8-7. 目
もし野球をしていなければ、
私は刑務所か墓場にいたことだろう。
プロ野球選手 ベーブ・ルース
次の日、ケイシーの講座が開講した。礼拝堂を教室代わりにして、テキストには聖書を使う。子供たちは、大人になってから覚え始めた囚人たちよりも、よっぽど速いペースで上達していく。
だが、子供たちが一番楽しみにしていたのは、その後の野球だった。周りの建物に切り取られた四角い青空の下、はつらつとプレイしている。野球の方は、わざわざケイシーが教えずとも、皆ルールを知っていた。普段から、どこかの街角やストリート上で遊んでいるのだろう。
「いいものですね、こういった光景は。のびのびと遊ぶのは子供たちにとって大事なことだと、実感しました。私一人では思いつきませんでしたよ」
「こういうのは、刑務所で学びました。刑務所には大人の男しかいませんけど、こうやって男の子も女の子も混じって、それに、どんな境遇の子供たちも一つのグラウンドでプレイできる。それが野球のいいところだと思います」
「最近流行っているボクシングやフットボールと違って、危なくないですしね」
牧師とそんな会話をしていると、あの少年がやってきた。
「おう、来てくれてありがとな」
来ないと言っていたのに、なんだかんだ言って興味があるんじゃないか、とケイシーは嬉しく思った。
「観に来ただけ」
少年はそう素っ気なく言うが、その目を見れば分かる。あれだけ冷たかった目に、少しだけ光が差している。
「そうかそうか、やりたくなったらいつでも言ってくれよな」
だから、あえて急かすことはしない。そうせずとも、いつの間にかグラウンドに入っている姿が想像できた。
次の日も少年はやってきて、脇の方でゲームを見つめていた。自分もやりたくてうずうずしているというのが、ケイシーには手に取るように感じられた。ちょうどそこへ、打球がてんてんと転がっていったから、もうお膳立ては十分だ。少年はそのボールを拾って、投げ返した。ケイシーが次に見たのは、打席に入る彼の姿だった。
その次の日からは、文字講座にも来てくれるようになった。ケイシーも少年たちの輪に加わって一緒に野球をやった。もちろん、食糧配りや清掃の活動も欠かさずこなす。
(もし、死刑が解けることがあるなら、こういう風に生きたい)
ケイシーがこんなことを思うのは、死刑囚になって以来初めてのことだ。思い返せば、オズが来てから、初めての経験、感情ばかりだった。
刑務所に戻る期限は、すぐにやってきた。最終日もしっかり活動を終える。まだまだできることはある、という思いはあれど、期限が来てしまったのだから仕方がない。帰るのが少しでも遅れれば、そのまま脱走したのだと疑われかねない。そうなれば、これまで積み上げたオズ所長の信頼は崩れてしまう。
子供たちと牧師に挨拶をして、来た時と同様、手ぶらで教会の門をくぐった。
「待って」
去ろうとしてケイシーを引き留めたのは、あの少年だった。
「おう、どうした?」
「僕も連れてって」
少年は泣きそうな目をして、ケイシーのズボンの裾をつまんでいる。その仕草が憐憫を誘う。
「楽しかった。帰れなくてもいい」
「そうは言われても……。そうだ、俺がどこに帰るか、言ってなかったよな。刑務所だ」
「刑務所……」
その言葉では伝わらないかもしれないと思い、ケイシーは言葉を接いだ。
「俺は、これまでたくさんの人を不幸にした、悪い奴なんだ。言ってなくてすまねえ。だから、お前を連れて行くことはできない」
確かにこの子は、このままベンドにいることを望んではいない。親もいなければ、食い扶持もない。これまで本当に寂しかったのだろう。その気持ちは痛いほど分かるが、刑務所に連れて行くわけにはいかない。心を鬼にしてきっぱり断らなければ。
「でも、ケイシーは悪い人じゃない」
「そんなことはねえ」
「ううん、目、見れば分かる」
「目?」
「悪い人じゃない。優しい目」
そんなことを言われるのは、初めてだった。親を失った時以来、生気のない、光のない、希望のない、軽蔑と闇が宿った目、と言われ続けてきたのだ。
「……でも、ダメなんだ。ごめんな」
ケイシーは心を動かされながらも、何とか言葉を絞り出した。そこに助け舟を出してくれたのは、牧師だった。
「いいと思いますよ、連れて行っても。ケイシーさんなら大丈夫でしょう」
「そ、そんな、流石にダメですよ」
「刑務所に連れて行くのはダメかもしれませんが、その近くの施設に入れてもらえば、たまに会ったりくらいはできますから」
「それは、そうかもですけど……」
「ノトリアス刑務所ですよね。近くに大きな孤児院があります。ケイシーさんに私からの紹介状を渡しておきますね。これを見せれば、問題なく入れるでしょう」
「あ、ありがとうございます。でも、オズ所長が何と言うか……」
「あの所長なら許してくれるでしょう。そういう人ですから」
「ま、まあ確かに」
結局、押し切られてしまった。少年の顔を見ると、安堵の笑みを浮かべている。これを見せられると、ここから無下にすることはできない。
「じゃあ、少年、これから、よろしくな」
「ロン」
「ん?」
「僕の名前。ロン」
「おう、ロン、よろしく」
右手で握手をする。それがほどけると、ケイシーの右手が、ロンの小さな左手を握った。グランド・セントラル駅までの道のりは、来た時よりも長く感じた。
「で、これがその子というわけか」
所に戻ると、ケイシーは門の前で事情を説明した。子供を連れて戻ってきたので、守衛がオズ所長を呼んだのである。そのオズ所長は、流石にこれを予想していたということはないだろうが、大して驚きもせずに話を受け入れた。
「ああ、それでこれが、あそこの牧師さんからの紹介状」
「確かに受け取った。しかし、所内に入れるというわけにもいかんな。日が落ちきる前に、話を付けに行ってこよう」
「ありがとう、オズ」
こういう時のオズ所長は頼もしい。牧師が言った通り、懐深くこの特例を許してくれた。そもそも死刑囚のケイシーが外出を黙認されているのも、特例中の特例である。
「よし、ロン。汽車の中でも言ったが……」
「分かってる。大丈夫」
「お、おう」
一緒に行きたいと懇願してきたときはあれほど素直だったのに、ロンは変なところで意地っ張りだ。これからは刑務所近くの施設で暮らし、たまにケイシーが様子を見に行く形になるが、心配は要らないと言う。寂しそうな素振りは露ほども見せず、オズに連れられて車に乗り込んだ。
「じゃあ、オズ所長、あとは頼みました」
「うむ」
「ロンも、我がまま言うなよ」
「当たり前」
去って行く二人を見送って、ケイシーはようやく門をくぐった。中では、ジョーたち一同が待ち構えていた。
「ケイシー! どうした? 門の前で止められてたみたいだけど」
その声を聞くと、いくらか安心する。
「ああ、変なことじゃねえさ。えーっとな、子供、連れてきた」
「は? 子供?」
呆気に取られるとは、まさにこのことだった。




