お姫様は辞めたい
「もう嫌…こんな生活、もう嫌よ…」
ルミナリア王国第一王女セレスティア・ルーンは、豪華な自室のベッドに突っ伏していた。金色の髪がシルクのシーツに広がり、美しい顔は涙で濡れている。
今日も朝から晩まで、「お姫様業務」の連続だった。
朝6時:起床、侍女による着替えとヘアセット(1時間)
朝7時:朝食(外交官との会談を兼ねる)
朝8時:語学レッスン(隣国語、古代語、商業語)
午前10時:ピアノとハープの練習
午前11時:ダンスレッスン
正午:昼食(貴族夫人たちとの社交)
午後1時:政治学と経済学の勉強
午後3時:慈善活動(孤児院訪問)
午後5時:お見合い(今日で今月3人目)
午後7時:晩餐会(各国の使節団との外交)
午後10時:翌日のスケジュール確認と書類処理
「息つく暇もないじゃない…」
20歳になったセレスティアは、物心ついた時からこんな生活を続けている。自分の時間など皆無で、すべてが「王国のため」「外交のため」「政略のため」だった。
「お姫様になりたかった女の子たちは、こんな現実を知らないのよ」
窓の外では、街の子供たちが自由に駆け回っている。彼女たちがどれほど羨ましいことか。
コンコン
「セレスティア様、失礼いたします」
扉の向こうから侍女長のマーガレットの声が聞こえた。
「何?もう予定は終わったでしょう?」
「申し訳ございません。急遽、明日の午前中に隣国の第三王子とのお見合いが追加されました」
「また?今月もう3回もお見合いしたのよ?」
「陛下のご命令です。王国の同盟関係を強化するため、できるだけ早く結婚相手を…」
「結婚も政治の道具って言うの?」
セレスティアは悔しさで拳を握った。恋愛の自由もない。相手も自分で選べない。すべてが「王国の利益」で決まってしまう。
「お姫様もお辛いでしょうが…」
「辛いじゃ済まないのよ!」
セレスティアは立ち上がった。
「私だって一人の人間なのに!自分の人生を生きたいのに!なんで生まれただけで、一生を王国に捧げなきゃいけないの?」
マーガレットは困った表情を浮かべた。
「でも、お姫様はお生まれになった時から王族の責任を…」
「責任、責任って!私が望んで王女に生まれたわけじゃないのよ!」
セレスティアは窓辺に向かった。
「もし…もしお姫様を辞められるなら、私普通の女の子として生きてみたい。自分で仕事を選んで、自分で恋人を見つけて、自分の意志で人生を決めてみたい」
「そんな…お姫様が王族を辞めるなど…」
「無理よね…王族は一生王族。死ぬまで王冠の下で生きるしかない」
セレスティアは深くため息をついた。
その時、部屋の窓に光る魔法陣が現れた。
「あら?」
光の中から現れたのは、見慣れないスーツを着た男性だった。
「初めまして、セレスティア様。私、異世界退職代行サービスの田中と申します」
「たい…退職代行?」
「はい。お困りのご様子ですが、現在のお仕事でお悩みでしょうか?」
田中健太は丁寧にお辞儀をして、名刺を差し出した。
「仕事って…お姫様が仕事?」
「もちろんです。王族も立派な職業の一つです。そして、どんな職業にも退職する権利があります」
セレスティアの目が驚きで大きく開かれた。
「お姫様も…辞められるの?」
セレスティアは田中と面談していた。場所は王宮の秘密の部屋。誰にも見つからない場所だった。
「田中さん、あなたのお仕事について、もっと詳しく教えてください」
セレスティアの表情は真剣だった。
「退職代行サービスですね。簡単に言うと、自分では退職を言い出せない人の代わりに、雇用主と交渉して円満退職をサポートする仕事です」
「素晴らしい…」
セレスティアの目が輝いた。
「つまり、あなたは困っている人を助けているのね?」
「はい、そうです」
「それは…それはとても意義のある仕事だわ!」
セレスティアは身を乗り出した。
「実は、私もそういう仕事がしたいの!」
「え?」
田中は驚いた。
「お姫様として生きてきて気づいたの。世の中には、私と同じように『辞めたいけど辞められない』人がたくさんいるって」
セレスティアは熱く語り始めた。
「慈善活動で色々な人に会ったけど、みんな我慢してるのよ。『仕方ない』『運命だから』『他に選択肢がない』って。でも本当は違うでしょう?」
「その通りです」
「私、あなたの会社で働きたい!」
田中は困惑した。
「でも、セレスティア様はお姫様で…」
「だからこそよ!」
セレスティアは立ち上がった。
「お姫様だった私が『退職』して新しい人生を始めたって知れば、きっと多くの人が勇気をもらえるわ!『あのお姫様でさえ辞められたんだから、自分にもできる』って」
田中は感心した。確かに、それは大きな宣伝効果がある。
「それに、お姫様として培った経験も活かせると思うの」
「どのような経験でしょうか?」
「交渉術、語学力、相手の心を読む能力、そして何より『権力者との話し合いに慣れている』こと」
田中は目を見張った。確かに、王族や貴族相手の交渉では、これ以上ない人材だ。
「お姫様が退職代行をやるなんて、異世界初の事例になりますね」
「それが狙いよ!『異世界退職代行、元お姫様スタッフ在籍』って看板を出すの!」
セレスティアは楽しそうに笑った。生まれて初めて、心から「やりたい」と思える仕事を見つけたのだ。
「でも、王族を辞めるのは簡単ではありませんよ?」
「分かってる。でも、あなたなら方法を知ってるでしょう?」
田中は少し考えてから頷いた。
「実は…王族の退職には『王位継承権放棄』という制度があります」
「それよ!それを使いたいの!」
「ただし、国王陛下との交渉が必要になります」
「お任せします。私一人じゃ絶対に言えないもの」
セレスティアは田中の手を握った。
「お願い、私を普通の女性にして。そして、あなたの会社で働かせて」
一ヶ月後。
【王の謁見室にて】
「異世界退職代行サービス?またお前か」
国王ルドヴィヒ二世は、玉座から田中を見下ろした。以前、賢者の件でも話したことがある。
「はい。今回は、セレスティア王女殿下の王位継承権放棄についてご相談に参りました」
「セレスティアが王位を放棄だと?馬鹿な!」
国王は立ち上がった。
「実は、殿下には強いご希望があるのです」
田中は資料を差し出した。
「殿下は、ご自身の経験を活かして社会貢献をしたいと考えておられます」
「社会貢献?王族として十分に…」
「より直接的な形でです」
田中は説明を続けた。
「殿下の語学力、交渉術、そして何より『困っている人の気持ちを理解する能力』。これらを活かして、民間で働きたいとお考えです」
国王は資料を読んだ。そこには、セレスティアがこれまでに行った慈善活動と、その中で出会った人々の証言が記されていた。
「殿下は、王宮にいるよりも民間で働く方が、より多くの人を幸せにできると信じています」
「しかし、王族が平民として働くなど…」
「陛下」
田中は丁寧に頭を下げた。
「セレスティア殿下は、王族としての義務を果たすよりも、一人の人間として人生を歩みたいとお考えです。それを止める権利は、父親であっても王様であっても、ないのではないでしょうか」
国王は長い沈黙の後、ため息をついた。
「…分かった。セレスティアがそう望むなら、王位継承権の放棄を認めよう」
そして現在。
「異世界退職代行サービス」のオフィスで、セレスティア改め「セレス・ルーン」は初めての依頼者と面談していた。
「初めまして、セレスと申します。どのようなことでお困りでしょうか?」
相手は宮廷楽団の演奏者だった。
「実は…楽団長からのパワハラで悩んでいて…でも、宮廷の仕事を辞めるなんて言い出せなくて…」
「分かります」
セレスは優しく微笑んだ。
「私も宮廷で働いていましたから、その大変さはよく理解できます」
「え?あなたも宮廷で?」
「はい。とても厳しい環境でした。でも、勇気を出して辞めて、今はこんなに充実しています」
セレスの体験談を聞いて、依頼者の表情が明るくなった。
「本当に…辞められるんでしょうか?」
「もちろんです。お任せください」
依頼者が帰った後、田中がオフィスに戻ってきた。
「セレスさん、調子はどうですか?」
「最高よ!」
セレスは振り返った。その表情は、お姫様時代とは比べ物にならないほど生き生きしていた。
「毎日が新鮮で、やりがいがあって…本当にこの仕事を選んで良かった」
「元お姫様の退職代行スタッフ」という話題性もあり、依頼は殺到していた。特に宮廷関係者や貴族からの相談が多く、セレスの経験が大いに役立っていた。
「でも一番嬉しいのは」
セレスは窓の外を見た。
「自分の人生を、自分で選んで生きていることかな」
王冠はもうない。でも、代わりに得たものは計り知れなく大きかった。
自由、やりがい、そして何より「自分らしさ」。
「田中さん、今度新しいサービスを提案したいの」
「どのような?」
「『王族・貴族専門退職代行』よ。きっと需要があるわ」
セレスは楽しそうに笑った。かつてのお姫様は、今や立派な退職代行のプロフェッショナルになっていた。
今回の「お姫様編」では、セレスティアが「王女」という“職業”を辞め、退職代行サービスの一員として新しい人生を歩み始める姿を描きました。
豪華で華やかに見えるお姫様の生活も、実際は「自由のない過酷な労働」であり、彼女にとっては大きな重荷でした。そんな立場から勇気を持って一歩を踏み出す決断は、とても人間らしく、そして現代社会にも通じるテーマだと思います。
「元お姫様の退職代行スタッフ」という肩書きはユーモラスでありつつ、彼女の過去と現在をつなぐ大切な要素でもあります。王冠を捨てても、そこで得た経験や力は決して無駄ではなく、むしろ人を助ける力へと昇華されていく。そうした変化は、彼女の成長を象徴していると感じます。
次回以降も、彼女がどんな依頼人に出会い、どんな人生の“退職”をサポートしていくのか楽しみです。そしていつか、自分自身の恋や夢にも真正面から向き合う日が来るのかもしれませんね。
暁の裏




