第三十八話
白いカーテンのような雨間、その向こう側からゆっくりと涼穏が姿を見せた。
その姿はびしょ濡れで、しかしそれを意にも介さない程に憔悴しきっている様子だった。
「りおん……?」
第三地区にあるマンション、その一室が彼女の家だ。花音は涼穏が居ない事を確認してから一階にして彼女の帰りを待っていたのだ。雨に打たれる涼穏へ花音は駆け寄る。
「かのん、……それとニート先輩、……ですか」
「おう」
まるで抜け殻のような瞳を見せる涼穏。花音の後ろには遊祉の姿もあった。
「ねぇ、涼穏、さっきのは……それに一体どうしたの? そんなずぶ濡れになって……ッ、これじゃあ風邪引いちゃうよ」
「……知っていたんだね」
「え?」
「花音。今ね、お姉ちゃんに会ってきたの」
涼穏のその言葉で花音は全てを察した。
彼女は知ってしまったのだ。そしてそれに想像以上のショックを受けている。
「お姉ちゃん、敵、なんだって……」
「…………うん」
「てきって、ねぇ、どういうこと、なんだろうね。わかんないよね」
唐突に、涼穏は渇いた笑みを見せた。
雨が彼女の頬を叩く。空虚な笑みは涙と共に彼女の感情を覆いつくしている。
あるいは――――どうしようもない感情を押し殺しているのか。
「なんで、黙ってたの?」
「……それは」
涼穏の言葉、それはまるで爆発寸前の風船を思わせた。
少しでも突けば、きっと彼女は耐えられない。
「あたし……言えば涼穏が悲しむと思って……それで……」
「そうだね、悲しいよ……ほんと、もう、ね」
沈黙が流れた。空気に押し潰されるような、そんな感覚。
「帰って」
一言、涼穏の口から発せられた言葉は拒絶だった。
「ちょっと、駄目、みたいだから……」
「涼穏、でも……ッ、涼穏は何も間違ってないよ? 本当に……」
「そんなのわかんないでしょ!」
花音へと怒号が突き刺さった。
一度決壊した堰は止まらない。怒りがとめどなく溢れた。
「わかんないよ? お姉ちゃんは敵になったって言ってたよ? もしかしたらずっとお姉ちゃんは私が嫌いだったのかも知れない! 私がお姉ちゃんに構って欲しくて頑張っていた事も、ずっと疎ましく思っていたのかも知れない! それにお姉ちゃんがキツい時、私は何も出来なかった! あの事故――過情報化識失症にお姉ちゃんが罹った時、それで執行部を追い出された時、お姉ちゃんは大丈夫って言ってたけど、そんな訳ないよね? でもお姉ちゃんの事、私はどうする事も出来なかった! お姉ちゃんにどうして良いか私、何も分からなかった! どうすれば良かったと思う? わかんないよね、でもだからこそ私が何かしなきゃいけなかった! でも何も出来なかった! だからお姉ちゃんは私の前から居なくなっちゃった! 私、きっと嫌われた、わたし、なにも――――」
弾丸のような言葉は行き場を失くして、否、何処へ行って良いかも分からず溶けていく。
彼女のその苦しみが、嗚咽となって漏れ出てくる。
「――――お姉ちゃんに何も……してあげられなかった……」
「涼穏」
「……ごめん、花音。お願い、帰って」
涼穏はそれだけ残した後、ゆっくりとした足どりでその場を後にした。
後には花音とそして黙って二人のやり取りを見ていた遊祉が残される。
「……あたし、駄目だ」
ぽつり、と。花音がそう漏らした。
「何が涼穏の力になりたいよ。……何が涼穏の為、よ」
「恋ヶ窪」
遊祉の声は彼女には聞こえていないようで、言葉の続きを花音は求める。
「あたし、なんにも変わらない。変われない。ただの、役立たずじゃない」
「お前の所為じゃないぞ、恋ヶ窪。お前は最善を尽くした」
「じゃあ!」
花音は遊祉の方へと振り向く。その眼にはたっぷりの涙が滲んでいた。
「なんで! なんで涼穏は泣いているのよ! あたしが求めたのは結果なのよ! 最善を尽くしたかどうかなんて……重要じゃないのよ……」
そう言って雨の降っている外へと歩き出す花音。遊祉は唐突に行こうとする彼女を引き止めようと、後ろをついていく。しかし、
「ついてこないで」
彼女の言葉は遊祉への拒絶だった。後ろを振り向かずに彼女は言う。
「手伝ってくれてありがと。けど、もういいの。あんたもあたしなんかに構わなくて良いわ」
「アホか。こんなんで終わったらそれこそ不味いじゃねぇか。お前はそれで良いのか? あいつを――志燎をこのまま放っておくのか」
「じゃあ、あんたが助けてあげてよ。こんなあたしなんていてもね、仕方ない、から」
「恋ヶ窪!」
制止しようとする遊祉の言葉は届かず、花音は歩き去り、白い壁のような雨の中へと消えていってしまった。
「……くっそ、どういう事だ、これ。めんどくせぇな、もう!」
遊祉は感情のままに悪態を吐くと、涼穏の去っていった先、そして花音の去っていった先、それぞれに視線を送った後、どうしていいか分からずその場で立ち尽くしていた。




