8-10. その日
もし野球をしていなければ、
私は刑務所か墓場にいたことだろう。
プロ野球選手 ベーブ・ルース
そうして一カ月が経ち、八月も中旬になった。夏の盛りである。孤児院の子供たちのゲームを見守って、ケイシーが所に帰ると、何やら棟のあちこちが騒がしかった。どうも嬉しい騒ぎのようだ。
それを横目に自分の独房に戻ったら、ジョーとマシューがいた。
「どうしたんだ? この騒ぎは」
「ふっふっふ、聞いて驚くなよ」
マシューはわざわざこのことを話しに、ケイシーの独房で待っていたのだ。
「その得意げな顔、懐かしいな」
「それは忘れてくれよ。とにかく、皆が騒いでいるのはなぜかと言うと」
「何と、このノトリアス刑務所に、メジャーリーグのチームが来るのです!」
「あ、言われた」
「お前があんまり焦らすからだろ」
いつの間にかこの二人が仲良くなっているようで、微笑ましいようなやり取りだ。
「ん? 何つった? メジャーリーグのチームが来る? そんなはずないだろ」
ケイシーはあっさり首を横に振って、どっかりと胡坐をかいた。それも当然の反応だ。
「いや、本当なんだって」
「ここは刑務所だぞ。俺たちは囚人だぞ」
「それがケイシー、本当なんだってさ」
「とは言っても、信じられねえな。何しに来るんだよ」
「もちろん試合をしに来るんだよ。ほらこの前のマウンドで、僕の弟がメジャーリーガーになったって言ったろ?」
「ああ、クリスか。確かに言ってたけど」
「そうそう。今はヤンキースの監督をやってるんだ」
「ヤンキース……? 外の新聞に載ってたような……」
「ハイランダーズって言えば分かるかな?」
「ああ! ハイランダーズか!」
一九〇三年から、マンハッタンのヒルトップ・パークを本拠地にしていたのが、ニューヨーク・ハイランダーズであった。その後一九十二年にポロ・グラウンズへ移転して、ニューヨーク・ヤンキースと改称した。ケイシーが捕まったのが一九〇五年だったので、改称のことを知らないのだ。
「そう、今はヤンキースって言うの。弟を伝手に頼んで、来てくれることになったんだ」
「え、そのヤンキースが来てくれんの? すげえな。つったって、頼めば来てくれるってもんじゃないだろ。どうやったんだ? もしかして、また何かあくどいことやったんじゃねえだろうな」
「そんなわけないだろ、心外だなあ」
「はは、冗談だよ冗談。でもまじで、なんでなんだ」
「ジミーのおかげだよ」
「ジミー?」
「ジミーがここのことを記事で書いてくれててさ、外では結構話題になってるらしいんだ」
「ほー、あいつの文才だもんなあ」
「自由の実験」が世間に知られれば、確かに話題になることは必然だ。オズ所長の得意満面が目に浮かぶ。
「それで、ジミーも試合の日は参加しに戻ってきてくれることになってる」
「ああ、そういうことだったのか」
ジミーが仮釈放になる日、また会うことになると言っていたことの意味がようやく分かった。ということは、ジミーはこのサプライズを知っていたらしい。
「あれ、もしかして俺だけ? 知らなかったの」
「いや、流石に僕とジミーと、オズ所長くらいだよ」
「そうか、安心したわ」
「驚いてくれたかい?」
「ああ、すげえ驚いたぜ。今から楽しみで仕方ねえ。日付はいつだ?」
「十月十二日だよ」
「十月十二日……。もう二カ月切ってるのか」
楽しみに心が震えるようだった。一人の野球好きとして、メジャーリーガーと同じグラウンドに立てるなんて、光栄極まりない。しかも、あの時以来、クリスと会えるのだ。何か、運命じみたものを感じる。
(運命、か……)
と思い及んで、顔を上げると、廊下にオズ所長の姿が見えた。
「あ、所長。どうしたんですか」
「ああ、ケイシー君」
気づかれてしまった、という風に一歩前に出た所長。その素振りからすると、だいぶ前からそこにいたようだ。話かけるタイミングを伺っていたのだろう。オズ所長にしては珍しい。
「いや、言いづらいんだがね」
えらく深刻な表情をしている。深刻、というより、沈痛、といった方が的を射ているかもしれない。そんな様子でも、髭と背筋がしっかり伸びて、いつもの威厳は失わない。
「言いづらいって……」
ケイシーは、何を言われるのか察しがついてしまった。覚悟はしていたことだ。
「いやいや、それでも言わなければならないことだ……」
オズ所長はため息をつく。
「……」
「いいよ。分かったから」
改めて言葉にされるよりは、頭の中で済ませてしまった方がいい。
「そうか。君の心遣いに感謝する」
「いいって」
「何とか私の権限で、その十月十二日まで、期限を延ばしてもらった」
「ありがとう。感謝する」
ここまで話せば、他の二人にも何のことだか伝わったようだ。何か言おうとするのを、ケイシーは目で制した。そして、ゆっくりと首を振る。口角も上げておいた。精いっぱいの余裕を見せられただろうか。




