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フェンス・オーバー ―刑務所からの場外ホームラン―  作者: kunikida-evans
第4章 罪と罰、そして自由

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4-8. 奇妙な男、2人目

この世界で最も素晴らしいことは、

自立の方法を知ることである。

哲学者 ミシェル・ド・モンテーニュ

 囚人たちの中で一番後に枷を外されたケイシーが、それまでの習慣通り食堂に向かうと、先に解放された囚人たちがひしめき、ざわめいていた。しかしこのざわめきは、それまでの歓喜とは種類が違うようだった。怒声が入り混じっているからである。一際背の高いケイシーでも、囚人の約三分の一の五百人が集まっている状況では、前の方で何が起こっているのか詳しくは分からなかった。

「おい、どういうことだ、説明しろ」

 ケイシーが手近な囚人に問うた。答えたその男は、黒い肌をしていた。

「いつもと違い、支給分のパンが準備されていないので、皆戸惑っているのです」

 刑務所よりも公務か何かが似合うような丁寧な口調である。ケイシーの粗暴さとは対照的だ。

「はーん。つったって、こう怒らなくても良いのによ」

 囚人たちの気性の荒さには、看守でなくとも辟易してしまうくらいだった。

「しかしながら、私たちはずっと、エネルギーを溜め込むしかなかったのですから、一度堰が切れると止めどがないのですよ。喜びであれ、怒りであれ、ね」

 その口調には、母音が伸びる南部訛りが若干混じっている。丁寧な言葉遣いはきっと、訛りを矯正しようという心がけからきているものだろう、とケイシーはなんとなく思った。それにしても、眼鏡をかけて本でも持たせれば、偉い大学教授か弁護士出身だと言っても疑問を持たれなさそうである。黒人という点を除けば。

 ただし、同じ紳士らしいブラウンとは違って、この男からは威厳らしきものが見て取れない。ブラウンが政治家なら、この黒人は役人だろう。


 ケイシーは、声を張り上げたり、当惑したり、思案したりと、思い思いの行動を見せている囚人たちをゆっくりと見回した。これまでももちろんこの同じ刑務所で刑期を過ごし、労働し、衣食住を共にしてきた仲間だったが、会話も何も許されなかったので、彼らがこうして人間らしさを発露しているところを目にするのは初めてと言っても良かった。それはまさしくケイシー本人も同じで、きょろきょろと辺りを見回す動作すらも、おそらく十年近くしていなかった。

「こう言うのも可笑しいかもしれませんが、何だか、何をとっても異国の慣れない風習のように見えてしまいます」

 弁護士風の男も、ケイシーと同じ高さに頭を並べて、中身も似たようなことを考えていたらしい。いきなり会った奴がたまたま気の合いそうな奴だなんてすごい偶然だ、とケイシーは少し不思議に思ったが、よく考えれば不思議なこともない。ケイシーも囚人たちも、皆同じような境遇に生まれ、同じように罪を犯し、この刑務所で単調に過ごしてきたのだ。日常の中にあるので忘れそうになるが、ここにいる全員が犯罪者である。ということは、愛想のよいこの南部訛りの男も、何かの罪を犯したのだ。そんな事実に気が付くと、

「……お前、なんで捕まったんだ?」

 と口からこぼれた。他の連中に比べて明らかに血の気が薄いし、暴力的な性格ではなさそうだ。周りを見回してみれば、自分のように人を殺したんだろう、とか、小心者らしいこいつはせいぜい盗みだろう、とか、偏見とはいえ観察できるのだが、この男からは見て取れない。

「そんなこと、聞くものではありませんよ、初対面なのに」

 訛りの黒人は、特段怒ったという素振りもなく諭すように言った。ケイシーより少なくとも十は年下だろうが、教養があるのか何なのか、男の方がよっぽど大人びている。

「ああ、すまん。ここにいるのは皆訳あり連中だもんな。下手に聞くことじゃねえか」

「皆訳あり連中……、いい考え方ですね」

「何が?」

 予期しないところに男が引っかかるから、枯れかけた地声が出た。

「つまりその、あなたが私と気兼ねなく話してくれる理由、ですよ。ほら私、見ての通り、ニガーですから」

 見ていて可哀そうになる笑顔だった。ニガーとは、強い侮蔑の意味を込めて黒人を表す差別用語だ。それを自分に用いて、極端に卑下しているのである。この異常ともとれる卑下の仕方からして、ケイシーには彼の人種的な苦労が察された。


 だが、それはともかく、確かに言われてもみれば、白黒という一番目に見えやすい違いを気に留めていなかったのは、自分でも意外だった。

「ここにいるのは皆訳ありだから、白が優れているとか、黒が劣っているとか、そんなことは関係がない、ということなのでしょう?」

 こうしてやけに好意的に解釈することからも、自分に気兼ねなく話しかける白人が珍しい、ということなのだろう。しかし、ケイシーからしてみれば、

「別に、たまたま近くにいたからな」

 というだけの理由だった。

「そうですか。まあ明らかに、その目に深い軽蔑が宿っていますものね」

「……」

 痛いところを突かれた思いがした。

「ただし、黒人という人種に対する軽蔑ではない。むしろ、自分以外のすべてに対する敵視のような……、いや、敵視とは違うかな、ある種公平な……」

「はあ、いいことなのかい、そりゃあ」

 ずけずけと失礼な思案をするものだから、ケイシーも投げやりに返す。

「いいことですとも。きっと善良な心をお持ちで」

「善良な犯罪者ってなんだい。まず俺は人殺しなんだがね」

「それでも、根っこまで腐ったわけではない」

 組織にいた時に言われていたこととは、全く違う評価だった。初めて人を殺して以来、一切の迷いは無くなり、あの怪物にも認められるほどだったのに、この男はそうではないと言う。

「お前、面白いな。名前は何ていうんだ」

 ケイシーは、この弁護士風の南部訛りの黒人に興味を持った。

「四十二番です」

「いや違う、囚人番号じゃねえ、お前の名前だ」

「私に名前はありません。囚人番号のまま、四十二番とお呼びください」


 つくづく奇妙な男だった。

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