8-6. 少年
もし野球をしていなければ、
私は刑務所か墓場にいたことだろう。
プロ野球選手 ベーブ・ルース
久しぶりの社会生活に、ケイシーは知らず知らず疲労していたようだ。どっぷりと眠った後の朝は、爽やかではあれど、体は重かった。
この教会は、ベンド周りの救貧活動を行っている。大きな施設になると、孤児を引き取ったり、学校を併設したりしているところもある。ジョーが暮らしていたのがそれだ。とはいえ、この教会はそこまでの規模はない。食糧を配布することや、街頭の清掃などが、活動の中心だ。そして、それがケイシーの目的だった。
ケイシーがようやく起き出した頃には、門の前に行列ができていた。ざっと五百人は下らないだろう。その日のパンに事欠く者が、今でも相当数いるのである。他の施設は大体、チケットを配るなどして数を制限しているのだが、ここはそのやり方をとっていない。牧師の信念ゆえである。
「朝のうちに配り終えなくてはなりませんよ」
パンを配るのはあくまで活動の一部だ。本来の教会業務もあるのだから、もたもたしてはいられない。
「ですが、必ず一人に一声、掛けてあげてください。それがこの世に生を繋ぐ命綱になったりするものです」
「はい、分かりました」
ケイシーはその言う通り、次から次へと押し寄せてくる住人たちに向き合った。体が弱く働けないのだと言う者、年を取った者、そして、かなりの数の孤児たちがいた。
時間は掛かりつつも、行列は短くなっていく。そして、その最後尾までたどり着いた。
「君は、昨日の……」
最後尾にいたのは、ケイシーがベンドを通り過ぎた時に見かけた、ボロ着の少年であった。顔が煤と灰で黒くなっている。年は十歳もいかないくらいだろうか。
「昨日はごめんよ、急いでたから、何もできなくて」
「……」
少年は冷たい目をしたまま、ケイシーが差し出したパンを奪うように受け取り、背を向けて帰っていった。その背中は小さく、足取りはふらついていた。
「あまり言い方はよろしくありませんが、一人一人にこだわり過ぎてはいけませんよ。ああいう子もいます。あなたが気負う必要はありませんから」
ケイシーがずっとその少年の行く先を見つめているものだから、牧師が軽く言い慰めた。
「はい。ただ……」
ケイシーは言い淀んだ。
「……ただ?」
「ただ、僕も小さい頃、親を失って。それで、弟たちを見捨てて逃げ出してしまったんです。あの子の姿が、弟たちに重なって」
「それは、気の毒ですね……。きっと弟さん方にも神の恵みがあって、どこかで幸せに暮らしているかも、しれませんよ」
「そうだったらいいと思います。でも、僕があの子を見ていたのは、自分の罪の意識とか、ただ可哀そうに思ったというより、何か彼の役に立つことがしたい、助けるためにできることをやりたい、と思ったんです」
食糧を配り終えたら、街に出る。街区の掃除はケイシーの得意だ。小さい頃、これを仕事にしていただけあって、すいすいとこなしていける。昔よりも道が整備されたために、掃除もやりやすくなった。
「では、この辺りはケイシーさんにお任せします。私はあちらで聖書の講読会をしますので」
ケイシーはベンドの隣のチャイナタウンまで行って、ゴミ拾いをした。見慣れない男が入ってくると、住人は皆警戒するが、教会の活動だと言うと安心してくれた。
それが終わって昼過ぎには、教会の庭に孤児の子供たちを集めて、歌を歌ったり、体を動かしたりして遊ぶ。これも大事な活動だ。身寄りのない子供たちの居場所になる。
その子供たちの前で、牧師が聖書の簡単な一節を講話して、一日の活動は終了になる。子供たちは笑顔で帰ってゆく。ケイシーがあの街角に小さなダイヤモンドを見出したのと同じだ。
「そうだ、牧師さん。刑務所でやってたんですが、あの子たちに文字を教えたり、一緒に野球をしたりしてもいいですか。何かを学ぶって生きがいになるし、野球は皆の、心のよりどころになります」
「それはいいですね。しかし、野球は用具がありませんので、買わなければなりませんね」
「いえ、バットは材木の切れ端で、ボールは布っ切れを丸めればできます。明日の清掃で探してきます」
翌朝の食糧配布にも、長蛇の列ができていた。たくさんの孤児たちが並んでいるし、やっぱり最後尾はあの少年だった。
「おう、今日も来てくれてありがとうな。そうだ、明日っからここで皆で勉強とか、野球とかするんだけど、良かったら来てくれよ」
その呼びかけは、少年の耳には入ったようだったが、答えは返ってこなかった。ケイシーも、はじめから聞いてもらえるとは思っていない。
その日の清掃は、イタリア人街に行った。ここなら、どこがゴミ捨て場だとか、どこに何屋があってこういうゴミが出やすいとか、ケイシーには分かるのだ。
「ふう、材木を探すならここだな」
建築資材屋だ。潰れずに営業が続いていて助かった。その裏には、売り物にならなくなった切れ端が無造作に捨てられている。
その次はボールだ。もちろん布切れでも構わないが、できればボールに近いものが良いだろう。活動の本分であるゴミ拾いもしっかりこなしながら、腰をかがめてベンドをうろついた。ゴミと言っても、住人の生活には使えそうなものが見つかる場合もある。そういうものは回収せずに、見つけやすいところに置いてやる。
だが、ボールらしいものはなかなか見当たらない。そうこうしているうちに、日が高く昇って、教会に戻らねばならない時間だ。しょうがない、適当な布切れを使うしかないか、と折り合いをつけた時、背中から声を掛けられた。
「お前、ここの人なの」
初めて聞く、冷たくぶっきらぼうな声に振り向くと、あの少年がいた。
「お、おう。確かにここで育ったけど、なんで分かったんだ」
「ゴミ。使えるかどうか分かるのは、貧乏人だけ」
「ああ、そういうことか」
言われてみれば、確かにその通りかもしれない。
「何探してるの」
「野球のボール。明日から使おうと思って」
「ボールね」
そう言って少年は、路地裏の方に引っ込んだ。しばらくして戻ってくると、手にはまさしく野球ボールを持っている。
「はい、これ」
少年はそのボールを差し出した。
「え、良いのかよ。ボールなんてなかなか見つからないだろ」
「いいよ。使わないし」
「そんな、ありがてえけど。どうして急に、俺のこと」
「ベンドの人に悪い人はいない。みんな本当は良い人」
と言って、少年はボールを押し付けるように差し出してくる。
「分かった。ありがたくもらうぜ。せっかくだから、明日教会に来てくれよな。皆で野球やろう」
ケイシーはボールを受け取りつつ、少年の肩をぽんぽんと叩いて誘った。でも、少年のぶっきらぼうな口調は変わらない。
「行かない。野球、興味ないし」
それだけ言い捨てて、路地裏の方へと走り去っていった。きっとその奥に、少年の暮らしている場所があるんだろう。ケイシーは頷きながら、教会に戻った。




