第七話
非常階段を昇った先、扉を開けて涼穏が辿り着いたのは屋上だった。
涼穏はすぐに周囲を確認する。屋上から身を乗り出せないように周囲はぐるりと金網で囲われている。数歩歩いて振り返ると入口の上付近に貯水タンクが置いてあった。
大きなデパートの屋上の割には簡素な場所だった。そう言えば非常階段の途中に「立ち入り禁止」の看板を見たような気がする。普段は立ち入ってはいけない場所なのだろう。
ただ、この場所は涼穏にとって敵を迎え撃つのに最適だった。
立ち入り禁止と言う事で人気が少ないのは勿論の事、その気になれば涼穏はこの場所から飛び降りて逃げる事も可能だ。高さは三十から四十メートルと言ったところだろうか。涼穏の【憧憬武鎧】はそれくらいの高さから受ける衝撃を平気で受け止める。
さっきの相手が追ってくるかどうか、それは涼穏には分からない。【憧憬武鎧】で強化改竄した逃亡速度は並ではない。普通の相手なら追い付く事はおろか、逃げた先を目で追うことも出来ないだろう。
ただ、涼穏には何となく追って来るであろうという予感があった。
それでもここでなら【憧憬武鎧】を以ってして遠慮なく戦う事が出来る。
「ど、どうやら逃げ切れたようじゃの」
腕の中に収まっていたココロが震え声で言った。
(そう言えばエレクトール教授の事を考えないで結構飛ばしちゃったかも……)
涼穏は自分の移動速度や移動方法が抱えているココロの事を失念していて事に気付く。
「中々に、……その、デンジャラスじゃったのう」
棒読みで感想を述べるココロを腕から下ろし涼穏は頭を下げる。
「すみません。焦っていて、その……」
「いや、なに……仕方の無い事じゃ。リオンはココロを守ってくれたんだからのう。だから問題ない、問題ないのじゃ……怖くない、コワクナイ……」
ココロは何度となく「コワクナイ」と自分に言い聞かせていた。
いよいよとなればここから飛び降りる必要があるのだが。これは言わない方が良いだろう。
「取り合えずここまで来れば暫くの間、大丈夫だと思います。人ごみもあって、そう簡単には追いつかれないはず。今の内に作戦を練りましょう」
「そ、そうじゃな。ところでリオン」
恐怖を振り払うようにしてココロは話を振る。
「そのプログラムから察するにお主は【強化改竄者】かの?」
「ええ、そうですね。私のメインプログラム【憧憬武鎧】は強化改竄系統、【強化改竄者】で間違いないです」
プログラマーはそのメインプログラムによって七種類の系統に分けられる。
【強化改竄者】【製作者】【操縦者】【空間干渉者】【物質干渉者】【武装者】【固有干渉者】の七種で涼穏のような身体能力への改竄を行うタイプは【強化改竄者】となる。
「私がお姉ちゃんに追い付く為に――その思いで手に入れたプログラムです。このプログラムで貴方を守りますから安心して下さい」
「……姉上か。先程は」
「ええ、分かっています。実のところ私の姉は一ヶ月前に失踪しています」
涼穏は端的に事実を述べた。
その表情は平静を装っているが、それが辛い事なのは先程の反応と、そして涼穏の姉に対する語り口を見ても明白だった。
「理由は……分かりません。切っ掛け、みたいなのは思い当たりますが結局のところ、お姉ちゃんはどうして居なくなってしまったのか、それは私にも分からないんです」
「お主に分からぬ以上、それを追求しても仕方の無いことじゃが……。とは言え会ってみたいものじゃがのう。お主の姉上は素敵な人物に違いない」
「会えますよ、近いうちに。そんな気がするんです」
それは希望的観測には違いなかったが、涼穏はそれを信じていた。
「私がお姉ちゃんに追い付いたとき、お姉ちゃんはまたひょっこり帰ってくるって。お姉ちゃんは結構大胆な人でしたから。きっと何処か旅行に行っているだけなんです」
「そうじゃな。そうじゃろう」
「はい、そうです」
そうは言いつつ、涼穏は喉に引っかかる物を感じていた。
何故この事を御堂と名乗る男は知っていたのだろうか。
涼穏の姉、志燎真緒についての失踪を知る者はそう多くは無い。まだ失踪して一ヶ月。学校へは休学と言う事になっている。警察への連絡は済ませているものの、それが事件性を帯びて表向きになっている訳でもない。
知っているのは両親及び教師と執行部第九支部の面々くらいのものだ。無論、一ヶ月の休学によって様々な噂は立っていると耳にしたが、それも確かなことを言える訳では決して無い。
もしかすれば御堂は姉の居場所を知っている……、涼穏がそう考えるのは自然な事だった。
しかし、今はココロを連れている。涼穏一人ならいざ知らず今無茶をするのは難しい。現状最優先されるのはココロの警護だ。
涼穏は逸る気持ちを抑えてもう一つの疑問をココロに尋ねた。
「エレクトール教授、その先程の話なんですけれど……【ランクS】のプログラムとは……」
本来、『プログラムランク』と呼ばれるランク付けはランクAからランクEまでと定められている。その意味合いは『ユーザーランク』との適正を以って位置づけられているものであり、要するに【ランクS】などと言うプログラムを涼穏は寡聞にし聞いたことが無い。
ココロはその問いに対して諦めたかのように息を吐くと口を開いた。
「まあ執行部であるお主には話しても良かろう。プログラムにはそれぞれランクが定められておるが、それとは別に【ランクS】と呼ばれるプログラムランクが極秘に存在しておる」
「極秘……」
確かにそんなランクの存在を涼穏は聞いたことが無かった。
「ただ、【ランクS】だからと言って例えばランクAより優れたプログラムと言う訳ではないのじゃ。言ってみれば、そうじゃな……ランク外みたいなもの。ランクに当てはめる事が出来ない逸れプログラム、それが【ランクS】プログラム。その一つとして定められたのがココロの作成したプログラムなのじゃ」
「エレクトール教授は情報圏の内、精神的階層の発見を為さったとお聞きしていますが、それと関係が……?」
「鋭いのう、リオン。とは言えココロから言えるのはここまでじゃ。これから先はシンポジウムでのお披露目となるのでのう」
「――――いえ、シンポジウムでのお披露目はなりません」
背後から声が聞こえた。涼穏とココロは同時に振り返る。
「何故ならエレクトール博士はここで私に同行して戴かなくてはなりませんから」
「貴方は――――」
そこに立っていたのは御堂正巳だった。信用の置けない作り笑いに喪服姿。
その奇妙な格好と顔は間違いよう筈が無い。無いが……、
「どうして、いや違う――――そこに、どうやって、どこから?」
涼穏がこの場所に逃げ込んだ理由の一つに入口を限定される事が上げられる。
涼穏のプログラム【憧憬武鎧】は一対一では無類の強さを誇るプログラムだ。よって奇襲を受けない限りそう簡単に負ける事は有り得ない。涼穏はそう踏んでいた。
だが御堂は背後に居た。一ヶ所である入口、屋上へ繋がる扉を見張っていたにも関わらず。
普通ならこの扉を使う以外の方法で涼穏の背後に立つ事は不可能。ならば、
(これが御堂正巳のプログラム……?)
何かしらの戦術プログラムを使用したとしか考えられない。
「驚いているようですねえ」
御堂は眼鏡の弦を撫でた。レンズの奥の目が何処か笑っているように見えた。
「どうです? 今もまだ貴殿のプログラムは起動を続けているのでしょう? どうぞ私のプログラムを見定めてみては如何でしょうか?」
「待て、リオン! こやつの口車に乗ってはならぬ!」
ココロの言う事は尤もだ。御堂は涼穏のプログラムの能力の一端を見ている。それを踏まえた上で挑発しているのだ。何か策があるのは必然。
しかし涼穏には時間が差し迫っていた。【憧憬武鎧】の起動持続時間は既に十分を回っている。【干渉時限】と呼ばれるプログラムの起動限界時間について【憧憬武鎧】は長い方ではあるものの、それでも十五分が限界だ。それを過ぎれば一度再起動を余儀なくされ、その間【憧憬武鎧】の起動は不可能。サブプログラムが無い訳ではないが、メインプログラムより性能は落ちる上、得体の知れない相手にメインプログラム無しで挑むのは不利。
よって五分以内に態勢を立て直すか、はたまた形勢を有利に持っていく必要がある。
(いや……、【憧憬武鎧】は弱点の少ないプログラム、下手に様子を見るよりここで一度仕掛けて相手のプログラムを見極めるのが先決……ッ)
涼穏は一度、【憧憬武鎧】の改竄情報を変更する。
(プロセス【情報干渉】――【情報取得】――各情報及び変数の確認――OK――【情報改竄】開始――肌を硬質化――OK――各筋力変数を改竄、上昇ー―OK――神経系の強化改竄――OK――【改竄保護】開始――OK――プロセス【情報干渉】の終了――これならッ!)
「いっけぇえええええええええ!!」
気合の一声と共に涼穏は御堂へと突っ込む。常人では捉えきれないスピードでの特攻、肌の硬質化によって本来身を裂くような衝撃である筈の空気抵抗も何でもない。
一歩ずつ、地を蹴る事にコンクリートが爆ぜる。凄まじいスピードが生み出す衝撃波は常人であるならば前に立つ事すら許されないであろう。
加えて涼穏は御堂が直前で何をしても問題の無いよう、一挙手一投足を観察していた。
相手との距離は既に五メートルを切っている。このまま突っ込み、そしてその衝撃を御堂がモロに受ければ、トラックがぶつかる程の衝撃が襲い掛かる事だろう。まだ御堂に動きは無い。
時が流れるのが極端に遅い――涼穏は自身が集中しているのが分かった。御堂との距離は残り三メートル弱、もしも御堂に動きがなければ涼穏は御堂を殺してしまいかねない――――一瞬の躊躇が涼穏に芽生える。
その躊躇を抱くホンの一瞬の間に御堂は――――消えていた。
「――――ッ!?」
御堂の姿を追えなかった。強化した涼穏の鋭敏な反射神経は最早野生動物にすら勝る。その涼穏が人間の動きを捉えきれないはずが無い。
「リオン、上じゃ!」
「――――頭上がお留守ですね」
頭後ろを衝撃が駆け抜けた。視界が一転し、気付けば地面を向いている事で混乱が生じる。
(硬質化してなければやられていた!)
「踊り終わるにはまだお早いですよ」
続けて右頬に衝撃が加わった。次いで左頬を打たれて視界が往復する。
「この……ッ」
右腕を大きく横に振るった。しかし空を切り裂く音だけが空しく響く。
「ふふ、外れです」
その声を聞いた直後に顎を打たれる。衝撃が何重にも重なった。視界が何度も揺られ、シェイクされる。涼穏はよろよろと二、三歩よろけた。
「ぐッ……」
吐きこそしなかったものの撹拌された視界の影響を受け、涼穏は酔いを起こした。
「まるで鉄……折角の柔肌が台無しです……が、やはり三半規管まで強化するには至らない……。それが貴殿の弱点です」
「分かった……貴方のプログラム、――――瞬間移動」
「ご名答。私のプログラムは【瞬間旅行】、瞬間移動プログラムです」
「【空間干渉者】……厄介な」
ココロが下唇を噛んだ。空間に干渉するタイプのプログラマー。御堂正巳はそれに該当する。
「貴殿のプログラムはとても厄介で、且つ弱点が少ないように見受けられる。とても優秀……、しかしながら私のプログラムとは相性が悪い。何せ私は貴殿の拳が私へと届く前に位置を自由に変えられる。それでは貴殿のその鉄板を貫かんばかりの一撃も意味を成さない」
御堂は不適に笑った。涼穏は理解していた。この状況――涼穏が態勢を崩している今、御堂が畳み掛けないのは自身の圧倒的有利を理解しているからだ。
「志燎様の選択は決して間違ってはいなかったでしょう。この屋上へ逃げ込んだのもここから飛び降りて逃げる事が出来る、そう考えての事。しかし、私が居ればそれは不可能。もしもここから飛び降りて逃げようとすれば私は瞬時にその姿に追い付き、地面へと叩き落す。更に言えば私のプログラム【瞬間旅行】の【干渉限界】は少なくともこの屋上を覆い尽くす。何処へ逃げようとも私は追い付く……。つまり貴殿の判断は裏目に出たと言う事です」
「…………ッ」
半ば予想はしていたが、【干渉限界】――御堂のプログラムの情報干渉有効射程距離はこの屋上全域に及んでいるらしい。こうなっては圧倒的に涼穏の不利。
拳が当たらなければ涼穏の【憧憬武鎧】は全くの無力。拳銃を前にして拳を振り上げるが如き無謀。持っている武器の質が違うのだ。
「それではエレクトール博士。ご同行をお願い戴けるでしょうか?」
御堂はココロに向かって丁寧に頭を下げて見せた。
「よく考えてみて下さい。私がその気になれば【瞬間旅行】を用いて貴殿を連れ去っても良いのです。私のプログラムならば楽に逃げ切れる。しかしそうしないのは飽くまでも貴殿の自由意志を尊重しているから。私は飽くまでも紳士的なお願いをしているに過ぎません。ご決断を」
「……仕方あるまい。同行す――――」
「待って下さい」
ココロが了承する寸前、涼穏はその言葉を遮った。
「私はまだ降参するつもりはありません」
「おや、ここまで実力を見せてもまだ勝てる気で――――なッ」
御堂の表情が一瞬にして曇る。瞬時に懐に飛び込んでみせた涼穏に初めて焦りを覚えた。
コンマ数秒。御堂のプログラムが先に発動し、涼穏の一撃から辛くも逃れる。
「まだそんなスピードが……」
「言った筈です。まだ負けたつもりはありません」
涼穏と御堂では持っている武器の質は違うかも知れない。同じ一歩でも象と蟻とでは大きな差が生じる。銃と拳で撃ち合えば先に倒れるのは火を見るよりも明らか。
ただ涼穏の拳はボクサーをも超える一撃だ。鍛え抜かれた拳は時に拳銃の一撃をも凌駕する。
(一撃に最大の重みは入らない……ッ。変数の改竄に使っているリソースをスピードに割けばあるいは私の【憧憬武鎧】なら瞬間的な移動も可能になる)
加速――加速――加速。更に涼穏は御堂のプログラム【瞬間旅行】の特徴を見抜いていた。
御堂のプログラムの再起動には一秒から二秒の隙が生まれている。
つまり御堂のプログラム起動の瞬間を見切り、次の移動先へ瞬時に移動し、その先を叩く。
強化された涼穏の動体視力と反射神経、そしてスピードなら不可能な事ではない。
(可能だ……きっと。私の【憧憬武鎧】は『瞬間』にも届き得る)
実際、涼穏の動きは徐々に洗練されていた。何度となく御堂の身体を涼穏の拳が掠る。
「なんてスピード、ここまで追い縋るとは……」
御堂の頬に一滴の汗が流れる。彼は恐怖した。
志燎涼穏と言う少女の持つその類まれなるポテンシャルに。
「もう少し――――」
その時だった。御堂に追い縋るべく、足場にしようとした金網――屋上と空中とを別つ境界線――が涼穏の猛スピードに耐えられなかったのか鋭い金属音を残し外れた。
屋上が立ち入り禁止だったのはこの為だったのだ。老朽化による金網の交換。
更に不運な事に涼穏のプログラム【憧憬武鎧】の干渉時限がここで訪れる。
再起動に掛かる時間は約一分。十五分もの起動時間を維持する為に仕方の無い事とは言え、ここでは命取りだった。
「リオン!」
ココロがこちらに向かって叫ぶのを涼穏は目にする。
(きっと今の自分は間抜けな顔をしているでしょう)
そんな事を冷静にも思いながら涼穏は外れた金網と共に重力の重みを感じ、現実から目を背けるようにして目を瞑った――――
「――――危ねぇな、大丈夫か」
――――声が聞こえた。最近、耳にした思わず苛立ちを覚えてしまう声。
感じるのは空中落下の浮遊感でも、地面へと叩きつけられた衝撃でもない。
左手を握る僅かだが暖かな肌の温もり。
「……。何処に行っていたんですか」
「ご挨拶だな。普段人にああだこうだと言っている癖に立ち入り禁止の屋上に出入りした上に金網突き破っているとか意外と面白い所があるんだな、お前」
「誰がですか……ええと、出来ることならさっさと引き上げて下さい。……ニート先輩」
涼穏の手を握っているのは誰であろう一先ずのパートナーである新戸遊祉だった。