3-9. 最後の手段
人間はみな月である。
誰にも見せない暗い顔を持っているのだ。
小説家 マーク・トウェイン
「どうします、これじゃ大損ですよ」
「そもそも、大損ってどのくらいなんだ」
「組織の不動産全部売っても払えねえんじゃねえかな」
「なんでそんな金額賭けさせてんだ阿呆」
「今まで大成功だったんだ、少し調子に乗った」
「もう試合止めちゃえばいいじゃないですか」
「いや、今中止にしては、八百長と賭けを認めるようなものだ」
「次から観客が来なくなって、どの道破産だな」
「でも、大損こいて借金よりはいいんじゃ?」
「だとしても、黒人相手に負けそうになって逃げだしたことには変わりねえ」
「そうだ、どうしても譲れん」
三人揃って唸ってしまった。普段だったら、一度負けてもそれ以降で十分お釣りが出るほど取り返せるが、今回はそうもいかない。まして人種という要素が加わっているのだ。それがこの試合の特殊さであり、ケイシーが派遣された理由でもあった。
「あ、じゃあ」
とケイシーがひらめくと、
「何だ!」
「何か思いついたのか!」
と二人が縋ってくる。二人もケイシーも、組織が潰れては元の路上生活に逆戻りだ。そこまででなくとも、今までのようには生きていけなくなる。
「こっちが試合を中止にするんじゃなくて、向こうがどうしようもなくて中止にせざるを得ない状況を作ればいいんじゃないですか。そしたら大義名分ができる」
「……つまり?」
そうこうしている間にも先頭打者が凡退し、残る二つのアウトが取られれば、試合が終わる。
「既に何人か怪我をさせて、向こうはもうグラウンド上の九人しか残ってません。更に一人抜ければ、試合を続行できなくなる」
「うむ、そうか、そうなれば向こうの試合放棄だ」
「しかし、多少の怪我では意地でもグラウンドに立つだろう」
「確実に試合から脱落させ、かつ、俺たちの仕業だと思われない方法が必要ですね」
実は、クーニーとフリンは、一つの方法が残されていることを知っていた。これもまた、先例があったからである。他の組織やチームでも、同じように賭けをしている例が余るほどあるので、不正の手段も豊富なのだ。
しかし、その方法を用いるのには、勇気以上の確固たる悪意が必要だった。それまでの方法は、あくまでメトロポリタンズの手助けに過ぎないと言い訳ができたが、こればかりは決定的な方法なのだ。
クーニーもフリンも、そしてケイシーも、組織に加わって種々の犯罪行為に手を染めてきたが、良心や人間らしい葛藤が全く消えてしまったのではない。生きるために仕方がないことなのだと自らに言い聞かせ、これも全て社会の歪みのせいだと責任転嫁してきた。
「そんな方法は……」
だから、クーニーは躊躇った。できることなら、決定的な一手を下さずに、サヨナラ本塁打でも打ってチームが逆転勝利してくれないものかと願った。誰もが子供の頃に抱いたものと同じ願いだったが、動機が決定的に違う。
「もしかして、何かあるんですか、あるなら出してくださいよ! 何だってやりますから!」
先輩二人の躊躇いに気が付いたケイシーが、言い寄った。二人に比べると、ケイシーはまだまだ、子供なのだ。その方法の中身を考えもせず、ただ自分の身を守るために焦る心。もう泥を喰う暮らしは嫌だ、という思いが一番強いのもケイシーだった。
クーニーは、自分の胸に手を置いた。
「ケイシー、この方法は、今までの生易しいいたずらとは違う。それでもいいのか」
そう諭すように言う姿は、父親のようだった。初めての仕事のときに言われた、家族という言葉を思い出す。
「何だか知らないけど、何でも嫌に決まってる! でもやるしかないんだ。仕方がないじゃないですか」
「ああ、俺たちはそうやって生きてきた。これからもそうやって生きる」
先に覚悟を決めたらしいフリンが、力強く、しかし嘆息混じりに言った。
三人とも、境遇は同じだった。生きるために働くのか、働くために生きるのか分からない生活を送り、それでも生きられなかった者が山ほどいる社会で、こうして自分の足で立っているのだ。冷たい部屋の中で身を寄せ合った家族が死に、離散し、人に縋っては蹴り飛ばされる。そこに戻るのは、何よりも恐ろしいことだった。
金網の向こうで、淡い期待を打ち消すように、二人目の打者が三振した。
「……そうだな、やるしかない」
勝利まであとアウト一つとなった黒人たち。その歓声が轟くポロ・グラウンズ。
クーニーは、ジャケットの胸ポケットから銃を抜いた。
途端にケイシーが驚く。
「銃……、まさか……」
「そうだ、撃つんだ。確実に試合から脱落させる方法、だろ? そこまでは想像してなかったか?」
クーニーは、いつになく冷たい声音で言った。細身だが、その有無を言わせない調子は、あの怪物を思い起こさせる。
「で、でも、そこまでしたら、やっぱり裏で俺たちが仕組んでたんだってバレます」
動転したケイシーが、わざわざ理由を見つけて止める。
「いや、観衆に紛れて撃てばいい。見ろ、この騒ぎだ」
一塁側、白人の観衆は、今にも暴動が起きそうなほどに怒りが膨れ上がっていた。安い席に座っている連中は、大した額を賭けているわけではない。それでいて、プライドは高く、粗悪な酒も入っている。だから、黒人に負けるという恥辱が目前に迫って、フェンスに身を乗り出して罵声を吐いたり、客同士で喧嘩したり、物を投げ込んだり、なんて状況だ。もはや無法地帯と化し、タイムがかけられて試合が一時中断しているほどの荒れ具合である。もしこのまま黒人たちが勝利すれば、新聞広告では来週に予定されていたのを待たずして、このまま黒人街に憂さ晴らしのリンチをしに行くだろう。
「あの半暴徒の中に、怒りに任せて銃を撃った奴がいたとしても、おかしくないだろう?」
フリンが後押しする。
「それは……、確かにそうですけど……」
止める理由がなくなって、ケイシーの声はしぼんだ。クーニーが、ふうっとため息をついて、首を横に振る。そして、ケイシーの前に銃を差し出した。
「ほら、行ってこい」
「えっ、僕がやるんですか!?」
驚きのあまり、久しぶりに「僕」と口をついて出た。
「当たり前だ。一番の後輩じゃないか。こういうときのために日頃から訓練をしていたんだろう」
それは卑怯だ、と言いたくなったが、口答えはできなかった。命令は絶対、それがここの掟だ。そもそも、何でもやると言ったのはケイシーである。
「これから何度でもその引き金を引かなきゃいけなくなる。お前はこれが初めてだが、俺たちは何度も撃ってきた」
またフリンが後押しする。
クーニーとフリンの先ほどの躊躇いは、自身が引き金を引くことに対してのものではなかった。ケイシーにそれをさせるのに躊躇したのである。家族という言葉に嘘はなく、ケイシーに対して半ば親心のようなものを抱いていたのだ。この組織の誰だって、好き好んでこうした仕事をやっているわけではない。良心や葛藤を押し殺して、仕方なく誰かを犠牲にするのだ。その気持ちを味合わせたくない、完全に闇に染まってほしくはない、そんな思いが、二人の心にあった。他人に対して情をかけられない裏返しだ。
「大丈夫。奴ら黒人だ。俺たち人間とは違う」
「実践練習にはちょうどいいな。ほら、試合が再開するぜ」
ただし、当然ながら、自分が引き金を引くのは嫌だ、という思いもないわけではなかったが。
「……はい、承知しました」
ケイシーは、その銃を受け取り、ポケットにしまい込んだ。




