。話が早いのはいいことです」
「どういう……なんのためにこんな」
予想通りの人物なのに困惑している南雲に、深見は薄笑いをしながら告げた。
「プフランツェと、河出康行に関する重要な話のために、ですよ。先ほども申し上げましたが、私は南雲さんに悪い話を持ってきたわけではありません。どちらかというと、あなたの味方です」
とりあえず向こうへ、とファストフード店の裏手にある駐車場へ誘導する。空に立ちこめた黒雲で、あたりは暗さを増していた。駐車場の隅に立ち、深見がおもむろに封筒を手渡す。
困惑しながら書類を取り出し、ざっと目を通した南雲が顔を顰めた。
「……なんでしょう、これは」
「手前にあるのが、薬品の仕入れに関する情報の写しと思われます。そしてもう一つのほうが、恐らく、不正利用を偽装するために作成された、記録書類の写しです」
「私は……知りませんよ、こんなもの」
「ええ、南雲さんではないと、私もわかっています。『ワイルドローズ』に混入させた違法薬物を調達したのも、河出康行を殺したのも」
「殺した?…………河出、を?」
「南雲さん。あなたがこの書類と無関係なのであれば、私と取引しませんか」
「……私が無関係なら、話す相手が違うでしょう。私は何も知らない」
「南雲さんが首謀者だとは考えていませんよ。薬物の出所や使い途はともかく、サプリメントの製造ラインを利用するなんて、あなた一人の手には負えない。南雲さん、あなたも巻き込まれているだけなのでしょう?」
まるで心配するかのように深見が語りかける。追い込むべきは、この男ではない。余計な駒を振り落とせるなら落としておきたい。
南雲は目を泳がせながらも、小さく頷いた。
「私は……ごまかしのきく遊び程度のモノしか弄ってない。あんなに、手の込んだコトに関わる気はなかったんだ。河出がどこで何をしているのかも知らない。……まさか、本当に」
怯えたような目で問う南雲に、深見は目を伏せ、首を横に振ってみせた。
「私はこの書類の意味するところを知りたい。南雲さん、あなたは問題のあるワイルドローズをすべて回収してしまえば、面倒事から逃れられる。私に協力していただけないでしょうか。このワイルドローズと引き換えに」
そう言ってプラスチックケースを開くと、南雲が目を見張った。口の端を上げて深見が続ける。
「あなたの上司である逢坂、河出と共に行動していた竹中。誰が、どの件に、どれだけ関わっているのかを、私に詳しく教えていただきたい。証拠も添えて」
話しながら南雲の反応を見る。ぽつり、と雨粒が深見の手の甲に当たった。しだいに勢いを増し、大粒の雨がアスファルトを叩きつけはじめる。
南雲が雨を避けるように書類を封筒に戻しながら言った。
「少し、考えさせてもらえますか」
「構いませんが、いずれあなたの周りで逮捕者が出ますよ。そんな人間を庇うのは無駄です。……そちらの書類は差し上げますから、ぜひ自分の身を守るための参考になさってください」
「……ワイルドローズは?」
「そちらの情報と引き替えに、すべてお渡ししましょう」
そう言って深見も雨から庇うようにプラスチックケースを閉じた。口元をつたう雨を飲み込むように、南雲が小さく頷く。
「南雲さん? そちらにいらっしゃるんですか」
雨音のなかに、女性の声が聞こえた。西門から近付いてくる薄緑の傘を差した人物を、振り向いた南雲が慌てて下がらせようとする。
「今戻るから、君は向こうで」
「でも雨が……それに、南雲さんがおっしゃっていたお客様は…………」
駐車場の手前で、女性が心配そうに薄緑の傘を持ち上げた。その視線を捉え、深見が呟く。
「竹中……小百合」
激しくなる雨音のなか、傘を持った竹中小百合が人形のように動きを止めた。くちびるだけが、ふかみさん、と動いたように見えた。
そんな竹中を、南雲がなかば強引にウシタ製薬の敷地へと連れ戻す。道路を渡りきるころ、いいから、とヒステリックな男の声が響いた。嘲笑するように鼻を鳴らす深見を、強い雨が打ちつける。
「……深見さん」
真後ろの声に振り向くと、心配そうな顔をした乃梨子が立っていた。濡れるぞ、と乃梨子の頭に手を伸ばそうとして、自分が濡れていることに気付く。
深見は乃梨子をファストフード店の中に促しながら言った。
「中で待っていろと言っただろう」
「天気予報、外れたね」
大粒の雨をガラス越しに見ながら、後部座席の守口が言った。予想外れの大雨に、深見の車は傘のない五人を乗せ、街中を走っていた。
助手席に乗った杉原が、濡れた深見のために暖房を強くしながら尋ねた。
「竹中さんは本当に、ワイルドローズの件に関わっているんでしょうか。普段の彼女を見ていても、プフランツェの薬物混入を知っているのかさえ疑問です。河出さんの失踪にも、竹中さんが関わっているようには」
「失踪じゃない、殺人だ。俺は、竹中小百合がその手のことを厭わない人間だと知っている」
ハンドルに手をかけたまま、深見は冷めた目をして言った。杉原が考えながら言う。
「そう考えざるをえない理由が、深見さんにはあるんですね。一昨日言っていた、竹中さんの母親や、深見さんのお母さんに関する話ですか」
「そういうことだ」
それだけ言って深見は前を見た。雨に歪む信号やテールランプが、ワイパーの音とともに押し流されていく。
「……竹中さんとはどういう関係だったのか、聞いてもいいですか」
杉原が眼鏡のブリッジを押さえながら尋ねる。あまり話したくなさそうな深見に、後部座席の乃梨子がぽつりと言った。
「それ、私たちも聞きたかったんです」
乃梨子と杏梨も黙って深見の言葉を待つ。しばらく黙っていた深見は、不意に左へウインカーを出し、隈池病院の敷地にゆっくりと車を入れた。来客用の駐車場に停車して、ヘッドライトを消す。
フロントウィンドウを叩く雨音が響くなか、深見がしかたなさそうに口を開いた。
「十五年前、俺と竹中小百合は、八木根町……ここから西の、小さな町に住んでいた。小学六年だったころの竹中が、煙草を万引きしようとして捕まりそうになった。それを俺が助けた」
「え、竹中さん、小学六年生にして、まさかの不良少女だったの」
「いや、吸ってはいない。その後も体から煙草の匂いはしなかった」
深見が守口に向かって言うと、杉原が反応する。
「体って、深見さん、小六の女の子に何したんですか」
何もしていない、と深見が冷え切った目で杉原を一瞥する。心が汚れてるなあ、と守口がうれしそうに杉原を見た。
深見は暗い目でフロントガラスを見つめながら言った。
「妹のようなものだと思っていた」




