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11 カーネーション

 深見は、日曜の朝から身なりを整え、和菓子屋で手土産を買い、行方がわからなくなっている河出かわいで康行やすゆきの実家を訪れていた。通された和室で、正座した深見が柔和な表情で話す。

「釣りでよくご一緒させてもらっていたんです。素人の私に、丁寧に教えていただいて」

 そうだったんですか、と河出の母親が視線を落とす。初対面である深見の目にも、その姿はやつれて見えた。何か力になれませんか、という申し出に、河出の母親が何度も頭を下げる。

「どう探したらいいのか、私にもわからないんです。皆さんにご迷惑ばかりかけてしまって、本当に申し訳ありません」

 いえ、と制した深見が捜査状況を尋ねる。顔を上げた母親は、座卓の上の何もないところををぼんやりと見ながら話した。

「警察のほうでも探してくださっているんですが、手がかりがないようです。会社にもご迷惑をおかけしてしまって」

「会社のほうからは、何か……?」

「いえ、会社のかたがたも、一生懸命協力してくださっています。何か手がかりがあるかもしれないと、何度もうちにいらしてくださったり、知り合いのかたなどにも聞いてくださっています」

「……会社がいろいろ大変だったことは伺っていましたが」

 そう言って表情を窺うと、母親は肩を落としてわずかに微笑んだ。

「上司とのことで悩んでいたような素振りはありましたが、皆さん本当に心配してくださって、いい人達ばかりです」

「……そうでしたか」

「警察も事件性は薄いかもしれないと言っているので、会社のほうでも、事情がはっきりするまでは話を広めないよう配慮してくださっているようです。康行は新製品の開発にも関わっていたようなので、いろいろとご迷惑を……」

「新製品の開発って……康行さんはMRだったはずですが」

「いろいろと、部署や配置が大きく変わったそうですから。うちにいらしたかたも大変そうでした。……先日も、康行が読んでいた本や雑誌に手がかりがあるかもしれないとおっしゃるので、部屋を見てもらったんです」

「それで、手がかりはありましたか」

 身を乗り出すように尋ねる深見に、母親は申し訳なさそうに首を振り、小さくため息をついた。

「ひょっとしたら、警察の言うとおり、あの子は自分の意志で失踪したのかもしれないと思えてきたんです」

 そう言った母親の表情が、少しだけ穏やかなものになる。そう考えるほうが、事件に巻き込まれていると考えるよりは楽だろう。深見が黙っていると、母親は少しためらいながら続けた。

「一度、警察から電話があったんです。遺留品が康行のものか確認に来てほしいと、急に。それで警察へ行ってみたら、そんな電話はしていないと言われたんです。そして家に帰ってみたら、誰か……康行が戻っていたような痕跡があったんです。あの子は鍵を持っていますし、部屋をいろいろと探したような跡がありましたから」

 母親が宙を見つめる。深見は遠慮がちに尋ねた。

「警察からの電話とおっしゃいましたね」

「携帯電話からで、緊急なのでとりあえず現場から連絡しました、と言われました。あとから番号を確認したら、康行が会社で持たされていた、仕事用の携帯番号だったんです」

「その、携帯は」

「見つかっていません。普段は電源を切って、あの子が持っているんだと思います」

「警察には……」

「言うと、捜索が打ち切られるような気がして、まだ」

 母親が目を伏せる。自主的な失踪だと思いたいが、そう判断されて警察に探してもらえなくなることを恐れているようだ。

「その電話、声は、康行さんのものだったんですか」

「……そのときは警察だと思っていましたし、慌てていたので……でも、おそらく」

 母親がうなだれる。その電話が河出康行からのものと言い切るには根拠に乏しい。むしろ別の人物によるものと考えざるをえない。しばらく気遣いながら話を聞いていると、河出の母親はふと壁にかかったカレンダーに目をやった。

「わざわざ康行のために、ありがとうございます。こんな……今日は母の日なのに、あなたはいいんですか」

「……両親は他界していますから、私には関係がないんです」




 そのころ、乃梨子と杏梨は、『高層オフィスビルまで三分もかからない場所にある、高層マンション』から少し離れた公園で待機していた。目的の建物のそばにも公園はあるけれど、住人の目に触れるのは避けるようにと深見に指示されている。

「深見さん、河出さんっていう人の家にまだいるみたい」

 着信する気配のない携帯電話を手にして乃梨子が言う。もうお昼なのにね、と杏梨が少し離れた場所にあるコンビニエンスストアを指差した。

「じゃ、深見さんに言われたとおりに下見しながら、甘いもの食べようか。乃梨子、何がいい?」

「一緒に行かないの」

「深見さんがここに来たとき、二人ともいないと困るでしょ?」

「そうだね、じゃあ、チョコレート」

 にこっと笑いながら告げる乃梨子に、了解、と親指を立て、杏梨が『高層マンション』の先にあるコンビニエンスストアへ歩いていく。乃梨子はベンチに腰掛けながら、反対側に見える『高層オフィスビル』を眺めた。

「あ、だからホットアクアさんなんだ」

 ブログにあった『高層オフィスビル』にあたる雑居ビルの一階は、熱帯魚を取り扱う『アクア』という名前の店だった。

 のんびりと花壇を眺めていると、荷台に大きなボックスのある貨物用の三輪バイクが停まった。ヘルメットを被った男がバイクから降り、乃梨子に向かって手を振る。

「また会えたね! 僕だよぼくぼく」

 そう言って、ギンガムチェックのシャツを着た男がヘルメットを外した。

「……ええと、守口さん?」

 驚いた乃梨子が目を見開く。守口のはるか後方には、白い袋を持った杏梨が、小さく手を振ってそのまま遠ざかるのが見えた。『橘フラワー』の文字が入ったバイクを眺めながら近付くと、守口が尋ねる。

「どうしたの? 今日は一人?」

「……ええっと、そんな感じです」

 困ったように乃梨子が目を逸らすと、杏梨の姿はもうなかった。『母の日』で、朝から街中を走りまわっていることを守口が説明する。

「やっと午前中の分の配達が終わったんだよ」

「すごいですね。運転って、大変そうなのに」

 わかってくれるんだ、と守口がうれしそうに荷台のボックスをばんばんと叩く。乃梨子はいつか見た花の広告を思い出しながら言った。

「今は、ユリの花やあじさいを贈る人もいるんですよね」

「そうそう、詳しいね! 今は色や形がすっごい可愛いあじさいがあるよ。花の形が星みたいでさ、ダンスパーティっていう名前なんだけど」

 詳しいのは守口さんですよ、と乃梨子が笑うと、なんかうれしいなあ、と守口も幸せそうに笑った。ところでさ、とふと思い出したように真顔になる。

「あれから大丈夫だった? 変な男に絡まれてたよね、危ないこととか、ない?」

「あ、大丈夫です」

 少しだけ乃梨子の顔色が変わる。まだ、深見にこのことを報告していない。よくない報告をしたら、今までの楽しい時間が終わってしまうような気がする。

「本当に、怖い目に遭ったりしてない? 危ないことや嫌なこととか、ない?」

「嫌なことなんて、なんにもないです。おとといは知らない人だったから、ちょっとびっくりしましたけど、普段は全然平気です。毎日すっごく楽しいですよ?」

 そう言って乃梨子が笑いかける。嘘じゃない。毎日が本当に楽しい。

 そっか、と気を取り直したように守口は荷台のボックスを開けた。一本ずつささやかにラッピングしてある赤いカーネーションを取り出して乃梨子に差し出す。

「これはさっき話した、あじさいとかユリとかの、カーネーションじゃない商品につけるおまけなんだけど」

 乃梨子が笑顔のまま動きを止めた。その花を見つめているはずの目が、焦点の合わない虚ろな色に変わる。それでも目を逸らさずに、抑揚のない声で言った。

「ありがとうございます。……でも、私はいいです」

「あ、ごめん、そうだよね、花占いとかもやりにくいよね、これじゃ」

 守口がうろたえながら、慌てて花を引っ込める。

「ええと……そういうわけじゃ……」

「いやあの、ごめんね。だよね。ぼくも可哀想だから花占いはやらないんだよ!」

 じたばたと両手を振りながら必死に守口が話す。いえあの、と乃梨子が何かを言おうとすると、守口は思い出したように自分のバッグをごそごそと探り、明るい声を出した。

「よかったらこっちはどう? 僕の場合、封開けて黄色が出るとラッキーなんだけど」

 そう言って守口がマーブルチョコレートの小さな円筒パッケージを差し出す。促された乃梨子が封を開け、チョコレートを手のひらに出す。黄色とピンクの二粒が同時に出ると、守口がうれしそうに言った。

「あ、いいね。黄色はラッキーで、ピンクは……楽しいことがあるから!」

「……ありがとうございます。占いって、楽しいんですね」

 乃梨子が目を細めて笑った。占いよりも、必死な守口が面白い。なぜか自分を心配してくれているのが、不思議だった。

「私はラッキーでも、守口さんは大丈夫なんですか? 忙しそうですけど」

「や、まあ、忙しいんだけど僕もラッキーで楽しいよ!」

「そうじゃなくて、あの、お仕事」

 乃梨子が笑いながらも心配そうに守口を見る。しまった、と腕時計に目をやった守口が慌てて言った。

「それじゃまたね、こんどはゆっくり他の占いしようね!」

 ほかの? とぼんやり考えながら手を振る乃梨子に、守口はぶんぶんと手を振ってヘルメットを被り、公園をあとにする。一人になった乃梨子は、チョコレートの小さな筒をからからと振って笑った。




 乃梨子から離れた杏梨は、チョコレートの入った袋を下げたまま、目標のアパートを眺めていた。周辺の施設や建物を確認する。乃梨子の言うとおり、言葉を変えるとすべての条件が一致していた。

 建物の入り口を見る。目的の部屋番号の郵便受けには、丸い書体で印字されている名字だけがあった。いったん敷地の外に出て、二階の玄関扉を見る。表札は出ていない。

「今度は、何を調べているんですか」

 びくりとして杏梨の動きが止まる。突然真後ろから声をかけられるのは、昨日に続いて二回目だった。自分の背中に不審な要素でもあるのかと考えながら振り返る。立っていたのは、明るい色のジャケットを着た眼鏡の男性だった。

 男は、杏梨の持っているコンビニエンスストアの袋を見ながら言った。

「どうしましたか。今度は、勝手に嫌いなチョコレートを捨ててしまったんですか」

「あ、病院の」

 妙な話しにくさで、昨日話した薬剤師の杉原だと気付く。杉原は冷静な表情で、極めて丁寧な口調で言った。

「こんにちは、ピンクのバラのお嬢さん」

 うっ、と杏梨がやりにくそうに杉原を見る。私服姿なので気付くのが遅れた。杉原の目を見ないようにしながら言う。

「こんにちは。……ちょっと、通りかかっただけです」

「私も一緒です。ただ君は、この建物の郵便受けや外観を観察しているようでした。そしてここは、君の家ではなさそうですね」

 杏梨は答えずに杉原を観察する。その態度や口調には、どこか芝居がかったような胡散臭さがあるけれど、敵意のようなものは感じないし、素性を探るような気配もない。でも、目的も解らない。

 思い出したように杉原が続けた。

「お一人ですか? いつも、もう一人の子と一緒ですよね」

「……男の人と話してたから、ちょっと遠慮したんです」

 杏梨は怯まずそう言って、にっこりと笑ってみせた。乃梨子といるところを、いつ杉原に見られていたのかわからないけれど、動揺しているところを見せないほうがいい。

「大丈夫なんですか、お友達を放っておいて」

「あ、それは大丈夫です。まったく心配なさそうなタイプの人でしたから」

「全く心配なさそうなタイプ?」

「はい。あの子でも追い返せそうです」

 追い返す? と杏梨の視線を追った杉原が、遠くの公園にいる人影を見た。

「やっぱりあいつか」

 思わず杉原が小さく呟く。公園の入り口では、赤いフレームの眼鏡をかけた制服姿の少女に、ヘルメットを持った守口が子犬のようにはしゃぎながら話しかけていた。

 杉原は目を閉じて眼鏡を押さえると、杏梨に向き直った。

「それにしても、やっぱり君がプフランツェに関わる女の子の一人だったようですね」

「……なんのことですか」

 杏梨の声のトーンが硬くなる。唐突すぎて対応が思いつかない。なぜ杉原の口からその単語が出てくるのか解らない。自分達の行動や正体に気付かれるわけにはいかない。それは深見の破滅にも繋がる。

「そんなに怖い顔をしなくても大丈夫ですよ、杏梨さん」

 杉原の声に、凍りついたように動きが止まる。この人は、確信を持って自分のことを『杏梨』と呼んだ。もう一人が乃梨子であることも、恐らく知っている。プフランツェを回収していることに気付いているのなら、シラを切るには遅すぎる。

 黙ったまま、杉原の目をじっと観察する。敵意は感じないが、狙いがわからない。余計なことを話すより、服従するように見せかけるべきか。杏梨はちらりと周囲を見回し、杉原の目を見ながら小さな声で言った。

「……なんでもしますから、誰にも言わないでもらえませんか」

 杉原が一瞬険しい目で杏梨を見る。少し考えたあと、杉原は困ったような声を出した。

「そういうお願いをされると、逆に心配になりますよ。では杏梨さん、一つだけ答えてください。君は、深見さんに、酷いことをされていませんか」

 深見の名前を聞いた瞬間、杏梨が強い視線で杉原を見る。わずかな沈黙のあと、かすれるような声で答えた。

「ありません。私も、あの子も」

「……そうですか。信じましょう」

「何を知ってるんですか」

「いえ何も。ただ、君達が犯罪に巻き込まれている可能性を、少し考えただけです」

「……あの人も、何か知ってるんですか」

 あの人、と杏梨が遠くの公園に視線を向ける。杉原もそれを目で追うと、力が抜けたように口調を変えた。

「いやまあ、あいつがおかしな妄想してたから、君に確かめてみただけで」

「お願いします。内緒にしてください。あの妄想の人にも」

「本当に、君達に問題がないなら」

 杉原が確かめるように杏梨の目を覗きこむ。真剣な目をして杏梨が言った。

「ありません。本当に、深見さんは悪くないんです。深見さんもあの子も、悪いことはしていません。私、いい人ってわかるんです。あそこにいる妄想の人も、悪い人じゃないでしょう?」

 杉原については一言も言わない杏梨に、杉原が複雑な顔をしながら尋ねた。

「……もう一つ。君達はあのサプリを摂取しているんですか」

「いいえ。絶対に口にするなって」

「そうですか。深見さんも?」

 はい、と真剣な顔で頷く杏梨に、杉原が宙を睨んで考え込む。杏梨は強い口調で訴えた。

「お願いです。どうしたら、秘密にしてくれますか」

「では、口止め料にチョコレートを一口分けてもらえますか」

 そう言って杉原は、杏梨の持っている袋を指差して笑った。

 

 杏梨と杉原がチョコレートをつまみながら公園の方向を眺めると、なにやら守口が慌ててヘルメットを被り、乃梨子に手を振りながらバイクで走り去っていくのが見えた。杉原がため息をついて言う。

「追い返されたようですね」

 でしょう? と杏梨が小さく笑う。大丈夫かあいつ、と杉原がチョコレートを口に入れると、不思議そうな表情で杏梨が聞いた。

「杉原さんって、どうしてそんな話しかたなんですか?」

「……仕事とプライベートの切り替えが、まだ上手くできてないんですよ」





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