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フェンス・オーバー ―刑務所からの場外ホームラン―  作者: kunikida-evans
第6章 自由になる方法

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6-1. パストラル

生きるとは呼吸することではない。    

行動することだ。            

哲学者 ジャン=ジャック・ルソー

 その日、天気は快晴だった。その日とは、始まりの日である。夏の爽やかな陽気が、独房棟の周りに生い茂った雑草の露を照らす。草いきれが壁に囲まれた刑務所に充満し、良くも悪くも夏の風情を漂わせている。その壁もまた暗緑の蔦に覆われているから、ノトリアス刑務所はさながら植物園の温室のようだ。


「いやあ、天気がいいな」

 独房から出てきた者は、誰しもこの同じ言葉を呟くだろう。

「おいジョー、だからって、こんなに朝早くからやらなくてもいいだろ」

「早くもねえよ。お前が寝坊しただけだ」

 そう言ってジョーは、東の空を昇る太陽を指さした。

 確かにこの日、ケイシーは寝坊して、朝食のパンを食べ損ねていた。ラッパの音で叩き起こされることがなくなった分、こういうこともあるのだ。


 ところで、喧々諤々の議論を巻き起こした食糧問題、ひいては財政問題は、マシューが外で経営していた企業が支援を与えてくれたおかげで、ほとんど解消していた。御曹司マシューを援助するために、わざわざ基金を設立したらしい。寄付は節税になるんだとかなんとか。この辺りのことは、ケイシーも詳しくは知らなかった。ただ、一日にパン一つか二つだけだった食事に、温かいスープが付くようになったことが、全ての囚人たちにとって最大の変化だった。おかげでマシューは、この一週間得意な顔をしているようだ。

 ただし今日のところは、そんな食事を逃してしまったのがケイシーであった。

「はあ、腹が減ったぜ」

「でもいいじゃんか。子どもの頃みたいでさ」

 確かにケイシーやジョーは、だいたいいつもお腹を空かせながら遊んでいたのだった。

「んー、年取るとなあ、体が動かねえよ」

 十年近くも独房に押し込められていたケイシーの体は、なまっているどころの話ではなかった。筋肉は落ち、関節は固まって、こうして歩いているだけでもどこかが悲鳴を上げている有様であった。

「お、これなんか使えそうだぞ」

 ジョーは雑草の中から手近な木材を拾い上げた。壊れて打ち捨てられた荷車の一部らしい。もちろん、拾い上げた理由は一つである。ジョーはその木材を両手で握り、素振りをしてみた。

「で、肝心のボールは?」

 バットがあっても、ボールがなければ始まらない。二人はなおも探し歩いてみたが、やがてその視線は天を見上げてしまった。青空に流れる積雲は、まさしく野球日和としか言いようがない。

「やっぱ、マシューに言って買ってもらうしかねえかなあ」

 ケイシーはそうこぼしたが、これはほとんど反語である。

「それは癪だろ」

 ジョーからの突っ込みは、ケイシーの代弁であった。


 食事にしろ、刑務作業の器具にしろ、マシューがその資金力を活かして改善を進めつつあった。金を自由に使えるのは奴だけだから、囚人たちのマシューへの依存もまた進行していた。奴本人は「これがエヴェルジェティズムだよん」などとにやついていたが、大方良い振る舞いをして早く出所したいのだろう。頼めばボールの一つくらい買ってくれるだろうが、奴に頭を下げるのは嫌だ。

「ま、今日のところはこれで代用しようぜ」

 ケイシーは白黒のシャツを脱いで丸めた。ぎゅっと結べば、ボールの代わりにくらいはなった。真夏なので、上裸でも気持ちいいくらいの気温だ。

「まあ、しょうがねえな」

「よし、あの角がちょうどいいんじゃねえか」

 二人はこれまで広場と呼ばれていたグラウンドの角にやってきて、壁をバックネットに見立てた。ベンドのダイヤモンドよりよっぽど広くフィールドを取れる。

「よーし、じゃあ俺がピッチャーな」

 そう言いながらジョーは、不格好なボールを手にしてマウンドに登った。マウンドと言っても、今ジョー自身が地面に描いた円である。


 ケイシーはジョーに向かい合って、これもまた粗削りなバットを握った。ささくれが手の平に刺さるけれど、そんなことはお構いなしだ。

「思い出すなあ、色々」

 石造りのテネメントに囲まれた、四角い青空が目に浮かぶ。今ケイシーが見上げているのも、壁に切り取られた四角い青空。だから、少し感傷的になった。

「宿命の対決だぞ。さあ、ピッチャー、ジョー・エバース、振りかぶって一球目!」

 ジョーの小さな体から放たれた渾身の一球は、……打者ケイシーの手前に叩きつけられた。力なく転がって、ストライクゾーンを虚しく通過。

「いや、あれだな、練習が必要だ。もう何十年ぶりだから」

「まずはストレッチしねえと、怪我するぞこれ」

 バキバキと音を立てながら、二人で押し合いへし合い体を伸ばしていると、あの二人がやってきた。クーニーとフリンだ。

「遅れてすまんな」

「いえ、わざわざ来てもらってありがとうございます」

 せっかく野球をやるからには人数も多い方がいいだろうと、ケイシーが誘ったのである。ジョーにとっては初対面なので、紹介しておく。

「こちらの二人が、こないだ言った、俺の上司だ」

「おーいー、おせえぞお前ら、メシのあとすぐって言っただろ」

 そんなジョーの物言いに、ケイシーはどぎまぎした。ケイシーと二人は厳しい上下関係で結ばれているから、囚人同士となった今でも形の上では丁寧な態度を貫いている。対して、ジョーはケイシーの仕事や事情を知らないから、新しい野球仲間くらいにしか思っていないのだ。

「いやはや、君たちがどこにいるのか知らなかったものだから」

「独房からここまで探し回ったんだぞ」

「あ、それもそうか。どこでやるとか決めてなかったもんな」

 二人が意にも介していないところを見て、ケイシーは息をついた。

「こっちがクーニーさんで、こっちがフリンさん」

「おう、よろしくな」

「てか、ケイシー、別にもう敬語じゃなくていいんだぞ」

「そうそう、もう組織の仕事じゃないんだし」

「あー、ええ、まあ……」

「仕事は仕事、今は今、囚人同士だ」

 そう言うクーニーは、あくまで仕事の上下関係とそれ以外を区別しているらしい。公私の区別、というよりは、仕事中は別人格、と言った方が、よく形容できているかもしれない。確かにそうでもなければ、人の道から外れたあらゆる罪を犯して、平気でいられるはずがない。それはケイシーも同じで、あの怪物に言われたような、良心を捨て去った当時の自分と、今の自分との乖離ぶりには目を見張るものがある。

「家族みたいなもんだろ、俺たちは」

 フリンもそう言うが、如何せんケイシーには、仕事の上下関係の意識だけでなく、彼ら二人と組織のおかげで命を繋げたという恩があった。だからなおさら、頭が上がらないのである。

「……善処します……」

 クーニーとフリンは、我が子を見る気持ちで頷いた。

「ほら、せっかく人増えたんだし、早速やろうぜ」

 ジョーはそんなやりとりに耐えかねて、もうマウンドに上がっている。

「お、おう、じゃあ、クーニーさん、お先に打席どうぞ」

「なんだ、善処するんじゃなかったのか」

「え、はい、じゃあ……、おいクーニー、打席立て」

「お前、極端過ぎるだろ」

 そんなこんなでクーニーが打席に立ち、ケイシーとフリンが守備についた。マウンドにはジョー。

「よし行くぞ。一球目!」

 ジョーが思いっ切り投げ込んだボールは、今度こそストライクゾーンに入った。

「おわあ」

 クーニーは情けない空振り。今度はフリンが打席に立ったが、結果は同じだった。待ちに待ったケイシーの打席も、あえなく三振に終わった。

「みんな、練習が必要だな」

「それもそうだし、もっと人数増やそうよ。俺本職はセカンドだし、誰かピッチャーやってくれないかな」

 ジョーは期待に目を輝かせていた。そういえば、理由は知らないが、ジョーは小さい頃からセカンドが一番好きだと言っていた。

「じゃあ、まず四十二番、誘ってもいいか? ピッチャーできるかは分かんねえけど、人数は欲しいもんな」

 ケイシーは、元々四十二番も誘うつもりでいた。だがジョーの手前、言い出す機会をうかがっていたのだ。人数を増やしたい、となれば、知り合いから声を掛けていくのが自然である。

「ついでにアルファベットも教えてやりたいしさ」

 ここぞとばかりに重ねると、

「ん……、ああ、いいよ」

 ジョーは微妙な間がありつつも、頷いた。その覚悟を、ケイシーは嬉しく思った。

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