8-4. ホームに帰れば……
もし野球をしていなければ、
私は刑務所か墓場にいたことだろう。
プロ野球選手 ベーブ・ルース
仮釈放の日は、あいにくの雨だった。霧と区別がつかないような、細かい雨。かといって、ケイシーの心は沈んでいない。
「よし、行ってくる」
そう言うケイシーに、手荷物は一切ない。この日までに所内で稼いだ一週間分の生活費と一枚のメモが、支給された新品の衣服のポケットに入っているだけだ。
「どうか、ご無事で」
わざわざ所の門まで、仲間たちが見送りに来ている。
「たかが一週間だぜ。心配は要らない」
「色々と外の話聞かせてくれよ」
「ああ、もちろん」
拳を握って、胸を軽く叩く。そして、刑務所の内外を分ける黒い線を跨いだ。この線を越えるのは、実に十年ぶりだ。
感慨に浸る間もなく、ケイシーの後ろでぎぎぎっと鈍い音がした。看守たちが、門を閉めているのだ。わざわざ振り返ることはしなかった。一人になるのも久しぶりのことである。
ポケットからメモを取り出した。
(よし、行くか)
そのメモに書かれているのは、オズ所長から教えてもらった住所と行き方である。やりたいことを伝えたら、オズ所長が自分の縁のある所から色々と調整してくれた。その住所にあるのは、一つの教会である。
ノトリアス刑務所の近くにある駅から汽車に乗って、マンハッタンに向かった。汽車の乗り方さえも、十年ぶりだから手間がかかった。ハドソン川に沿って南下していく。汽車の車窓から見る景色は、十年前とさほど違いはない、だだっ広い緑の丘陵だ。多少開発が進んでいるはずだが、言われなければ分からない程度である。
だが、マンハッタンに近づくにつれ、大きな変化が認められた。旧来の都市部から人が溢れ、家屋が増えている。どうやらこの十年間も、ニューヨークは世界の中心として、発展を続けていたようだ。夏の盛りを迎えた植物たちのように、高層ビル群はその背を伸ばし、新たな種も蒔かれているのだった。
世界の中心のそのまた中心、グランド・セントラル駅に到着した頃には、雨も上がっていた。
「ふぁーあ、体が固くなっちまった」
大きくあくびと伸びをして、ケイシーは駅舎を出た。ここから目的地まではさほど遠くなく、少しくらいビルが増えていたとしても、慣れた道であることには変わりない。
一時間も歩かずに、ケイシーの育った場所、ベンドに着いた。革新主義の時代に入って、ここにも改革の手が伸びてはいた。ベンドの名の由来になった、曲がりくねって入り組んだ道は、ニューヨーク流の直線的な道路に様変わりしていた。テネメントは明らかに数を減らし、代わりに少し見栄えの良い公営住宅が建ち始めていた。下水溝が整備され、そこら中にいた浮浪者が目に見えて減っている。彼ら全てがこの公営住宅に住めるはずはなかろう。どこへ消えたのだろうか。そして何より、ケイシーがいた組織のような、マフィアのどす黒い臭いがかなり薄くなった。
だが、そんな改革があっても、住人たちの様子はさほど変わっていない。相変わらずゴミを漁る者がいたし、泣き叫ぶ子供たちと何度も目が合った。ある子は、支給品の身ぎれいな服を着たケイシーを見て、恨みがましい目で見つめてくるのだった。明らかに「よそ者」と見られているのだ。それも、わざわざ貧民窟に冷やかしに来た「向こう側の」人間だと。
ケイシーはボロ着のその子に申し訳なく思ったし、何とかしてやりたいとも思ったが、今はそれを見咎めている場合ではない。居心地が悪くて、足早にベンドを抜けた。その子らのことを考えるなら、目的地に急ぐのが先決だ。
「ああ、ここか」
ベンドを出るとすぐ、目的地があった。何の変哲もない、少し大きめの教会である。一つ特徴があるとすれば、建物が新しいということくらいか。それもそのはず、ケイシーが住んでいた頃には、このような教会はなかったのである。
白くて角ばった建物の、正面にある扉を開け、中に声を掛けた。
「やあ、ケイシーさんですね」




