5-7. Break Out
全ての人が弱みと悪徳を抱えている。
だからこそ、政治が必要なのだ。
政治家 ジェームズ・モンロー
四十二番は、古ぼけた本に目を落とした。独房に漂う沈黙の分だけ、心の中で自分を責め立てる声が大きくなっていく。現実を突きつけた四十二番だって、自分たちは囚人なのだから自由になるべきでない、と言うのではない。ただ覚悟が必要だと言いたいのだ。ちょうど、ケイシーと出会った時と同じ構図である。
彼の意図が今なら分かる。だから、ケイシーはこの沈黙を甘受しなかった。刑務所特有の、この閉塞感にはうんざりだったのである。囚人たちにだって、もっとできることがあるはずだ。居場所がないなら、作ればいい。早くもケイシーは、あの所長の影響を少なからず受けてしまっていた。
「あのさ、お前はどうしてそんなに強いんだ?」
四十二番に問うた。この男には、他の囚人たちにある現実逃避、あるいは諦観が見られない。代わりに感じられるのは、芯の強さだ。確固たる自己といってもいいだろう。その理由をクーニーたちに見せる必要があったし、ケイシー自身も知りたかった。
「やっぱり、学があるからか……?」
「学……」
今初めて問いが聞こえたという風に、四十二番が反応した。
「そんなものが、私にもあれば良かったですね」
本を閉じて、ケイシーと目を合わせる。
「私に学なんてありません」
「謙遜するな。そんな難しそうな本読んでるだろ。俺は、文字は読めても本なんか読めない」
クーニーとフリンが頷いた。ケイシーに文字を教えたのは、他でもないこの二人だった。仕事の都合上、文字が分からない、では済まない場合があるからだ。
「なるほど。私はその逆です」
「逆?」
「はい。こうして本を読んでいますが、文字が読めないのです」
「はあ? 文字が読めない?」
ケイシーは、素っ頓狂な声を出した。
「ええ。私は学校に通ったことはありませんから」
「じゃあ、その本は眺めてるだけだってことかよ」
驚きのあまり、壁に寄りかかっていたフリンが身を起こす。
「その通りです。そうだ、せっかくですから、皆さん文字が読めるというなら、この表紙だけでも読んでいただけませんか」
そう言って、四十二番が本を差し向けた。長く持っていただけあって、その表紙は傷み、汚れていた。
「これだけボロボロになっても、大切にしてるんだな」
「ええ、経緯が経緯ですから」
ケイシーは、表紙に残った黒ずみが気になった。ただ汚れている、古くなっているというのではない、特殊な痕跡。煤である。
「こうして表紙は擦れて読めませんし、中身も欠落したり、汚損している部分が多いのです。でも、ここを見てください。おそらく著者名でしょうが、私には読めません。何と書いてあるのですか」
四十二番が指さした箇所は、黒い表紙の一番下、確かに金色で著者名らしき文字列が記されていた。
「ああ、えーっと……。かなり擦れてるな。しかも筆記体……。えー、ブッカー、 T……、ワシントン、と読めるな」
「なるほど……、誰だかは分かりませんが、運命的な出会いをした、と思っておきましょう」
ブッカー・T・ワシントンとは、南部の黒人指導者だ。ニューヨークでも新聞紙上を賑わせていたので、ケイシーもその名は知っていた。だが、四十二番には教えないでおいた。わざわざ外面的な情報は要らないだろうと思ったからだ。
四十二番は、その装丁を見つめながら皮肉っぽく笑った。この男の笑顔は何度も見たが、そのどれもが違う意味の笑顔だ。文字が読めなくとも、あらゆる物事に彼なりの意味づけができる、豊かな男なのである。四十二番はその顔を丸めて整え、一つ頷いて、ケイシーを見た。
「いつか、中身も読んでみたいですね」
今度の笑顔は、ケイシーが照れてしまうくらいの、希望に溢れた表情だった。
「俺が教えてやるから、一緒に読もう」
「何だお前、いつの間に教える側になったんだ」
クーニーが冷やかした。
「こいつの英語はイタリア訛りだから、気を付けろよ」
「いや、流石にもう訛ってないでしょ。え、訛ってます?」
四十二番の笑顔には、ケイシーたちもあてられてしまった。つまり、ケイシーたちの笑いも今度は後ろ髪を引かれることはなかったのである。文字を教える、それより先は、またいつか考えなくてはいけない。それでも、課題ではなく目標ができたのは、彼らの糧になることだった。
「教えていただけるなんて、嬉しいです」
恐縮する四十二番の肩を、ケイシーは軽く叩いた。
「ああ、こないだ言っただろ。持つ者と持たざる者のコンビだ、ってな」
そう言いながら、ケイシーは組織に入った時を思い出した。他に居場所のない者同士の助け合い。犯罪組織と刑務所では方向が逆だが、関係は同じ、「家族」なのだ。




