万能クルーザーアリスリット号
鳴海彩兼、18歳。水産高校に通う高校生だった彼は、夏休みに冒険家にして発明家だった父親、鳴海譲二が遺した自作のクルーザー、アリスリット号の試験航海中に別の世界に迷い込む。
そこはファルプと呼ばれる世界。
魔力によって突然変異した獣、魔獣が大陸を跋扈し、人類は離島や僻地へと追いやられ、まったく別の歴史をたどることになった並行世界の地球だった。
それでも国を作り、文明を育んでいく人々と出会い、交流を深めながら彩兼はアリスリット号を駆り、元の世界へ帰る方法を探していくことになる。
それから2ヶ月、若狭沖、水深100メートルの海底に身を潜めたアリスリット号。その中で眉をひそめ、モニターを眺める彩兼の姿があった。
「……反応あった。こりゃ、でかいな」
アリスリット号のソナーに映し出されたのは、鰭竜と呼ばれる肉食の海洋生物だ。
最近、この近海に出没するようになったこの生物を調査するため、彩兼はアリスリット号と共に海底に潜んで2時間と経たず、それは彩兼の予想より随分と早い邂逅であった。
「全長約……、20メートルはあるだろこれ」
「結構早く見つかりましたね」
アリスリット号の操縦室にはもう一人、年若い少女が彩兼の横からソナーの映像を眺める。
名前はルルホ。この世界で出会った少女で彩兼の助手を務めている。
「そうだな。こいつの活動範囲が思った以上に狭いのか、単に運が良かったのか。まさか何匹もいたりはしないよな?」
「鰭竜は群れは作らないそうです。それにこのあたりには、鰭竜の胃を満たせるような獲物がいないはずです」
「……だな。人間以外は、だけど」
「はい」
すでに何人もの漁師や人魚が犠牲になっている。この調査は鰭竜を実際確認して、それが討伐可能かどうかを見極めることにあった。
「ごめん、ファルカ呼んできてくれ。あいつにもみせてやろう」
この船にはもう1人乗員がいるのだが、交代で休憩を取るため、今はラウンジで寝息を立てているはずだった。長丁場を覚悟してのことだったが、無駄になってしまったようだ。
「ファルは寝起きが悪いんですよ?」
ルルホが少し嫌そうな顔をする。
「頼むよ。海の魔獣にはあいつそれなりに詳しいだろ。意見が聞きたい。それに俺が今ここを離れるわけにはいかない」
鰭竜が想像以上に大きいことから、彩兼はアクティブソナーの使用を危険だと判断して、パッシブソナーへと切り替える。
アクティブソナーは音の跳ね返りを測定して水中にあるものを捉えるシステムだ。制度が高く便利だが、こっちから音を立てるため周囲を刺激したくない場合は使えない。
対してパッシブソナーは、拾った音から周囲を探るシステムである。
よく映像作品で、潜水艦のソナー員がヘッドホンをつけて耳を澄ましていたりするのがそれである。しかし、このアリスリット号にはそんな熟練のソナー員が乗ることなど考えていないため、拾った音をコンピューターで解析してレーダーのように映し出すシステムが積まれている。だがそれは、探知可能な範囲が狭く、精度の方もやや怪しい。
ソナーだけでなく、船外の高感度カメラ、サーモセンサーなど、一応、海洋調査を目的として造られたアリスリット号は、その手の観測装置が充実している。だが、それらの機材は使えるのが現状では、彩兼にしかいないいのだ。
ルルホにもこの船のことを少しずつ教えてはいるが、これまで弓矢持って、熊や猪を狩って生きてた自然派少女が、これらハイテク機器を使いこなすには、まだまだ時間がかかるだろう。
彼女の祖先は昔、彩兼と同じようにこの世界に流れ着いた日本人だという。
UVカットも美白化粧水も無いこの世界を逞しく生きてきたその肌は、健康的な小麦色。長い黒髪をポニーテールにして、可愛らしい顔立ちはまだ幼さを残しているが、長い手足と、均整のとれた体付きで14歳という年齢の割にスタイルが良い。
健やかに成長中のバストを布で覆って後ろで縛り、張りのあるヒップにはきゅっと締められた褌。6尺褌のようだが、後ろは解けにくいようにしっかりと結んでいる。
その生地は厚みがあり丈夫で、製法技術が低いため仕立てが荒いが、それが野性的で健康的な少女の色気を引き立てている。
今はその上に、蛍光オレンジのライフジャケット身に付けているという、なんとも奇天烈かつ刺激的な格好をしているのだから、彩兼も目のやり場に困るというものである。
決してルルホの趣味、思考がおかしいわけではない。ルルホは気立てが良く、純朴な少女である。ただ、このファルプには彩兼が元いた世界のような水着が存在しないため、水に入る姿としてこれが一般的なものなのだ。
あと、ライフジャケットは着ておくようにと彩兼が指示した。
水中からの脱出に役立つものではないが、泳ぎがあまり得意ではないルルホが海に出る際には必須のアイテムとなっている。
しかし、ライフジャケットを着せておいた目的が、ルルホの露出をできるだけ抑えたかったことにあるのは間違いなく、これが無ければ、狭い操縦室の中であられもない姿の少女の魅力に抗えたかどうか少し怪しい。
全ては安全の為である。
ちなみに彩兼も、愛用のブーメランの上にTシャツを着て、それにパーカーという出で立ちだ。
ルルホにパーカー貸してやればいいだろうよ?と言いたいところだが、逆に自らの劣情を煽りそうだからやめたのだ。
元の世界で水産高校に通っていた彩兼は、実習航海や海難救助訓練で鍛えられ、背はそれほど高くないが、それなりに引き締まった体をしている。
北欧出身の母と日本人の父親とのハーフで、プラチナブロンドの髪にコーカソイドとしては珍しく彫りの浅い少女のような甘い顔立ち、そして翡翠の瞳と、実は相当なイケメンであるのだが、女子の少ない水産高校に通い、また冒険と発明に取り憑かれた父を持ち、それに付き合っていたせいか彼女がいた試しはなく、色恋に対してほとんど経験がない。
ルルホのことも可愛いと思っているが、薄衣の男女が狭い操縦室で2人きりだというのに、ルルホがあまりに普通なものだから、俺って男として魅力ないんだろうか?とやや自信喪失気味になっていた。
もう1人の、今ルルホが呼びに行った少女の方はストレートに愛情を向けてきてくれるのだが、生憎ある事情で、その娘を恋愛対象として見ることができない。
なんとも悩ましい状態である。
「ん? またやらかしたか?」
ルルホがラウンジへ向かった後、何か重いものがが落ちるような音がして、船が小さく揺れた。
明かりが消され、暗いラウンジのソファーの上にぼんやりと白く光っている物体が見える。
それは魚の鰭ように見えるがまさしくその通りであり、仄かに白く光を放つ半透明の鱗に覆われた、魚のような下半身、パレオを境目に上半身は優美な曲線を描く乙女の体、白い素肌に金色の髪を持つ少女が、クッションを抱えて寝息をたてていた。
その半身が示す通り彼女は人ではない。メロウ族と呼ばれる人魚である。
日焼け知らずの白い肌、いくら潮風に吹かれても痛むことのない艶やかな金髪。まだ13歳でありながら、粗い布地に包まれたバストはルルホより大きく、むき出しのウエストは締まっている。
彼女の種族は人よりやや成長が早いかわりに、短命なのだという。
左の手首に巻かれた白と藍色の糸で編まれた組紐は、この船の乗組員の証として3人で揃えたもので、彩兼やルルホの手首にも同じものがある。
ちなみにこの人魚もまた刺激的で姿ではあるが、ライフジャケットを着ていない。人魚はライフジャケットを着ると溺れるからだ(確認済み)。
「ファル、起きて。アヤカネさんが呼んでるよ」
肩を揺さぶって声をかける。この細い肩で自分よりずっと強い力が出せるのだから不条理だ。
「エヘヘ、アヤカネ……」
桜色の唇から甘く囁くような声が溢れ落ちる。クッションを抱きしめ、良い夢を見ているようで起きる様子はない。
手加減不要と判断したルルホは、ファルカの胸と腰に巻かれた、わずかばかり素肌を隠している布に手をかけると、思いっきりそれを引っ張った。
「ふぎゃ!」
体長約2メートル、体重も100キロ近い人魚のファルカの体がソファーから床に落ちると、ズシンと音を立てて僅かに船が揺らす。
なにその巨体?と驚くかもしれないが、それは人魚の下半身が人のそれより大きく発達しているためである。
ファルカの上半身は、胸部を除けばルルホに比べてやや細い。
開かれた青い瞳が不満げにルルホを捉える。
「おはようファル。目、覚めた?」
「うぅ~。るるっぽの仕業か!」
起き上がるや、ファルカがルルホに掴みかかる。その時には彼女の腰に巻かれたパレオの下は鰭ではなく、形の良い人間の素足が伸びていた。
変幻。人魚に限らず、魔力の影響を受けて人から派生した種族、通称魔族と呼ばれる彼らは、通常人と異なる外観をしていても、魔法の力で人の姿をとることができる。
この状態のファルカはルルホと同じくらいの体格である。身長で僅かに高く、体重は僅かに軽い。
質量一体どこに消えてるん? とか疑問に思ってはいけない。魔法の力で解決なのである。
「君たち、何暴れてんの?」
ラウンジがあまりに騒々しいので、結局、彩兼が操縦室から顔を出すと、そこではルルホを組み敷いているファルカの姿。
絡み合う小麦の肌と白磁の肌。2人は今さぞ色っぽい状態になっているのだろうが、残念ながら明かりが消されたラウンジ内は暗く、彩兼はそれを確かめることはできなかった。
小さくため息をつく彩兼。決して残念だったからではない。
「だってるるっぽが!」
「ファルが起きないから!」
「あーもう、静かに。こっち来なさい。奴が来る」
よく見えはしないが、一応視線を外して、見てませんアピールをしながら彩兼は操縦室へと2人を手招く。
「待って、パンツ、パンツ……」
寝ている間に変幻してしまい、脱げてしまった下着を穿く光景は、美しい見た目に似合わないなんとも残念な感じである。
この世界での一般的な下着は紐でサイドを結ぶ、いわゆる紐パンや褌だが、ファルカが愛用しているのは、伸縮性のあるゴム状の繊維が織り込まれた、地球の衣服を参考にして作られた、最新の高級品である。
穿きやすく、脱ぎやすいこのタイプの下着でないと、穿いたままうっかり変幻した時、とても痛い思いをする事になるらしい。
操縦室も今は明りが落とされ、モニターからの光だけが室内をわずかに照らすのみである。
大きめのワゴン車の中くらいの広さの操縦席は、1番前に操縦席、左斜め後ろに折りたたみ式の補助席があり、その後ろ側面にソナー。対面にはキーボードと、21インチのモニターが3面で設置され、現在そこには高感度カメラが映し出す外の映像が映し出されていた。
3人共息を飲んでモニターを見つめる。
深さ100メートルの海底は太陽の光も届くことはなく真っ暗だが、高感度カメラは近づいてくる蛇のようなその姿を捉えることができた。鰭竜だ。
細長い体はまるで魚雷のようで白く、不気味なまだら模様が入っている。
見慣れないモノが海底にあることに興味を引いたのか、鰭竜はわずかに上下にうねりながらアリスリット号の周囲を回遊する。
「2人共、静かにしてろよ? あんなのに襲われたら、この船もただじゃすまないんだからな?」
この船は民間船であって、武器もなければ超合金でできた装甲も無い。普通の船よりはずっと頑丈ではあるが、相手はざっと見積もって、20トンはありそうな怪物だ。下手すればこの船も海の藻屑となり、3人仲良く奴の昼食になるだろう。
「速いな。この深さで20ノット以上? 本気ならもっと出るか? なるほど、活動範囲が広い割にこうも早く出会えたのは、奴の動きが早いからなわけか……。これも精霊魔法?」
この世界の人々は、自分たちの常識では説明のつかない現象を十把一絡げに魔法と呼んで片付けている。
彩兼の目には、自分がこのファルプに流されてきた現象と、ファルプで魔獣が発生した現象と、魔族が変幻する現象と、精霊魔法って全然別物に見えるのだが、そのあたりの形骸化は実に曖昧なものらしい。
その中で最もポピュラーなものが、魔獣や魔族が扱う精霊魔法だ。
魔力をもって精霊を使役し、火を吹いたり、水を剣や槍といった武器にしたり、風の精霊使いとかはレーダーのように周囲を探ったり、遠くに居る同じ風の精霊使いと会話できたりと、様々だ。
もちろん人はそんなの使えない。
魔法が使えるのは魔力の影響を受けて異常進化した生物、魔獣や魔族だけである。
ちなみに魔族とはエルフや人魚、ドワーフ、獣人など魔力を受けて生まれた種族を指す。
「うん。鰭竜とか海の魔獣はあたし達メロウと同じ、海の精霊の力を借りて泳ぐことが出来る」
「精霊魔法による流体推進か。便利なものだなぁ……」
流体推進の意味が分からずファルカはきょとんとしているが、彩兼は鰭竜の速さの秘密が分かっているようである。
ファルカ達メロウ族は、熱帯魚のように優美に広がる鰭を持っていて、魔法無しでもそれなりに高い泳力があるが、鰭竜と呼ばれている割にその鰭は巨体に似合わず小さい。
細長い体躯もあって、魚雷のようなその体型は魔法で泳ぐのに特化しているのだろう。
天敵への潜在的な恐怖心だろうか? 気が付くと、彩兼の二の腕を掴むファルカの手が震えている。空気より抵抗の強い水中で生きる人魚の筋力は人より強く、また地球の裏側からでも自力で泳いで帰ってくると言われるほどの持久力を持つ。そのため掴まれるとかなり痛いが、彩兼は引き離すことなく、その震える手をそっと握る。
ルルホもファルカの肩に手を回している。もう片方の手はファルカが掴んでいるのと逆の腕の袖をしっかりと握っていたが。
鰭竜がすぐ頭上を通り抜けていく。その瞬間3人は息を飲んでそれが過ぎ去るのを待った。
しばらくして興味を失ったのか、鰭竜が離れていく。カメラの視界から、そしてソナーの探知範囲外へと消えていく。
それでも数分の間、三人は暗い船内で息を殺していた。
やがてダイバーズウォッチを見ながら3分たったのを確認して、彩兼がその沈黙を破る。鰭竜の速度からして十分距離が取れただろうという判断だ。
「よし、もう大丈夫だろう。でも大きな音は出すなよ? 喧嘩も厳禁。わかってるな?」
「「はい……」」
2人ともぐったりしている。喧嘩する気力もなさそうだった。
「ルルホ、ここ見ててくれ」
「わかりました」
ソナーの監視をルルホに任せると、彩兼はアリスリット号に備え付けられたコンピューターを使って、カメラが撮った映像の解析を始める。
「体長21メートル、体重が推定22トン? 結構細いな。モササウルスに似てるけど、上下にうねってる。元は鯨か? だったらバシロサウルスに近いな?まぁ、年代合わないし、全然違う種族なんだろうけど……」
モササウルスは7000万年前、バシロサウルスは4000万年前に生息していた肉食の海洋生物だ。
この世界が魔力の影響を受け、それによって魔獣が生まれたのが、おおよそ10万年前だとされている。
「アヤカネ?」
その様子を後ろから眺めるファルカ。出会って2ヶ月経つが、いまだにコンピューターを扱う彩兼を見て不思議そうな顔をしている。
「ああ、ごめん。あれはたぶん鯨の仲間だよ。大昔に魔力を受けて先祖返りでもしたんじゃないかな?」
肉食の鯨としてはマッコウクジラやシャチなどがいるが、鰭龍のワニのような顎は原始の鯨に見られた特徴である。
現代の鯨はプランクトンや小魚などを髭でこしとるように食べるようになった。効率よく必要な食料を摂取出来るように進化したことで、シロナガスクジラなど大型の鯨もその巨体を維持出来るわけであるが、その流れに逆向したかのような姿の鰭竜は、魔力によって生物が再び大型化したこの世界では時流にあったものなのだろう。
「よし、帰って作戦会議といこうじゃないか」
彩兼はアリスリット号に音声で浮上を指示する。
海底を離れ、ゆっくりと浮上していくアリスリット号。この船は簡単な操縦ならば声をかけるだけでできるのだ。
「アヤカネ、あの鰭竜をどうにかできるの?」
鰭竜が現れたことでメロウ族には大きな被害が出ている。
何人も犠牲になっているというのもあるが、人魚は腹が減ればそのへん泳いでいる魚獲って食べるというのが普通で、海に出られなければその日の糧にも困るのだ。
海に入れない日が続けば、餓死者が出かねない状態なのである。
「まぁ、やれそうな事、考えてみるよ」
「本当!? やったあ」
後ろから抱きつくファルカ。長い金髪が首筋に触れてくすぐったい。
ストレートに感情を表現してくるファルカ。会ってからそう間もないが、彼女が向けてくる素直な好意は、恋愛経験に乏しい彩兼にも伝わってくる。
もちろんこんな綺麗な子に慕われて悪い気はしない。しかし、それ以上の関係に進展することが望めないことも理解していた。
なぜなら種族が違うからだ。この世界で異種族間の恋愛は禁忌とされている。
理由は簡単で、2人の間にできる子供ってどんな子?という話で、そこに論じる余地など無いのである。
どうしてもというなら、男子のナニをちょんぎって……と、冗談でなくそういう話になるのだ。
「アヤカネさん!」
ソナーを見ていたルルホが突然声を上げた。
「うん? ……アレが戻ってきたのか?」
ソナーには急速に接近してくる影が映し出されている。さっきの鰭竜に間違いない。
「あー。これは、まずいな」
こちらの探知範囲外からこの船の動きを察知して戻ってきたようだ。どうやら鰭竜はこちらより良い耳を持っているらしい。
かなりの速度で迫ってくる鰭竜に対して、アリスリット号の潜水能力は元々おまけのようなもので、水中でのその機動はどん亀だ。
彩兼はアリスリット号のまるで戦闘機のコクピットのような操縦席に座る。そこにはステアリングのようなものはなく、サイドレストから伸びた操縦桿を握って操作する。
操縦系にフライバイワイヤー使ってみた!と生前、彩兼の父親、鳴海譲二は喜々として言っていた。
正面にはタッチパネル対応のディスプレイ。深度や速度、燃料計などがそこに表示されている。
そして周辺には何に使うのかわからないようなスイッチやレバーやボタンがややたくさん。
海面まであと30メートル。このあたりならば太陽の光も届くため、フロントウインドウ越しに青い世界が広がっている。
そこに黒地に白のまだら模様が入った蛇のような生物が真っ直ぐこちらに向かってくるのが見えた。
細長い体、小さな鰭。体長の割に頭は小さいが、それでも人や人魚を一口で捕食できるくらいはあるだろう。
よほど腹がへっているのか、縄張りを犯されて腹を立てているのか、とにかくあんなのに襲われたら沈没もありえる。
彩兼は操縦桿を引き、鰭竜を真正面にアリスリット号の舳先を向ける。
潜水能力があったりと、ただのクルーザーではないアリスリット号だが、船首にドリルや冷凍兵器積んでいるわけではない。
小型船でありながら鋭角的なバウが衝角っぽく伸びていたりと、かなり独特の形状をしたアリスリット号の船首部分ではあるが、それでもって体当たりをしようというわけでもなかった。
バウ部分には、アクティブソナーが備え付けられているのだが、アリスリット号のそれにはある機能が追加されていた。
「2人とも、耳を塞げ!」
ゴォォォン!
大音響がアリスリット号の船体を震わせる。
ピンガーを転用した鯨よけだ。大音量と振動波で人間なら脳震盪を起こして昏倒してたところだろう。さすがにそこまでの効果をあの怪物には望めないが、驚かせることには成功したようだ。
真正面から向かってきた鰭竜がはじかれたように進路を変える。
「よし、今のうちにとんずらだ!」
操縦桿を引く。船体が大きく上を向き、少女たちが小さく悲鳴を上げた。
ついにアリスリット号が洋上に浮上する。
44.4フィートの翼のない航空機のような流線型の白い船体。船体上面の大半は黒水晶のようなソーラーパネルで覆われていて、それが陽光を受けて煌めいている。
万能クルーザーアリスリット号。彩兼の父親、鳴海譲二が世界を旅するために建造した情熱と趣味と借金の結晶である。
甲板の左右にサメのエラのように配置されていた吸気装置が開き、甲高い音が波間に響き始めたかと思うと、船尾から爆音と共に高々と水柱が上がる。
飛ぶように海面を駆けだすアリスリット号。
やや遅れて海面に現れた鰭竜だったが、足の速さが自慢の鰭竜も、さすがにそれを見送ることしかできず、やがて再び海中へと姿を消したのだった。