第三話
それから一時間が経った。時刻は午後二時くらいだろうか。
遊祉はモノレールの座席で揺られていた。
モノレールの車内は休日にも関わらず空いている。休日だと言うのに運が良い。
しかしながら、不機嫌そうな表情を浮かべる涼穏は遊祉から少し離れるようにして吊り革を掴んでいた。
「空いてるんだから座ったらどうだ?」
「気安く話しかけないでくれますか、ニート先輩」
話しかけられるなり涼穏は吐き捨てるように言い放つ。
よく見ると吊り革に掴まる為に背伸びしていた。
「それ、疲れないか?」
「生憎ですがニート先輩のような軟弱な方とは違うんで――」
言い終わらない内に足元がぐらついた。足がぷるぷると震えている。
「……。もしかして足吊ったのか」
「そ、そんな訳ないじゃないですか」
強がってはいるが、目元が若干涙で濡れている。
なにが彼女をそうまでして奮い立たせているのだろうか。
遊祉は溜息を吐いて彼女の隣に立った。
「な、なにをしているんですか」
「なんだか立ちたい気分になっただけだ。並んで立つのが嫌なら座れば良い」
「ふ、ふん。別に私は立ったままでも良いですけれど、ニート先輩と一緒に並ぶなんて耐え切れませんからね。貴方が立ちたいと言うのなら私は座るしかありませんね。仕方ないですね」
言い終わるや否や涼穏は震えた足から崩れ落ちるようにして座席に座った。
これから人と会うと言うのにこの調子で大丈夫なのだろうか。遊祉は肩を竦めた。
事は一時間前。ジャージ姿の女性が執行部第九支部の事務所に現れた時から端を発する。
「あの、どうしたんですか?」
真理は女性が落ち着いた頃合を見計らって何事か尋ねる。
大粒の涙をぼろぼろを流し続ける女性は嗚咽を漏らしつつも、徐々に落ち着いていった。
「さすがは久慈川先輩。あの紫苑寺先生の扱いにも慣れてますね」
遊祉の横で涼穏が感心するように呟く。
この涼穏の言い草、どうもこの人は厄介な人として認識されているらしい。
「紹介するわね。こちら、この執行部の監督役を務めて下さっている紫苑寺メメ先生よ。普段は情戦特区で臨時の講師を引き受けて下さっているの。専門はメモリ開発」
「……よろしくね」
どんよりと曇天のような表情でメメは挨拶をする。
「えっと、うんと……。それで、そちらの子は誰なのかな? 初めて見るけど」
メメは真理より渡された御茶をゆっくりと飲み干しつつ、遊祉へと視線を合わせる。
「こちら天上院教授の紹介で暫くの間、ここでお手伝いをして戴く事になった新戸遊祉君です」
「……天上院?」
「天上院千詠教授ですよ。ご存知ですか?」
「ええ、知っているわ、有名だもの。そうなの。天上院、先生の紹介で……」
天上院千詠の名前を聞いたところでメメの表情に曇りが差した。
(さすがは千詠先生。講師陣にもその悪評は伝わっているのかね)
遊祉は千詠の変人奇人ぶりが同僚達にすら伝わっている事に若干の恐怖を覚える。
「それで。一体何があったんだ、メメちゃん」
「あ、そうなの! 聞いて、深義君!」
椅子に座ってお茶を飲んでいたメメはガタリと立ち上がる。
しかしその拍子に湯飲みが中に入っていたお茶ごと床に落ちた。幸い湯飲みは割れずに済んだが、お茶が床へと広がる。
「あ、ご、ごめんなさい!」
「良いんですよ、先生。私が拭きますから」
「うう……、久慈川さんいつもありがとう。あとごめんなさい。わたし、ほんとドジばっかりで……。今回の事も……うぅ」
「それで。メメちゃん、そろそろ本題を話してくれないと陽が暮れちまうぜ」
「あ、そっか。ごめんね、深義君」
(この人と言い千詠と言い……。ここの人達はどうしてこうバラエティに富んでいるのか)
遊祉は憩心に放っておけば永遠に頭を上げ下げしていそうなメメを見て、そう思った。
「実はね、今度開催されるシンポジウムの事で色々相談されちゃって」
「色々、とは?」
「……うん」
憩心の疑問にメメは言葉を濁す。その横で遊祉は疑問を口にした。
「志燎、シンポジウムって何?」
「馴れ馴れしいですよ……ってニート先輩、それ本気で言ってます?」
まるで最下位だった占い番組でも見るかのような顔で涼穏は尋ね返す。
「そんなに大変な事なのか、そのシンポジウムって奴は」
「ニート先輩の無知さこそが本当に大変な事だと私は思いますけれど」
涼穏は呆れた様子ながらシンポジウムについて説明を始めてくれた。
「シンポジウムと言うのは再来週の週末に迫った戦術プログラムに関する研究発表会の事ですよ。開催は五年目となりますが年々規模が増してきていて、今回もまた規模を拡大して開催するとの事です。戦術プログラムについてのみならず情戦特区への一般的な理解を高めるとして注目されているんですよ」
涼穏はその後も更に詳しく教えてくれた。
総合するとシンポジウムとは戦術プログラムへの専門的且つ一般的な周知を目的とした研究発表であり会場は第十一地区にある建設されたばかりの情報戦術技能特区総合文化センターで行われるとの事だ。
第十一地区と言えば現在でも開発が盛んに行われている地域で、総合文化センターを中心として地域全体の活性化が行われているとかいないとか。
遊祉がそれを知っているのは千詠が開発に携わるよう要請があった際、それを「面倒」の一言で切って捨てた事を横で見ていたからだ。予想するにこのシンポジウムは活性化についての一環と言う事だろう。
「成程。そんな事がねぇ」
「本当に無知なんですね、ニート先輩は。全く、やれやれですよ」
涼穏は無知の恥を知らしめるが如く深い溜息を吐いた。
「ま、シンポジウムって奴はつまりはそういう催し物だ。それらには俺ら執行部は当然、講師陣も協力している。大方、メメちゃんのその大変な事ってのはそれに際した事なんだろう?」
「う、うん。実はそうなの……」
メメは観念したように項垂れた。
「実はね、シンポジウム開催までとある研究者の警護をこっちで頼まれちゃって……」
「警護? 俺達が? そりゃ正規部隊の仕事だろ。どうしてだよ」
「うんと、えっとそうなの憩心君。私もそう言ったんだけどどうしてもって、言ってね……うぐ、ひっく……こ、断りきれなかったのお」
メメは泣きながらその後も説明を続ける。
聞けば元々は正規部隊で引き受けていた仕事であったそうだが、どうにもシンポジウムに向けて人員不足であった事から仕事の少なそうな場所から人員を削減、その分の仕事を執行部に任せる事としたらしい。
そのどうにも強引な仕事の押し付けには遊祉で無くとも頭を抱えたくはなっただろう。
「かか、こりゃあちらさんも無理言ってくれる。要人警護なんて問題が起こりえない事こそがデフォな仕事をどうしてこっちに回してくれるんだかね」
「ご、ごめんなさい――――――」
メメは両手で顔を覆った。憩心が「しまった」とばかりに苦笑いを浮かべて頬をぽりぽりと掻く。
「ま、押し付けられた仕事であっても一度引き受けた以上、こっちで何とかするより他に無いか。涼穏、遊祉」
「はい」「ういっす」
憩心の呼びかけに涼穏と遊祉両名は答える。が、気の抜けたような返事をした遊祉は涼穏に足を踏んづけられた。
「この案件、お前らに任せた。ちゃちゃっと行って何とかして来い」
それから一時間が経ち、遊祉と涼穏は警護対象と落ち合う為、モノレールで移動していると言う訳だった。
「あのさ、お前らっていつもこんな感じなのか?」
「……こんな感じって何ですか」
座席に座った涼穏は睨みつけるようにして遊祉を見遣る。顔がムスッとしていなければその上目遣いは可愛いものだったかも知れないのになあ、と遊祉は何となく思った。
「いや、実際滅茶苦茶だろ。要人警護なんて学生に頼む仕事の範疇じゃねえぞ」
「……私は約二ヶ月前くらいから執行部になった新参者ですが、割とこんな感じですよ。正規部隊も執行部も人員はずっと不足しているんです」
「そんなもんかね」
「だから貴方みたいなろくでなしも駆り出される事になったんです。全く……どうしてこんな人と一緒に居ないといけないんですか」
「さあな。どっちにしろ俺の所為じゃない。俺は担当教諭に言われただけ。言わば巻き込まれた側だ」
「そういう態度が一々腹立たしいんですよ。本来、執行部は幾つかのテストを通った者でないと名乗れません。手伝いだかなんだか知りませんが貴方みたいな人は特殊なんです。それをまあ、よくもそんな風に言えますね。少しは執行部を志望した他の人の気持ちも考えて下さい」
「それについては申し開きも無いけどな」
「良いですか? 少しでも私の邪魔をしたりしたら即刻叩き出しますからね。覚悟して下さい」
涼穏はふん、と横を向いたきり遊祉とは目も合わせようとはしなかった。
それから暫くの間、遊祉と涼穏の間に会話は無かった。モノレールの車体の揺れや運行音、乗客の会話や各駅毎の乗り降りで、時間の経過を感じる。
(こんなんで大丈夫なのかね)
遊祉は例え少しの間だったとしても涼穏と一緒に居る事に先行きの不安を覚える。
(ここは少しくらい話しておくのが良いか)
「あのよ――――」
「話しかけないで下さい」
一蹴。涼穏のその完璧なまでの拒絶に遊祉は感動すら覚える。
「まあ良いじゃねえかよ。仲良くとまではいかなくとも少し話をするくらいは許してくれたって。こんなんじゃ息が詰まりそうだ」
「……しょうがないですね」
涼穏はふうっと息を吐く。やはりこいつは押しに弱い。
(とは言え、ここはこいつが喋りやすそうな話題を選ぶのが良いか)
「そういやお前って専属企業契約者だったんだな」
「……そうですよ。私は貴方と違って優秀なプログラマーなんです」
「あれだ、どこの企業と契約しているんだ?」
「……。それを先輩に言う必要がありますか?」
「良いじゃねえか。減るもんじゃねえし。それとも実は名も知られていないようなマイナー企業と契約しているとかか?」
「ば、馬鹿にしないで下さい! これでも十大企業と契約してるんですからね!」
「え、十大企業? すげぇじゃん」
遊祉はそれを聞いて目を見開いた。
十大企業とは情戦特区に置けるシェア上位十社に入っている企業の事だ。
その全てが独自の研究室を設けていて、それぞれ特徴的なプログラムを開発、販売している。
当然ながら研究室を持つ程に強大な企業であるだけにそれらと契約した契約者はとりわけ優秀、という事になる。
「どうも驚きに欠けているような気がしますが……。まあ良いでしょう」
「これでも驚いてるさ。で、どこの企業」
「本来なら教えたくはないですが……。仮とは言えパートナーです。特別に教えてあげましょう。私と契約している企業は『千菅薬品』です。さすがに知っていますよね」
「まあ、一応な」
千菅薬品と言えば情戦特区内第八位のシェアを誇る企業だ。千菅薬品自体はその名の通り医薬品を取り扱っており戦術プログラムもそれに類する身体や細胞の活性化、強化プログラムに属する事が予想出来る。つまり彼女のメインプログラムもそれと同系統である事は間違いないだろう。
「成程な。どのプログラマーに対しても一定の対処が期待出来るという点で執行部向きだな」
「さすがにそれくらいは分かるんですね。そうですよ。だから本来は私一人で対処出来る筈なんです。貴方でなくともパートナーなんて必要ありません」
涼穏はそう言って胸を張って見せた。幼児体型故に膨らみが一切見られないその胸に遊祉は密かに黙祷を捧げつつ、言う。
「そりゃ頼もしい限りだ。危なくなった頼んだぞ、俺を」
「壊滅的に頼りにならない人ですね。……分かっていた事ですが」
しかし、と涼穏は言葉を続ける。
「私だけがメインプログラムを知られていると言うのはこう、若干の不公平さを感じますね」
「何なら教えた方が良いか?」
「……、いや、やっぱり構いません。それにそれくらいの不利益、私に一切関係――――」
「教えたところで困る程、大層なプログラムなんて使えねえし」
「教えなくて結構です」
涼穏の表情が凍てついた。遊祉はどうしたのかと首を傾げる。
「いや、だって仕方ねえだろ。【パープルユーザー】である俺が扱えるプログラムなんて限られているし。『プログラムランク』の低いプログラムはしょぼいってのは常識だろ」
戦術プログラムには『プログラムランク』と言うのがそれぞれ定められている。
プログラムランクとはプログラムの扱い易さの事だ。AからEまで設定されていて、ランク毎にユーザークラスと相対している。
つまりランクAのプログラムはクラスⅤのユーザーにとって適正なプログラムと言う事になる。ランクはプログラムの大体の規模の目安にはなるので、クラスⅠの遊祉には規模の小さいプログラムしか扱えない、という事である。
だが涼穏は遊祉のその認識を否定した。
「その認識は間違っていますよ、ニート先輩。プログラムランクは飽くまでもユーザーランクに適応した数値の事であって、『改竄能力』とは別問題です。プログラムの構成次第で同じ改竄規模であってもプログラムランクDからEに下げる事は可能です。要はメモリが少ない事を理由に能力を低く見積もるのは怠慢です。ニート先輩はこれだから……」
「そうかも知れないな」
遊祉は涼穏の言い分を認めた。涼穏はそれに対し不満そうに睨みつける。
「何だ、まだ何か不満なのか」
「それを分かっていてニート先輩は何故平気で居られるんですか」
「平気でって……」
「努力すれば良いじゃないですか。いや、プログラムランクの話だけじゃない。メモリだって上げようと思えば上げられる。でも貴方はそう言う事に対して無頓着に見えます。貴方のそう言う所が私は一番嫌いなんです」
「そりゃすまないな」
「だから何で謝るんですか」
「……志燎、お前は真面目だな」
遊祉は渇いた笑みを零すと、涼穏に対してそう言った。
「でもよ、同じだけの努力をしたとしてもメモリが――才能に差があるとすれば、それはきっとお前が思っている以上に辛い事なんだよ」
「……辛い、ですか」
「ああ。きっと辛い。だって努力をすればするだけ、同じだけの努力をした才能のある奴に追い付かない事が実感出来るんだからな。それはきっと辛い事なんだよ」
「でも、……それはただの言い訳です」
「そうだ、言い訳だ。言い訳でもしないと努力をしない自分を肯定出来ないんだから仕方なんだよ。努力をしない自分を呪っているだけじゃ辛いだけだろ」
才能の前に努力をする事はきっとどうしようもなく空しい行為だ。
だって壁は大きければ大きい程、高ければ高い程、その大きさ、高さに感嘆を覚えるだけだが、その壁が近ければ人は何故か乗り越えようとしてしまう。
そしてそれが乗り越えられなかった時、きっと空しくなるのだから。
「……初めてニート先輩のまともな事を言っている気がします」
「まあ俺が努力しないのは面倒なだけだからなんだけれど」
「……すいません、気の所為でした」
「そうだろうな」
遊祉のそう言って笑っているのを見て、涼穏は表情を曇らせた。
「辛い事ですか……。……、そうだったのかな」
涼穏のその見た事の無い、しおらしい表情に遊祉は茶化す事も、話しかける事もしなかった。
代わりに涼穏が決心した様子で言った。
「でも私は努力を止めません。例え上を見上げて空しくなったとしても自分に『期待』し続けます。そうする事で私は目指すべき私に近づくんですから」
「そりゃまた、偉いこって」
「だからニート先輩も自堕落な生活は止めて努力した方が良いですよ」
「気が向いたらな」
「……。やっぱり貴方はニート先輩です。駄目駄目です」
涼穏は遊祉を見てそっと溜息を吐いた。