勇者は辞めたい
「また…また魔王城に行くのか…」
勇者リオン・ブレイブハートは、宿屋のベッドで天井を見つめていた。24歳の彼は、2年前に「勇者」として召喚されてから、ずっと魔王討伐の旅を続けている。
しかし、未だに魔王を倒せていない。
正確に言えば、倒す「気」がない。
コンコン
「リオン様、王国からの使者が来ています」
パーティメンバーの僧侶エレナが扉をノックした。
「また催促か…」
リオンは重い体を起こした。
謁見室には、王国の使者が待っていた。
「勇者リオン様、王国からのご命令です。来月中に魔王を討伐するように」
「来月?無理だ。魔王は四天王に守られていて、まだ一人も倒せていない」
「それは承知しています。しかし、王国は既に2年間、あなたに莫大な資金援助をしています。そろそろ成果を…」
使者の言葉に、リオンは顔をしかめた。
成果、成果、成果。
勇者になってから、ずっとそればかり言われている。
「第一、なぜ魔王を倒さなければならないんだ?」
「何を言っているのですか?魔王は世界を脅かす悪の存在…」
「本当にそうか?」
リオンは立ち上がった。
「俺は2年間旅をして、色々なことを見てきた。魔王軍が村を襲ったという話は聞いたことがない。むしろ、人間同士の戦争の方がよっぽど酷い」
実際、リオンは旅の途中で気づいてしまった。
この世界の「悪」は、魔王ではなく、人間の側にこそ多く存在することを。
貴族による農民の搾取、奴隷制度、貧富の格差、不正な税金、腐敗した役人…。
「魔王を倒したところで、これらの問題は解決しない」
「勇者様!そのようなことを言われては…」
「もう疲れた」
リオンは窓の外を見た。
「俺は異世界から無理やり召喚されて、知らない世界で命をかけて戦えと言われている。なぜ俺が?なぜ俺の人生を犠牲にしなければならないんだ?」
使者は困った表情を浮かべた。
「それは…勇者としての運命で…」
「運命?俺が望んだわけじゃない!」
リオンの声が大きくなった。
「元の世界では、俺には家族がいた。友達がいた。大学に通って、普通の人生を送るはずだった。それを勝手に奪っておいて、『運命だから戦え』だと?」
使者は何も言えなかった。
「もう限界だ。勇者、辞めたい」
その時、部屋の窓に光る魔法陣が現れた。
「魔法陣?」
光の中から、三人の人物が現れた。スーツを着た男性、美しい女性、そして見覚えのある顔。
「初めまして、リオン様。私、異世界退職代行サービスの田中と申します」
「私はセレス、元お姫様よ」
「退職って勇者…辞められるのか?」
「もちろんです」
田中が答えた。
「リオン様、現在のお仕事でお悩みですね?」
その優しい声に、リオンの心の防壁が崩れた。
「辞めたい…勇者なんて、もう辞めたいんだ…でも、辞めたら元の世界に帰れないって言われてるし、王国からは裏切り者として追われるし…」
「大丈夫です」
セレスが言った。
「私たちが全部解決します。それが私たちの仕事だから」
翌日、リオンは田中たちと秘密裏に面談していた。
「リオン様のケースは『強制召喚による労働』で、非常に悪質です」
田中は資料を見ながら言った。
「本人の同意なしに異世界から召喚し、命をかけた仕事を強要する。これは明確な人権侵害です」
「でも、勇者召喚は伝統で…」
「伝統だろうと、人権侵害は人権侵害です」
セレスが言った。
「それに、『魔王を倒さないと帰れない』なんて条件も違法よ。労働の対価として元の生活に戻る権利を人質にするなんて」
リオンは涙が出そうになった。誰かが自分の気持ちを理解してくれたのは、召喚されて初めてだった。
「でも、元の世界に帰る方法は…」
「あります」
田中は断言した。
「勇者召喚の魔法陣には、必ず『帰還機能』があります。ただし、王国がそれを隠しているんです」
「隠してる?」
「はい。勇者に逃げられないようにね」
田中は古い魔法書を取り出した。
「これは古代の召喚魔法の記録です。ここに帰還の方法が記されています」
リオンは目を輝かせた。
「本当に…帰れるのか?」
「帰れます。ただし、王国との交渉が必要です」
「交渉?」
「はい。リオン様を帰すこと、そして今後は強制召喚を行わないことを約束させます」
カイルが言った。
「それに、魔王討伐も必要ないことを証明しないとね」
「魔王討伐が必要ない?」
「うん。実は僕も調べたんだけど、現在の魔王って戦争する気がないみたいなんだ」
セレスが資料を見せた。
「最近、魔王のヴァレリウス様が退職代行を使って引退したの。今の魔王は平和主義者で、人間と共存したいと考えているらしいわ」
「じゃあ、戦う必要が…」
「全くないのよ。王国が『敵』を作り出して、勇者という名目で予算を使いたいだけ」
リオンは怒りを覚えた。
「俺の人生を奪っておいて、実は戦う必要もなかったって言うのか?」
「だから、それも含めて王国に責任を取らせます」
田中は決意に満ちた表情で言った。
一週間後。
【王の謁見室にて】
「田中!また貴様か!」
国王ロベルト三世は、もはや怒りを通り越して呆れた表情で田中を見た。
「今度は何を奪いに来た?」
「奪いに来たのではありません。正当な権利を取り戻しに来たのです」
田中は資料を差し出した。
「勇者リオン様の件です」
「リオンが何だと?まさか、また退職か?」
「はい。そして、元の世界への帰還をお願いします」
「何?帰還だと?魔王を倒してからでないと…」
「陛下」
田中の声が厳しくなった。
「リオン様は本人の同意なしに召喚され、命がけの労働を強要されています。これは『誘拐』と『強制労働』に該当します」
国王の顔が青ざめた。
「それに、『魔王討伐』という目的自体が虚偽です」
田中は別の資料を見せた。
「現在の魔王サリウス様は平和主義者で、人間への攻撃を一切行っていません。それどころか、共存を望んでいます」
「そ、それは…」
「つまり、陛下は『存在しない脅威』を口実に、無実の異世界人を奴隷労働させていたことになります」
謁見室が静まり返った。
「もしこれが他国に知られれば、国際問題になります。最悪の場合、王国は制裁を受けるでしょう」
国王は汗を拭いた。
「しかし、リオン様は寛大な方です。以下の条件を飲んでいただければ、この件は公にしません」
田中はリストを読み上げた。
「第一、リオン様を無条件で元の世界に帰還させること」
「第二、今後一切、強制召喚を行わないこと」
「第三、現魔王との平和条約を締結すること」
「第四、これまでリオン様が受けた精神的苦痛に対する補償金を支払うこと」
国王は長い沈黙の後、深くため息をついた。
「…分かった。すべて受け入れよう」
一ヶ月後。
王宮の召喚の間で、帰還の儀式が行われていた。
「リオン様、本当に帰られるのですね」
パーティメンバーのエレナが涙を流していた。
「ああ。でも、みんなとの思い出は忘れない」
リオンは仲間たち一人一人と抱擁した。
「田中さん、セレスさん、本当にありがとうございました」
「どういたしまして」
田中は微笑んだ。
「リオンさんの元の世界での幸せを祈っています」
セレスが続けた。
「大切なのは、『やらなきゃいけないこと』じゃなくて、『自分がやりたいこと』を選ぶことよ」
リオンは頷いた。
魔法陣が輝き始めた。
「それでは、さようなら」
リオンが魔法陣の中央に立つと、光が彼を包み込んだ。
そして次の瞬間、彼の姿は消えた。
【元の世界】
「うっ…」
リオンは自分の部屋のベッドで目を覚ました。見慣れた天井、見慣れた家具。
「夢…だったのか?」
しかし、手には田中たちがくれた「異世界退職代行サービス」の名刺があった。
そして、ベッドサイドには、見たこともない額の補償金の通帳が置かれていた。
「本当に…帰ってきたんだ」
リオンは窓を開けた。外には見慣れた街並みが広がっている。
携帯電話を見ると、異世界にいた2年間は、こちらの世界では一瞬も経っていなかった。
「これから、自分の人生を生きるんだ」
リオンは深く息を吸った。
魔王は倒さなかった。勇者の使命も果たさなかった。
でも、それでいい。
それは彼の物語ではなかった。彼には彼自身の物語がある。
田中、セレスは王宮を出た。
「今回のケースは難しかったわね」
セレスが言った。
「ええ。でも、リオンさんは正しい選択をしたと思います」
田中が答えた。
「未完のままでも、それが彼の答えだった」
「そうね。完璧な英雄である必要はない。自分の人生を選ぶ権利が一番大切だから」
二人は夕日に向かって歩き出した。
また明日も、誰かの「辞めたい」に応えるために。
今回の物語は、「勇者」という存在に課された理不尽な役割から逃れ、自分の人生を取り戻すリオンの決断を描きました。
勇者召喚という美名の下で行われていたのは、強制労働と搾取。彼が「もう辞めたい」と声にした瞬間から、物語は一気に「解放の物語」へと転じました。
リオンは魔王を倒さなかったし、王国の期待にも応えませんでした。けれどそれでいいのです。英雄になるよりも、彼が自分の人生を選んだことこそが、最大の勇気だったと思います。
「未完の物語」であることに価値がある。完璧な勇者にならずとも、人は幸せを掴める。そんなメッセージを込めました。
次回以降も、異世界退職代行サービスの物語は続きます。
誰かの「辞めたい」を叶えることで、また新しい人生が始まっていくのです。
暁の裏




