3-10. 月に向かって撃て
人間はみな月である。
誰にも見せない暗い顔を持っているのだ。
小説家 マーク・トウェイン
騒いでいる観客たちと同じ白いシャツで紛れ込み、一塁側スタンドの最前列に出た。
「黒人どもが調子に乗りやがって、死ね!」
「豚小屋に帰れ! クズども!」
「てめえら恥ずかしくねえのか! 白人の面汚しが!」
身を乗り出して漫罵する彼らに、ケイシーは気が引けた。
この最安値の席にいる白人たちとて、昔のケイシーほどではないが、お世辞にも良い暮らしをしているのではなかった。自分たちの境遇に不満があり、自分のプライドが自分自身に依拠していないからこそ、人を蔑み、罵り、踏みつけようとするのだ。まして彼らは、黒人たちを人とも思っていなかった。
あらゆるスペクテイター・スポーツに共通する一面かもしれないが、チームを応援して、自分をチームに重ね合わせ、そのチームが勝つことで、自分に安心するのである。そのはずが、目の前のグラウンド上ではどうだ。白人の優位性を確認しに来たのに、それが覆されようとしているのだ。彼らにとっては、自己の存立に関わる問題であった。
(確かに、銃を抜く者がいてもおかしくない)
ケイシーは、いよいよ諦めをつけざるを得なかった。だが、そう簡単に引き金を引けるものではない。これまでの組織での仕事で、自分では良心らしいものは捨てたと思っていたし、生きるために迷いは無くなったと思い込んでいた。ボスにこの仕事を任せられたとき、目に迷いが無くなったと言われた。実際、このままでは負けるから何か手を打とうと進言したときには、一切の迷いはなかった。
なのにどうしてこんなに悩むのだろう、と思案した。直接人を殺すのは初めてだから。これが一番妥当らしい答えだ。これまでの仕事では、確かに罪を犯して、そのためにどこかで人が死んだかもしれないが、自分の手を血で汚したことはなかった。
しかし、それだけではない気がした。自分が生きるために見捨て、そのまま死んだだろう弟たちの顔を思い浮かべれば、同じ理屈で人を撃つことに、躊躇っていいはずがなかった。生きるために仕方がない、と言い聞かせて家族を見捨てたり、物を盗んだりしてきたのだ。今更躊躇っては、それまでの悪事への言い訳を取り払って、罪に正面から向き合わなければならなくなる。
もちろん、野球というある種自分の理想の世界を、自分の手で汚すということへのやるせなさもあった。だけど、それだけじゃない。
いきり立つ観客に肩をぶつけられて、ハッとする。グラウンドを見れば、二つ目のストライクが取られたところだった。長い間考えていたように感じたが、実際はわずか二球の間だった。
もう迷っている暇はない。何とか試合を中止にしなくては。そうだ、なにも殺せとは言われていないんだ。試合を続行させなければいい、心臓を撃ち抜かなくても、怪我をさせるだけでいい。なんだ、いつもの仕事と大して変わらないじゃないか。
ポケットの中の銃に手をかける。
捕手から投手にボールが返って、最後の一球のために構えた。
その投手の右足首に狙いを定める。右投手の軸足だから、投げ終わるまで狙いがぶれない。周りの客たちは、グラウンドと野次に夢中で、ケイシーが銃を抜いたことに気が付いていないようだった。
目から届く映像が徐々に遅くなる中で、ケイシーは自分に言い聞かせた。
仕方がない、仕方がないんだ……。
その呪文に加え、周りが大声で叫ぶように、奴ら黒人は人間じゃない、そう思うことにした。
元より命の軽い黒人に、ほんの少し怪我させるだけでいい。
そう思えばこそ、引き金を引くのが楽になった。
そして、今ここ、引く瞬間、ケイシーは思った。
(ああ、きっと俺、「あの目」になってる)
これが気にかかったんだ。本当にあっち側に行くことになるから。
この少しの邪念が、初めて人を撃つケイシーの手元を狂わせた。
放たれた弾丸は、真っ直ぐに心臓を撃ち抜いたのである。
「よし、命中だ!」
金網越しに見ていたクーニーが声を上げた。
「遅いからヒヤヒヤしたぜ」
フリンも続く。
「心配だったが、ボスの言う通りだったな」
「ああ、流石に人を見る目がある」
ボスから二人には、いざというときの始末はケイシーにさせろ、というお達しがあったのだ。
銃声に驚いた観客たちが蜂の巣をつついたように動転し始め、マウンド上で投手が倒れた。駆け寄る選手たちとは反対に、観衆は我先に逃げようとゲートへ押し寄せる。
その様子が、企ての成功を証明していた。まさしく、試合の続行は不可能だ。騒ぎがひと段落したあとで、観衆の一人の発砲で選手が撃たれ、試合が中止になったと発表すればよい。
騒擾が木製のスタンドを揺らす中、ケイシーが戻ってきた。
「任務完了です」
その目には、暗い灯が宿っていた。




