女盗賊は辞めたい
「また失敗したのか、レイラ」
薄暗い盗賊団のアジトで、団長のガルドが低い声で呟いた。その声には苛立ちと失望が混じっている。
「す、すみません…商人の護衛が思ったより手強くて…」
レイラは膝をつき、頭を下げていた。赤い髪をポニーテールに結んだ彼女の頬には、かすり傷が残っている。
「もう三回目だぞ。お前は本当に『影の踊り子』レイラなのか?」
周囲にいる盗賊団の男たちからも、嘲笑が漏れる。
「昔の腕前が嘘みたいだな」
「もう年なんじゃないか?25歳だろ?」
「女盗賊の賞味期限なんて短いもんさ」
レイラは拳を握りしめた。彼らの言葉は的外れではなかった。最近、明らかに集中力が落ちている。盗みに失敗することが増え、逃げ足も鈍くなった。
「レイラ、お前にはもう期待していない。今後は雑用を中心にやってもらう」
ガルドの宣告に、レイラの心は沈んだ。盗賊団における自分の価値が失われていく恐怖。しかし、それ以上に辛いのは…
「分かりました」
彼女は立ち上がり、アジトの奥にある自分の小さな部屋に向かった。
壁に掛けられた鏡に映る自分の顔を見つめる。確かに以前ほどの輝きはない。でも、それには理由があった。
「もう…疲れた」
レイラは小さくつぶやいた。15歳で盗賊になってから10年。毎日が緊張の連続で、いつ捕まるか、いつ殺されるかという恐怖と隣り合わせの生活。
最初は自由への憧れだった。貧しい孤児院から逃げ出し、誰にも縛られない生活を求めて盗賊の道を選んだ。しかし現実は違った。
盗賊団にも厳しいヒエラルキーがあり、上からの命令は絶対。断れば制裁が待っている。自由どころか、普通の仕事より束縛が多かった。
そして何より、罪悪感だった。
最初は富豪や悪徳商人だけを狙っていたが、最近は生活に困った一般市民まで標的にしなければならない。子供が泣く顔、必死に命乞いする老人の姿。それらが夢に出てきて、眠れない夜が続いていた。
「こんな生活、もう嫌だ…でも、盗賊を辞めるなんて…」
その時、部屋の窓に光る魔法陣が現れた。
「え?」
光の中から現れたのは、見慣れたスーツ姿の男性だった。
「初めまして、レイラさん。私、異世界退職代行サービスの田中と申します」
「た、退職代行?」
レイラは目を丸くした。
「はい。お困りのご様子ですが、もしかして現在のお仕事に悩みをお持ちでしょうか?」
田中健太は優しい笑顔で名刺を差し出した。レイラは恐る恐るそれを受け取る。
「で、でも…盗賊って辞められるものなんですか?普通は…」
「殺されるか、捕まるかですよね」
健太はあっさりと言った。
「でも、それは適切な退職手続きを知らないからです。実は盗賊業界にも、円満退職の方法があるんですよ」
「本当ですか?」
レイラの目に希望の光が宿った。
「もちろんです。まず、レイラさんが盗賊を辞めたい理由を教えていただけますか?」
レイラは躊躇した後、堰を切ったように話し始めた。罪悪感のこと、自由への憧れが裏切られたこと、毎日の恐怖、そして何より「本当は人を傷つけたくない」という気持ち。
健太は最後まで黙って聞いていた。
「レイラさん、あなたは本来とても優しい人なんですね」
「優しい?私が?人から物を盗んでるのに?」
「はい。その罪悪感こそが、あなたの本来の優しさの証拠です。本当に悪い人は、そんなことで悩んだりしません」
レイラの目に涙が浮かんだ。長い間、誰も自分を理解してくれないと思っていた。
「それで、退職後はどのような仕事をお考えですか?」
「それが…盗賊以外の技術がないんです。戦闘も得意じゃないし、魔法も使えない。身軽さと手先の器用
さくらいしか…」
「それは素晴らしい才能ですよ!」
健太の目が輝いた。
「身軽さと手先の器用さ…でしたら『遺跡探索専門ガイド』はいかがでしょう?最近、古代遺跡の学術調
査が活発になっていて、狭い場所に入れて、罠を解除できる専門家が不足しているんです」
「い、遺跡探索?」
「はい。人から物を盗むのではなく、歴史的価値のある遺物を発見し、学術的に保護する仕事です。レイラさんの技術が、知識の発見と保護に活かされるんです」
レイラの心が躍った。それは彼女が求めていた「自由」の形だった。
「でも…盗賊団を抜けるのは簡単じゃありません。ガルド団長は…」
「お任せください。盗賊団の退職には『名誉除名制度』という方法があります」
健太は資料を取り出した。
「盗賊業界には『三度の大失敗』という不文律があり、これに該当する者は団から除名されても文句は言えないという慣習があります。レイラさんは既に三回失敗されているので、この制度を使えば問題ありません」
「そんな制度が…」
「ただし、これまでの『借り』を清算する必要があります」
健太は続けた。
「幸い、遺跡探索ガイドの初期報酬は高額です。最初の仕事で得られる報酬の一部を盗賊団に渡し、『卒業金』として処理すれば円満に退団できます」
レイラは目を輝かせた。
「本当に…本当に盗賊を辞められるんですね」
「はい。そして、レイラさんの技術を、人を傷つけるためではなく、世の中に役立つために使えるんです」
一週間後。
健太はガルドの前に立っていた。しかし今度は、自信に満ちた表情だった。
「団長、私はレイラさんに代わり、盗賊業を引退させていただくとお伝えしに来ました」
「何だって?」
「三度の大失敗により、名誉除名制度を適用させていただきます。そして、これまでのお世話になった分として、こちらを」
健太は金貨の入った袋を差し出した。
「これは…」
「新しい仕事の前金です。もう人様に迷惑をかけるような真似はしませんとのこと」
ガルドは袋の重さに驚いた。これだけあれば、団の当面の運営に支障はない。
「…分かった」
こうして、レイラは晴れて盗賊業から卒業した。
そして現在。
「レイラさん、この扉の向こうに古代の宝物庫があると思われますが、罠の解除をお願いできますか?」
考古学者のフィリップ教授が、期待に満ちた目でレイラを見つめていた。
「お任せください」
レイラは以前と同じような身軽さで扉に近づくが、その表情は全く違っていた。生き生きとして、希望に満ちている。
手先の技術を駆使して罠を解除し、扉を開く。中から現れたのは、千年前の王朝の貴重な文献だった。
「素晴らしい!これで古代史の謎がまた一つ解明できます!レイラさん、本当にありがとう!」
教授の喜びの声を聞きながら、レイラは心から笑った。
盗みの技術が、今度は知識という宝を世に出すために使われている。誰も傷つけることなく、むしろ多くの人を幸せにしている。
「田中さんに感謝しないと」
レイラは空を見上げた。あの時、退職代行を頼んで本当に良かった。
今の彼女は、本当の意味で自由だった。誰にも縛られず、自分の技術で人の役に立ち、胸を張って生きている。
「次はどんな遺跡を調査しましょうか?」
教授の提案に、レイラは目を輝かせて答えた。
「どこでも行きます。私の翼は、もう誰にも縛られませんから」
夕日に向かって歩く彼女の後ろ姿は、かつての『影の踊り子』ではなく、新しい人生を歩む一人の女性のものだった。
【完】




