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フェンス・オーバー ―刑務所からの場外ホームラン―  作者: kunikida-evans
第6章 自由になる方法

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6-9. 希望の船

生きるとは呼吸することではない。    

行動することだ。            

哲学者 ジャン=ジャック・ルソー

 季節が冬になると、日が沈むのが早くなる。ニューヨーク州北部のノトリアス刑務所には積もるほどの雪さえ降るから、野球の時間はどうしても短くなっていった。


 代わりに時間が割かれるのは読み書き講座だ。講師はケイシー、クーニー、フリン。受講者は、四十二番とジョー、だけではなくなっていた。文字を知らない囚人はかなり多く、野球をしながら講座の話題を出すと、ぜひ教えてくれと殺到したのだ。一度でいいから親に手紙を書いてやりたい、とか、子供の頃から学校に行ってみたかったんだ、など、理由は様々であった。ケイシーの方とて、断る理由はない。少し大きめの空き部屋に場所を移した。しばらく使われていないようなのに、やけにこぎれいなのは不思議だが、ありがたく入らせてもらう。


 教材には、リトル・ジョンたっての希望で、共和国新聞を用いることにした。リトル・ジョンからすると、せっかく書いて配っても読み手が少なく、甲斐がないのであった。できるだけ読みやすいように簡単な文章で書いてあるから、教材としてはぴったりだ。ついでに、共和国の制度にも直接触れられるようになる。文字が読めないと、口伝えか何かに情報を頼ることになり、マシュー一派に言いくるめられやすくなってしまうから、それを防げるのは囚人たちにとって大きな得だ。


 一歩進んでいる四十二番は、簡単な共和国新聞ではなく、自分の本を読み進めている。時たまケイシーに助けを求めるが、見るところもう半分以上読み終えていて、毎度のことながら驚かされる。


 ジョーの方は勉強は苦手で、野球のときとは打って変わってしんなりしている。だが意欲はあるから、いずれ読み書きもできるようになるだろう。


 総じて、囚人たちは皆熱心に学んでいた。野球の後は握力が落ちて、手がプルプル震えながらも、夢中になって勉学に励んでいた。


 ケイシーにとっては、初めて得た生き甲斐のようなものだった。この社会での役割と言ってもいいだろう。仕事のためにクーニーやフリンから教わった読み書きの力が、こんな形で活きるだなんて、思いもしなかった。


 低い太陽よりも、積もった雪に反射する光の方がよっぽど明るく感じられるような、真冬の時分。いつもの読み書き講座は、そんな寒さにも負けず盛況だった。むしろ、人数が集まっている方が暖かいので、参加者が増えたくらいだ。和やかな空気の教室には、ヤマアラシのジレンマは関係ない。


 とはいっても、寒いものは寒いのだ。

「暖房くらい欲しいよなあ」

 囚人たちは身を寄せ合いながら、多少の愚痴を呟いていた。

「せめて蝋燭一本くらい寄越してくれてもいいよな」

 この寒さを去年まではどうやって堪えていたのか、今になってみれば不思議だ。少し厚手の冬季用囚人服が支給されるだけなのは昔と同じ状況なのに、なぜだか今年は耐え難い。今季は例年よりも気温が低いのだろうか。雪の積もり具合を見る分には、去年と変わらないのだが。


 天気に不満を言っていても、日が差してくれるわけではない。自然と不平の対象は移っていった。

「マシューの奴は今頃ぬくぬくしてやがるんだろうな」

「こないだ奴の取り巻き連中の独房を覗いたら、ポータブルストーブがあったぞ」

「はーあ、なんであいつがリーダーやってんだろ」

 季節が厳しくなるにつれ、そしてマシューの専横が進行するにつれ、文句の声は大きくなっていた。


 そんなある時だ。教室にリトル・ジョンが飛び込んできた。野球をしているおかげで少し脂肪が落ちたが、まだまだ脂の乗った体形をしている。

「おい! これを見ろ!」

 手には新聞の原稿を持っていた。普段はこれを印刷して配っている。

「なんだ? そんなに慌てて」

 間近にいたフリンが悠長に受け取ったが、みるみるうちに顔が険しくなっていった。

「なんだ、俺にも見せろ」

 クーニーがぶんどる。

「おい、読み上げてくれよ」

 囚人の一人が当然の文句を口にする。

「ああ。要約するとだな。……マシューは俺たちを解散させたいらしい」

 怒りにわなわな震えつつ、クーニーが絞り出した声に、仲間たちは席を立った。

「どういうことだ、読ませろ」

 彼らがたどたどしくも解読した内容はこうだ。ケイシーたちが開いている講座は、質が低劣であるため、共和国が確固としたカリキュラムを用意する。そこでは共和国市民としての正しい資質を教え込む、とのことだ。また、同様の理由から、野球を含めたあらゆる娯楽は共和国が管理し、認定を受けたグループ以外は活動を禁止する、とも記されていた。


 これもやはり、正当な風を装っている。しかしながら、実情はマシュー一派による締め付けの強化であろう。中でも、ケイシーたちのグループを狙い撃ちした施策であることは疑いようもない。


 事情が飲み込めると、教室は一気に騒がしくなった。

「あいつら、俺たちのちっぽけな楽しみまで奪う気かよ」

「どうして俺たちは目の敵にされてるんだ?」

「邪魔なんだろ、俺たちが知恵をつけると、あいつらの思う通りにやりづらくなるからな」

 そんな考察の通り、マシューたちにとって、囚人たちが何かしらを学び、成長していくのは不都合だった。ジョーがいい例だ。読み書きのできなかった彼は、前回の選挙では大して何も考えず、感情のままに投票していた。個人的な因縁からマシューに投票しなかった彼はともかく、そういう囚人の方が操りやすいに決まっている。つまり、読み書きのできる囚人が増えたら、一年後の次回選挙はマシューらにとってやりづらくなる。


 不都合は選挙のことだけではない。賭場で借金を負ったあの男が言った。

「そうだ、俺だって訳の分からない紙にサインをしたら、いつの間にやら借金漬けに……」

 同意書か何かを書かされたのだろうが、読めなければいくらでも騙せてしまう。そんな日常生活の隅々から、囚人たちの間でマシュー一派への不満は溜まっていた。

「刑務所に来てまでこんな惨めな思いは、もうたくさんだ!」

「こうなったら、あいつらに分からせてやるしかねえ」

 憤った囚人が口火を切る。もはやこの場は、革命前夜の様相を呈していた。

「そうと決まれば、早速奴に殴り込みだ」

「俺たちの力、思い知らせてやる」

 それを見ながらケイシーは、怒りの感情は共有しつつ、その暴走だけは止めなくてはいけないと考えを巡らせた。この意気のまま殴り込みをかけて、喧嘩でマシューを潰してしまうことは容易い。しかし、そんな力の論理は、マシューの持ち込んだ金の論理と同じくらい醜悪である。その後の統治だって上手くいくはずがない。そうなれば、せっかく手に入れた囚人たちの共和国は崩壊してしまう。

「待て皆、聞いてくれ」

 ケイシーはさして大きな声を上げたのではなかったが、その迫力に教室は静まり返った。

「皆の気持ちは痛いほど分かる。俺もあいつが憎くてしょうがねえ。でも、ぶん殴って言うこと聞かせるんじゃあ、やってることはあいつと変わらん。俺たちが外でやってきたことと同じだ」

 この場の一人一人に言い聞かせるように、ケイシーは語った。「自由の実験」が始まった日の、食堂での演説を思い出す。あの時は、四十二番の言葉をただ大きい声で伝えただけだった。でも今は、ケイシー自身の言葉で話すのだ。

「俺たちは俺たちなりの、正しいやり方で戦わなきゃだめだ。力だけじゃない。他にもやり方はいくらだってある。ほら、せっかく字を練習してんだ。拳を使わなくても、もう俺たちは自分の考えを伝えられるじゃないか」

 この教室にいるのは、ノトリアス所の千五百人のうち、わずかに十人ちょっとに過ぎない。マシューらに対抗するには、ケイシーたちだけが大声で喚いても効果は今一つだ。囚人たち全員が一つの理想を目指さなければ、この船はどこかで座礁する。


 ケイシーの言葉は皆の心を掴んだようだ。一様に頷いて、連帯を示している。


 その時、四十二番が手を挙げた。ケイシーはそれを見て、湧き上がるような喜びを感じた。彼が何を言いたいのかが伝わり、それが今や叶うようになったということへの、感慨である。

「では……、私に先陣を切らせていただけませんか」

 周りの囚人たちも、文句一つ言わなかった。

「私の言葉で、私の……、いえ、ここにいる皆の考えを伝えたいのです」

 誰一人として、わざわざ口を開いて賛成を述べる者はなかった。自然と巻き起こった拍手が、その役目を果たしたからだ。


 ケイシーは、勇気ある男の手を取って、固く握手を交わした。四十二番の誇らしげな笑顔は、彼らの勝利を予見するものだった。

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