4-4. 奇妙な男
この世界で最も素晴らしいことは、
自立の方法を知ることである。
哲学者 ミシェル・ド・モンテーニュ
しかしながら、そんな日々にも転機がやってきた。ある日曜日、初夏の風が抜ける午後、十年近くずっと一人で暮らしていたケイシーの独房に、もう一人の囚人が入ることになったのである。四十四歳のケイシーは、来るべき大転換の前触れとは知らず、とうとう死刑囚すら隔離することができなくなるほど、この刑務所は過密になったのか、と屈強な肩をすくめるのだった。
「ほら、入れ」
と看守に背中を押され、よろめきながら男が入ってきた。牢の鍵は直ちに閉じられ、部屋の隅に寝っ転がった死刑囚に向けられる視線はなかった。
反対に、その死刑囚、ケイシーはゆっくりと目を開いて、新入りの男を見つめた。ケイシー自身が意識せずとも、その目には猛獣が獲物を見定めるような凄みがあっただろう。ただし、その猛獣は疲れ切り、諦観のために生命力の鼓動が止まりかけているのだが。
男の方はといえば、その視線に射すくめられることなく、何が誇らしいのか、胸を張ってケイシーを見下ろしていた。檻の外からわずかに差し込む西日が、後光のごとく威厳を演出している。
ケイシーはその姿に、今度は心の目を見開いた。胸がざわつくのを感じる。同じ囚人服を着ていても、奴と自分では住む世界が違う。敵同士というのではない。むしろ逆、似合わないのだ、このゴミ捨て場に、奴のような男は。例えるなら、そう、ベンドのガキどもで泥まみれの野球をしていたところに、才能と品位に溢れるクリスがやってきた時と同じだ。あの時は子供なりの無邪気さで、イレギュラーを楽しむことができたが、今のケイシーはそんな心を持ち合わせてはいない。ただ、違和感への警戒心が強まるだけだ。新入りの男が醸し出す最大の違和感は、足枷と囚人服という重荷に反して直立した背筋と、堂々と蓄えられた口ひげにあった。育ちの良さがにじみ出ている。
しかしながら、ケイシーは男を見つめつつ、その違和感を解決する一応の答えに辿りついた。きっと奴は元政治家か官僚で、自分や他の囚人たちの犯罪とは質的に違う何かを犯して罪に問われたのだろう。汚職程度で死刑になることはないが、ケイシーと同じ独房に入ったからといって、同じ死刑囚とは限らない。
と、そこまで考えたところで、男が口を開いた。
「推理は終わったかい? 探偵さん」
太く響く声からは、やはり威厳らしきものが伺えた。本当に政治家なら、演説向きの声だろう。しかも、こちらの頭の中を読まれている。
「ああ、この香りからすれば、今日の夕食はボルシチだろうなと考えていたところだ」
読まれているのも癪だったので、冗談で返してやった。夕食というのはもちろん職員たちの夕食のことで、ケイシーたち囚人には粗末なパンと水しか与えられない。
だが男はその冗談を何か別の意味で受け取ったらしい。締まった表情を初めて崩して、
「はは、これは一本取られたね。私のことを赤だと言うんだろう?」
と、ケイシーにはよく分からない言葉を返してきた。
「あ、ああ、そうとも言えるな」
そうなると、ケイシーの返答が強がりに聞こえてしまう。これ以上後手に回らされるのは面倒だ。一つ呼吸を置いて、威勢を取り戻す。
「とにかく、お前が誰でも構わないが、俺に関わるな。半分からこっちに来るんじゃねえぞ」
「はいはい、分かったよ」
「……」
名前も罪状も知らない男は、意外にも文句を言ってこなかった。
貴重な明かりをもたらしていた西日が沈んで、夜になった。日が差さないと、石造りの床は夏でも氷が張ったように冷たい。
だが、それ以上に冷たいのは、棟の一番奥にあるケイシーの独房、そこに満ちた緊張の空気である。満ちた、という表現は適切でないかもしれない。むしろ、一切の温度が奪われてしまった真空状態の緊張なのだ。ケイシーも男も、身じろぎ一つせず、物音も立たない。初夏の熱気を忘れてしまったこの冷たい戦争が、かれこれ数時間続いている。
「……」
「……」
廊下を巡回する看守の足音が、いつもより遠く響く。冷え切った独房の奥に寝そべるケイシーと、壁に背を預けて座り込む男を見て、その看守は満足げに頷いた。この静寂、すなわち規律化されたように見える様は、犯罪者を管理する側からすれば、望ましいことこの上ないものである。
足音が遠のくにつれ、代わりに自分の心臓の音が大きく聞こえてくる。はっきり言ってケイシーは、この静寂に耐えかねていた。硬い床に同じ姿勢で寝そべっているから、体が痛い。けれども、ここで寝返りを打っては負けた気がする。この戦争状態を打ち破るのが自分であってたまるか、と意固地になっているのだ。お互いがそんな具合だから、さらに一時間も拷問が続いた。
そして、とうとうこれを打ち破ったのは、男の腹の鳴る音だった。
「……」
「……」
「……」
「……」
「……、ぶっ、わはは」
気づかないふりをすることはできず、可笑しくなった男が吹き出した。
「……お前の負けだ」
「ああ、面白かった。君は辛抱強いね。もう五、六時間と物音も立てずに」
「俺は慣れてるからな。十年ずっとこの調子だ」
「そうかい。ああ、それにしても、腹が減ったな。夕食はまだか」
「夕食なんてないぞ。食いもんは朝与えられたパン一つだ」
今日は日曜日だった。安息日で労働が禁じられているから、普段一応の「手当」がもらえる分も、今日はない。最低限のパン一つだけなのだ。
「なんと。それで生きていけるのか?」
「いけねえよ」
「でも君は、現に生きているんじゃあないのか?」
「はあ、俺は生きてたことなんて一度もない」
「つまり?」
「うぜえなお前は。……生きるってのは命があるってだけじゃねえ。自分のことは自分で選択して初めて生きてるってことだ。お前もそう思うだろ?」
「ああ、確かにそう思う」
「だから、俺もほかの囚人たちも、きっと生きてたことなんてない」
そう言いながら、自分に涙というものが残っていれば、それを流していたんだろう、と嗤うような気持ちになった。
「まあ、どうでもいいことだ。俺はいずれ電気椅子にかけられる。早くその座り心地を確かめたいもんさ」
「……『死を恐れることは、自分が賢くもないのに賢いと思うことと同じである』。これは、クラウディウスという詩人の言葉だ。死とは不可知であって、全ての生きる人間にとって未体験の出来事なのに、それを知っているかのように恐れるのは愚かだ、といったところかな」
「何のつもりだ、突然講釈垂れやがって」
この男の声は聞く者を説得するような力があった。やはり演説向きだろう。その分、ケイシーの感情的な反発は免れない。
「そういう意味では、死を恐れない君は賢人かもしれない、と言いたいのだよ」
「はあ」
男は、壁の向こうに隠れている月を、見上げてみせた。
「だが、残念ながら、この社会は賢人にとって生き辛い。愚かであるほうが楽なのさ。そんなのは最大の不幸だと、君も思わないかね」
「知らん。何を言ってるのかさっぱりだ。どうせ俺は社会に戻ることもなければ、戻ったとてできることもない」
「そうやって愚かなふりをするのは止めにしろ、と言っているんだ。楽をするな」
「……」
「まあいい。私が君と話せるのも一週間だけだ。それまでに、君も何か望みというものを持てれば、今後のためになるのだろうと思う」
また謎の多い発言だ。ケイシーは、望み、ではなく一週間という言葉の方に引っかかった。
「一週間、か。つまり、週末にも刑が執行されるってんだな。随分早いな」
ボスが捕まっていないからなのか、ケイシーの執行は延期に延期を重ね、十年近い歳月が流れている。それは例外としても、死刑執行までに一週間、というのは驚くべき早さだ。
「お前は一体、何の罪を犯したんだ」
「そうだなあ、強いて言うなら、人を騙した、というところかな」
「そうかい。言うつもりがないならそれで結構だ」
ちょうどよく、男があくびをした。もう夜も深い。
「さあ、寝ようか。明日も労働、だろう?」
「言われなくても寝るっつーの」
上から目線で話しやがって。昔偉かったのかなんだか知らないが、今は同じ死刑囚だというのに。
それはともかく、ケイシーは壁の方に向き直って、目を閉じた。思い出したように、冷たい風がまた吹いてくる。
(望み、ねえ。死ぬ間際だってのに、何がしたいんだか)




