6-7. 不満を力に
生きるとは呼吸することではない。
行動することだ。
哲学者 ジャン=ジャック・ルソー
ケイシーは野球や文字の指南をしつつも、自分に課されている労働は日々こなしていた。この日はスロイドを割り当てられていた。スロイドとは家具製作の一種で、製品を作って売るだけでなく、手を動かすことで教育的な役割も兼ねている作業だ。まさしく手に職をつける、という意味があるのだろう。
マシューの筋の資金提供で、機材や材料がよりよいものになり、労働能率は大幅に上昇していた。だからといって、労働時間が短くなるということはなかった。生産が多ければ多いほど所の財政は潤うのであり、何より、ジョーが言っていたように、労働の成果に対する評価制度が導入され、良い成果を上げると様々な恩恵に与れるようになったのである。
マシューの統治開始から導入された評価制度は、労働成果の評価を行い、更生のモチベーションを高めることを表向きの目的とした。その手段として、囚人一人一人の評価に応じて、報酬として金銭を提供する。名目上は、働けば働くほど、より高い対価が得られるという仕組みになっている。その金は何に使うかといえば、外部からの物品購入や食事、その他の娯楽と交換するのである。確かに、囚人からすれば働く動機ができ、所内での生活にいささかの彩を加えられる、上出来な制度に見えた。いわば努力した分だけ報われるというわけだ。現に、ケイシーの左隣で作業に勤しむ一人は、以前より明らかに熱心な働きぶりを示している。
「あー、よし、もう少し頑張りゃあ、足りるだろうな」
白樺の樹皮をたわめながら、問わず語りにこぼしていた。足りる、というからには、何か目標があって働いているんだろう。「自由の実験」開始以前の、慣れ切った作業を延々と繰り返すだけの日々と比較すれば、目が覚めるほどに改善された制度設計である。
(なんだかなあ)
しかし、この制度には明らかな欠点、いや、汚点があるということを、今度はケイシーの右隣の男が証明している。
「はあ、なんであいつらに媚びなきゃいけねえんだか」
自然、ケイシーが同調するのは、右隣の方だった。
「運用してる連中が腐ってるからな。一見平等な仕組みに見せておいて、事実ヒエラルキーができてやがる」
努力した分だけ報酬が得られる、そう言えば聞こえはいいが、問題の所在は、その努力を誰がどのように評価するのか、という点にあった。当然ながら、その評価は公正に行われなければならないはずだ。ところが今は、選挙に勝ったマシューが、共和国の権力をほしいままにしている。そのために起こったのは、マシューの意に沿う連中が良い評価を獲得し、特権階級を形成する、ということだった。評価の基準が明示されていないので、そのようなことが簡単に行われてしまうのである。
そもそも所内に流通し始めた金銭の原資は、マシューの家からの出資である。加えて評価制度まで牛耳っているのであるから、マシュー一派が贅を尽くすのは当然であった。良い食事や娯楽は彼らに独占され、ケイシーが野球をする場所も、広場の端へ端へと追いやられていった。今や独房棟の廊下を歩いて、鉄格子から各独房を覗いてみると、その独房の主がマシュー派なのか否かが明らかに分かるくらいである。普通の囚人たちの独房が未だ寂れているのに対し、マシュー派の独房は清潔が保たれ、華美な服、嗜好品、家具などのような、外から持ち込まれた様々な物品で満ちているからだ。金があれば何でもできる、という外の社会の論理が、所内にまで延長されてしまったというわけだ。
であれば、多くの囚人たちにとっては何らかの手段を講じる必要があった。しかし、元より罪を犯してここにやってきた者たちだ。問題に対して建設的な解決策を取るという能力には、乏しかった。
「ほら、お前の左の奴。なんであんなに精出してっか知ってるか?」
ケイシーの右隣の男が小声で問いかけてきた。
「いや、知らん」
「奴は借金してんのさ」
「借金?」
ふと跳ねた声をあげてしまい、左の男に聞かれやしないかとケイシーは軽く焦ったが、幸い作業に夢中なようだった。
「そう、借金。独房棟二階の奥がよ、賭場になってんだ。奴は昨晩、金欲しさに大勝負して、大負けしたんだ」
金の論理が及んだこの環境に、囚人たちは外の世界でやってきた通り、上手く適応してしまったのである。おそらくその賭博とやらも、マシュー派が運営しているのだろう。
「ま、奴はしっかり働いて返そうとしているだけマシさ。すっかり独房に引きこもっちまった奴も多い」
ケイシーは漠然と、これではいけない、と思った。この「自由の実験」は、これまでの人生で何も為せなかったケイシーたちの、新たな門出になるはずじゃなかったのか。こんな腐敗が罷り通っては、自分たちをどん底に叩き落とした外の社会とまるっきり同じだ。
不正は金のことだけじゃない。ケイシーは四十二番を思い出した。自分なんかよりもよほど良心があって、努力のできる人間が、黒人だからといって投票用紙も与えられないというのはあんまりだ。
オズ所長が与えてくれた、せっかくの機会なのだ。自分はやれると証明しなくては。これは、死刑囚のケイシーはもちろん、他の囚人たちにとってもおそらく最後のチャンス。このチャンスを掴めなければ、外に出たって、必定闇に抱かれることになる。
「はーあ、仕方がないよな、こんなもんだぜ世の中ってのは」
右の男がそう呟いたのを、ケイシーは聞きとがめた。
「いや、だめだ。今回ばかりは仕方がないで済ませちゃいけない。下を向かないで、希望を見なきゃだめだ」
男の腕を握って力を込めた。作業はしばらく中断していたから、きっとケイシーの「評価」は著しく低くつけられているだろう。だが、そんなことは大事の前の小事である。
「希望って? 一体この刑務所のどこにそんなもんがあるってんだ」
「希望……。今からその目に見せてやる。広場に来い」
左の男の腕も掴んで、ケイシーは立ち上がった。




