預言者は辞めたい
「また…見えてしまった…」
神殿の最奥部、薄暗い予言の間で、予言者カサンドラ・オラクルは震える手で水晶球から目を離した。32歳の彼女の顔は青白く、額には脂汗が浮かんでいる。
水晶球に映っていたのは、三日後に起こる大商人の死。馬車事故で、即死。家族五人が路頭に迷う未来。
「言わなきゃ…でも…」
カサンドラは深く息を吸った。
予言者になって12年。彼女は数え切れないほどの「未来」を見てきた。そして、その全てを人々に伝えてきた。
しかし最近、心が壊れそうだった。
コンコン
「カサンドラ様、本日の予言依頼者がお見えです」
神官のエリックが扉の向こうから声をかけた。
「分かったわ…すぐ行く」
カサンドラは立ち上がり、鏡で自分の顔を確認した。やつれた顔。目の下のクマ。最後に笑ったのはいつだっただろう。
予言の間に入ってきたのは、若い夫婦だった。
「カサンドラ様、どうか私たちの未来を見てください」
妻が希望に満ちた目で言った。
「お腹の子供が、無事に生まれるかどうか…」
カサンドラは水晶球に手をかざした。そして、見えた。
子供は無事に生まれる。しかし、五歳の誕生日に病気で死ぬ。
「…赤ちゃんは無事に生まれます」
カサンドラは微笑んだ。しかし、その先は言わなかった。言えなかった。
「本当ですか!ありがとうございます!」
夫婦は喜んで帰っていった。
扉が閉まった瞬間、カサンドラは床に崩れ落ちた。
「また…嘘をついた…」
予言者の苦悩。それは、見えた未来を「すべて」伝えるべきかどうか、という永遠の問題だった。
悲劇的な未来を伝えれば、人々は絶望する。
しかし、伝えなければ、予言者としての責任を果たしていないことになる。
「どうすればいいの…」
カサンドラは頭を抱えた。
その日の夜、カサンドラは神殿長ザカリアスに呼び出された。
「カサンドラ、最近の君の予言は不完全だ」
白髭を蓄えた老人は、厳しい表情で言った。
「大商人ガルドの死を予言しなかったそうだな」
「それは…」
「予言者の使命は、見えた未来をすべて伝えることだ。良いことも悪いことも」
「でも、神殿長!死の予言を伝えたら、その人は絶望してしまいます!」
カサンドラは立ち上がった。
「それに、未来は変えられるかもしれないじゃないですか!」
「未来は変えられない」
ザカリアスは断言した。
「それが予言というものだ。運命は決まっている。我々はそれを伝える器に過ぎない」
「でも!」
「カサンドラ」
ザカリアスの声が低くなった。
「君は予言者だ。人間ではない。感情を持つことは許されない。見えたものをそのまま伝える、それが使命だ」
カサンドラは拳を握りしめた。
「私は…人間です」
「違う。君は神の声を伝える者だ」
ザカリアスは冷たく言い放った。
「明日から、すべての予言を完全に伝えなさい。でなければ、予言者の座を剥奪する」
カサンドラは何も言えなかった。
翌日の朝、カサンドラは予言の間で呆然としていた。
今日の予言リストには、10人の依頼者がいる。そして、水晶球はすでに彼らの未来を映し出していた。
商人の破産。
騎士の戦死。
少女の病死。
老人の孤独死。
農夫の家族崩壊。
「全部…悲劇じゃない…」
カサンドラは涙を流した。
「これを全部伝えろって言うの?人々に絶望を与えろって?」
予言者になった理由を思い出した。
12年前、彼女は突然「視える」力に目覚めた。最初は怖かった。しかし、神殿が彼女を「神に選ばれた者」と称え、予言者として迎え入れた。
「あなたの力で、多くの人を救えます」
そう言われて、誇りを感じた。
しかし、現実は違った。
予言者は救い主ではなく、「不幸の伝達者」だった。
良い未来を予言すれば感謝されるが、悪い未来を予言すれば憎まれる。
「予言者なんか来なければよかった」
「あんたのせいで希望を失った」
「呪われろ」
何度そう言われただろう。
「もう…限界…」
カサンドラは水晶球に手を伸ばした。そして、自分の未来を見ようとした。
予言者は自分の未来を見ることを禁じられている。しかし、もう構わなかった。
水晶球が光った。そして、映し出されたのは――
三ヶ月後、神殿の塔から身を投げる自分の姿。
「あ…」
カサンドラは水晶球から手を離した。
「私…死ぬの?」
震えが止まらない。予言は絶対だ。未来は変えられない。つまり、三ヶ月後に自分は死ぬ。
「嫌だ…死にたくない…でも、予言は…」
その時、部屋の窓に光る魔法陣が現れた。
「魔法陣?」
光の中から、三人の人物が現れた。スーツを着た男性、美しい女性、そしてもう一人。
「初めまして、カサンドラ様。私、異世界退職代行サービスの田中と申します」
「私はセレス、元お姫様よ」
「た、退職代行?」
カサンドラは混乱した。
「はい。お困りのご様子ですが、もしかして現在のお仕事に悩みをお持ちでしょうか?」
田中健太は優しい笑顔で名刺を差し出した。カサンドラは震える手でそれを受け取る。
「予言者って…辞められるの?」
「もちろんです」
セレスが言った。
「どんな職業でも、辞める権利はあるわ」
「でも…私、三ヶ月後に死ぬって予言が…」
田中の表情が真剣になった。
「カサンドラ様、予言で自分の死を見たのですか?」
「はい…神殿の塔から…」
「それは」
田中は断言した。
「予言ではありません。『このままでは起こる未来』です」
「え?」
「未来は変えられます」
田中の言葉に、カサンドラは目を見開いた。
「でも、神殿長は『未来は変えられない』って…」
「それは間違いです」
セレスが言った。
「予言は『可能性の高い未来』を見せるだけ。行動を変えれば、未来も変わる」
カサンドラの目に涙が浮かんだ。
「本当に…?」
「本当です」
田中は優しく微笑んだ。
「そして、カサンドラ様の死の予言は、『このまま予言者を続けた場合』の未来です。つまり、予言者を辞めれば、その未来は変わります」
希望の光が見えた気がした。
「でも、辞めたら…私は何になるの?予言しかできないのに…」
「いいえ」
田中は資料を取り出した。
「カサンドラ様には、素晴らしい才能があります」
「才能?」
「『人の心を読む力』『未来を予測する洞察力』『直感力』…これらは、予言だけに使うものではありません」
セレスが続けた。
「例えば、『カウンセラー』という仕事はどう?」
「カウンセラー?」
「人々の悩みを聞いて、適切なアドバイスをする仕事よ。あなたの洞察力があれば、最適な助言ができるわ」
カサンドラの目が輝いた。
「それなら…人を絶望させることなく、助けられる?」
「ええ。予言で未来を告げるのではなく、現在の悩みに寄り添う。それが本当の意味で人を救うことよ」
カサンドラは涙を流した。
「私…それがしたかったの。人を救いたかった。でも、予言者は人を絶望させることばかりで…」
田中は優しく言った。
「では、予言者を辞めましょう。そして、新しい人生を始めましょう」
「でも、神殿長が許してくれるでしょうか…」
「お任せください。それが私たちの仕事ですから」
一週間後。
【神殿長室にて】
「予言者が辞める?馬鹿な!」
ザカリアスは激怒した。
「カサンドラは神に選ばれた者だぞ!勝手に辞められるものか!」
「神殿長」
田中は冷静に資料を差し出した。
「カサンドラ様は、現在重度の精神疾患に陥っています。このまま続ければ、三ヶ月以内に自殺する可能性が極めて高い」
ザカリアスの顔が青ざめた。
「それは…」
「原因は、過度な心理的負担です。12年間、休みなく他人の不幸を見続け、それを伝え続けた結果です」
田中は続けた。
「『予言者労働保護法』第8条では、『予言者に過度な精神的負担を強いることを禁じる』とあります。神殿はこの法律に違反しています」
「そんな法律は…」
「存在します」
セレスが別の資料を見せた。
「それに、『予言者は人間ではない』という神殿の方針は、明確な人権侵害よ」
ザカリアスは何も言えなかった。
「さらに」
田中が続けた。
「カサンドラ様は、自分の死を予言しました。神殿の教義では『予言は絶対』ですよね?」
「そ、それは…」
「つまり、このままでは彼女は死にます。神殿は、予言者を死なせるつもりですか?」
ザカリアスは沈黙した。
「カサンドラ様には、生きる権利があります。そして、自分の人生を選ぶ権利があります」
田中は立ち上がった。
「退職を認めてください。さもなければ、神殿の違法行為を公表します」
ザカリアスは長い沈黙の後、深くため息をついた。
「…分かった。カサンドラの退職を認めよう」
一ヶ月後。
王都の下町に、小さなカウンセリングルーム『カサンドラの心の相談室』がオープンした。
「いらっしゃい。どうぞ、楽にして」
カサンドラは優しい笑顔で、若い女性を迎えた。
「あの…夫との関係で悩んでいて…」
女性は泣きながら話し始めた。
カサンドラは黙って聞いた。そして、水晶球ではなく、自分の心で相手を理解しようとした。
「つらかったわね」
カサンドラは優しく言った。
「でも、あなたは間違っていない。自分の気持ちを大切にしていいのよ」
女性の表情が少し明るくなった。
「本当ですか…?」
「ええ。それに、未来は変えられるわ。今からでも、あなたの人生は変えられる」
女性は涙を流した。しかし、それは絶望の涙ではなく、希望の涙だった。
「ありがとうございます…カサンドラさんに相談して、よかった」
女性が帰った後、カサンドラは窓の外を見た。
予言者時代は、人々に絶望を与えていた。
しかし今は、人々に希望を与えられる。
「これが…私がやりたかったことだ」
壁には、田中からもらった『異世界退職代行サービス』の名刺が飾られていた。
その時、扉がノックされた。
「失礼します」
入ってきたのは、見覚えのある顔。神殿の神官エリックだった。
「エリック?どうしたの?」
「実は…相談があって」
エリックは恥ずかしそうに言った。
「僕も…神官を辞めたいんです」
カサンドラは微笑んだ。
「そう。じゃあ、いい退職代行サービスを知ってるわ」
彼女は田中の名刺を手渡した。
【数ヶ月後】
カサンドラの相談室は大盛況だった。
「元予言者のカウンセラー」という話題性もあったが、何より彼女の「心に寄り添う姿勢」が評判を呼んでいた。
ある日、田中とセレスが訪れた。
「カサンドラさん、調子はどうですか?」
「最高よ!」
カサンドラは輝く笑顔で答えた。
「毎日、人の役に立てて、感謝されて…予言者時代とは比べ物にならないわ」
「それは良かった」
田中も微笑んだ。
「ところで」
セレスが尋ねた。
「自分の未来、見てみた?」
カサンドラは少し考えて、首を横に振った。
「見てないわ。もう水晶球は使わないって決めたから」
「でも」
彼女は窓の外を見た。
「予言しなくても分かる。私の未来は、きっと明るい。だって、今が幸せだから」
田中とセレスは顔を見合わせて笑った。
「それが一番正しい『予言』かもしれませんね」
その夜、カサンドラは久しぶりに水晶球を見た。
しかし、未来を見るためではなく、過去を振り返るために。
水晶球には、三ヶ月前の自分が映っていた。神殿の塔から身を投げようとしていた自分。
しかし、今の自分は生きている。笑っている。幸せだ。
「未来は変えられるのね」
カサンドラは水晶球を布で覆った。
もう予言は必要ない。
必要なのは、今を生きること。そして、人々の「今」に寄り添うこと。
窓の外には満月が輝いていた。
予言者だった頃は、月を見ても「次の満月に何が起こるか」しか考えられなかった。
しかし今は、ただ月の美しさを楽しめる。
「ありがとう、田中さん、セレスさん」
カサンドラは小さくつぶやいた。
「私の未来を…取り戻してくれて」
そして彼女は、明日の予約者リストを確認した。
明日も、誰かの「今」に寄り添う日だ。
未来を予言するのではなく、現在を一緒に生きる。
それが、元予言者カサンドラが見つけた、新しい使命だった。
今回は予言者のお話でした。
「未来が見える」というのは、一見すると素晴らしい能力に思えますが、実際には大きな重荷になることもあります。特に、見えた未来が悲劇的なものだったとき、それを伝えるべきか、黙っているべきか…その葛藤は計り知れません。
現実世界でも、「専門家」として働く人々の中には、カサンドラのような悩みを抱える方がいるかもしれません。医師が患者に悪い診断を告げるとき、カウンセラーがクライアントの困難な未来を予測するとき、コンサルタントが企業に厳しい現実を伝えるとき…。
でも、大切なのは「伝え方」と「寄り添い方」なのかもしれません。
カサンドラは予言者を辞めましたが、人を助けたいという想いは変わりませんでした。ただ、方法を変えただけです。
未来を告げるのではなく、今に寄り添う。
それもまた、人を救う立派な方法です。
そして何より、「未来は変えられる」というメッセージ。
予言が絶対なら、カサンドラは死んでいたはずです。でも、彼女は行動を変えることで、自分の未来を変えました。
どんな予言も、どんな運命も、行動次第で変えられる。
それが今回の物語のテーマです。
もしあなたが「こうなるしかない」と思っている未来があるなら、それは本当に変えられないものでしょうか?
行動を変えれば、未来も変わります。
あなたの人生の予言者は、あなた自身なのですから。
暁の裏




