聖女は辞めたい
「また…また『奇跡』を起こせと言うの…?」
王立大聖堂の奥の部屋で、聖女ルーラ・ホワイトローズは疲れ切った表情で鏡を見つめていた。22歳の彼女は、3年前に「聖女」として教会に迎えられてから、休む暇もなく働き続けている。
白い聖女の衣装は清楚で美しいが、胸元が大きく開いており、スカート丈も妙に短い。
「なんで聖女の衣装って、こんなに布地が少ないのよ…」
ルーラは自分の豊満な胸を隠そうとしたが、この衣装ではどうしても谷間が見えてしまう。
コンコン
「聖女様、次のご予定です」
侍女のマーサが扉をノックした。
「はあ…何?」
「午後2時、病人への祈りの儀式。午後4時、貴族への祝福。午後6時、王宮での晩餐会。そして午後9時、大司教との『特別なお祈り』です」
「『特別なお祈り』…」
ルーラの顔が曇った。大司教のグレゴリウスは60代の太った男性で、「お祈り」と称して毎晩ルーラを自室に呼びつけるのだ。
「聖女様、あなたの美しさも神の恵みです。私にその恵みを分けてください」
そう言いながら、肩に手を置いたり、腰に手を回したりする。
「も、もう限界…」
ルーラは頭を抱えた。
実は、ルーラには「奇跡を起こす力」など存在しない。
彼女はただの平民の娘だった。ある日、教会の前で倒れていたところを発見され、「これは神のお告げだ!」と勝手に聖女に任命されたのだ。
それ以来、教会は彼女を「看板娘」として利用している。
「聖女様が祈れば病気が治る!」
「聖女様の祝福で豊作になる!」
実際には何の効果もないのに、教会はそう宣伝し、寄付金を集めている。そして、信者たちが勝手に「奇跡だ!」と騒ぐのだ。
「プラシーボ効果ってやつよね…」
ルーラは深くため息をついた。
それに加えて、この「聖女衣装」だ。
「信者の目を楽しませるのも、聖女の務めです」
グレゴリウスはそう言って、どんどん衣装の露出度を上げていった。最初はまともな修道服だったのに、今では胸元が開いたドレスに、太ももが見えるスカート。
「これ、もはや水商売の衣装じゃない…」
おまけに、信者たちのセクハラも日常茶飯事だった。
「聖女様、握手してください!」(手を握ったまま離さない)
「聖女様、ハグしてもらえますか?」(体を密着させてくる)
「聖女様、添い寝の祝福を…」(これは流石に断った)
「もう嫌…聖女なんて辞めたい…」
その時、部屋の窓に光る魔法陣が現れた。
「魔法陣?」
光の中から、三人の人物が現れた。スーツを着た男性と、美しい女性。
「初めまして、ルーラ様。私、異世界退職代行サービスの田中と申します」
「私はセレス。元お姫様よ」
「た、退職代行?」
ルーラは目を丸くした。
「はい。お困りのご様子ですが、もしかして現在のお仕事に悩みをお持ちでしょうか?」
田中の優しい声に、ルーラの涙腺が崩壊した。
「辞めたいです! 聖女、もう辞めたいです!」
そして、すべてを話した。
実は奇跡を起こす力などないこと、看板娘として利用されていること、セクハラの日常化、露出度の高い衣装、そして大司教の「特別なお祈り」…。
田中とセレスは真剣に聞いていた。
「ルーラさん、それは完全に労働環境の問題ですね」
田中がメモを取りながら言った。
「特に、『特別なお祈り』というのは明らかなセクハラです」
「それに、この衣装も問題ね」
セレスがルーラの衣装を見て眉をひそめた。
「聖職者の衣装が、なぜこんなに露出が多いの? これは完全に『性的な接客要求』よ」
「で、でも…教会の伝統だって…」
「嘘ね」
セレスはきっぱりと言った。
「私、元王女だから色々な教会を見てきたけど、こんな露出度の高い聖女衣装なんて見たことないわ」
「そうなんですか!?」
「ええ。これは明らかに、大司教が勝手に作った『ルール』よ」
田中が資料を取り出した。
「それに、『奇跡を起こせ』という要求も問題です。ルーラさんには本当に奇跡を起こす力がないのに、それを強要するのは『不可能な業務命令』に該当します」
「不可能な…業務命令…」
ルーラは初めて聞く言葉に驚いた。
「はい。労働者に不可能なことを要求し、できないと叱責するのは、パワハラです」
セレスが続けた。
「それに、プラシーボ効果で勝手に『治った』と信者が思い込んでるだけなのに、それを『聖女の奇跡』として宣伝して寄付金を集めるなんて、完全に詐欺よ」
「さ、詐欺!?」
「そう。そしてあなたは、その詐欺の共犯者にされているの」
ルーラは青ざめた。確かに、自分は教会の詐欺に加担させられている。
「で、でも…聖女を辞めたら、私はどうすれば…」
「大丈夫です」
田中は優しく微笑んだ。
「ルーラさんには、3年間の『人を癒す経験』があります」
「人を癒す…?」
「はい。あなたは奇跡を起こしていないかもしれませんが、病人に寄り添い、話を聞き、希望を与えてきた。それは立派な『カウンセリング』の技術です」
ルーラは目を輝かせた。
「それに、あなたの優しい雰囲気と、人を安心させる話し方。これらは『セラピスト』として非常に価値が高いスキルです」
セレスが付け加えた。
「つまり、『奇跡の聖女』から『心のセラピスト』への転職よ。もっと健全な環境で、本当の意味で人を助けられるわ」
ルーラの目に涙が浮かんだ。
「本当に…そんな道があるんですか…?」
「あります。それが私たちの仕事です」
田中は決意に満ちた表情で言った。
「では、教会との交渉を始めましょう」
一週間後。
「何? ルーラが聖女を辞める?」
大司教グレゴリウスは、紫色の法衣を着た巨体を揺らして立ち上がった。
「冗談ではない! 彼女は我が教会の宝、いや、金のなる木だぞ!」
「金のなる木、ですか」
田中は冷静に資料を机に置いた。
「図らずも本音が出ましたね」
「な、何?」
「ルーラさんは『宝』ではなく『金のなる木』。つまり、人格を持った労働者ではなく、金を稼ぐ道具として扱っているということですね」
グレゴリウスの顔が真っ赤になった。
「そ、それは言葉の綾で…」
「では、こちらをご覧ください」
田中は厚い資料ファイルを開いた。
「ルーラさんが聖女になってからの3年間で、教会の寄付金は10倍に増えました。年間5000万ゴールド。その大部分が『聖女の奇跡』を求める信者からの寄付です」
「そ、それがどうした?」
「しかし、ルーラさんには『奇跡を起こす力』がありません」
田中の声が厳しくなった。
「つまり、教会は『存在しない商品』を宣伝して金を集めている。これは詐欺です」
グレゴリウスは汗を拭いた。
「それに」
セレスが別の資料を見せた。
「この聖女衣装。胸元が大きく開いて、スカート丈も異常に短い。これ、あなたがデザインしたそうですね」
「そ、それは…信者に親しみを持ってもらうため…」
「嘘おっしゃい」
セレスの目が鋭くなった。
「私、各国の教会を調査したけど、こんな露出度の高い聖女衣装を採用している教会は他にないわ。明らかに性的な目的でしょう」
「ち、違う!」
「それに、『特別なお祈り』と称して、毎晩ルーラさんを個室に呼びつけて、体に触れる。これは完全なセクハラです」
グレゴリウスの顔が青ざめた。
田中が続けた。
「労働環境改善法第15条『労働者の人格を否定する行為の禁止』、第23条『性的な接客要求の禁止』、第31条『詐欺行為への労働者の強制参加の禁止』…すべてに違反しています」
「ま、待ってくれ…」
「これらの違反が発覚した場合、教会の認可取り消し、さらにはあなた個人への刑事告発の可能性もあります」
グレゴリウスは椅子にへたり込んだ。
「しかし、ルーラさんは寛大な方です」
田中は優しい表情に戻った。
「彼女の退職を認め、これまでの未払い賃金を支払い、今後の労働環境改善を約束していただければ、この件は穏便に済ませることができます」
「み、未払い賃金?」
「はい。ルーラさんの3年間の労働に対する正当な報酬です。計算すると…」
田中は電卓を叩いた。
「月給50万ゴールド×36ヶ月=1800万ゴールド。さらに残業代と慰謝料を加えて、合計3000万ゴールドです」
「さ、3000万!?」
「教会の年間収入5000万ゴールドから考えれば、妥当な金額です。それに、ルーラさんが告発した場合、教会が失うのは金額だけではありません。信用と認可も失います」
グレゴリウスは長い沈黙の後、深くため息をついた。
「…分かった。すべて受け入れよう」
こうして、ルーラの退職が正式に決まった。
しかし、退職の日、予想外のことが起こった。
「聖女様! 辞めないでください!」
大聖堂の前に、数百人の信者が集まっていた。
「聖女様がいないと、私たちは…」
老婆が涙を流している。
「聖女様に話を聞いてもらって、生きる希望が湧いたんです」
病気の男性が叫んだ。
ルーラは胸が痛んだ。彼女は確かに奇跡を起こしていない。でも、人々の心には何かを与えていたのだ。
「みなさん…」
ルーラは群衆の前に立った。
「私には、皆さんが思っているような『奇跡の力』はありません」
どよめきが起こった。
「でも、皆さんの話を聞いて、寄り添うことはできます。だから、これからは『心のセラピスト』として、皆さんの力になりたいと思います」
「セラピスト…?」
「はい。もっと自由に、もっと誠実に、皆さんと向き合いたいんです」
群衆は静まり返った後、大きな拍手が起こった。
「聖女様、応援します!」
「新しい道でも頑張ってください!」
ルーラは涙を流しながら、深くお辞儀をした。
三ヶ月後。
王都の静かな通りに、小さなカウンセリングルームがオープンした。
『ルーラの心の癒し処』
看板には、穏やかな笑顔のルーラのイラストが描かれている。
「いらっしゃいませ」
ルーラは、今度は露出度の低い、落ち着いた服装で来客を迎えた。胸元もしっかり隠れているし、スカートも膝下まである。
「あの、聖女様…」
「もう聖女じゃありませんよ。ルーラと呼んでください」
来客は、かつて教会で会ったことのある女性だった。
「実は…夫との関係に悩んでいて…」
ルーラは優しく微笑み、話を聞き始めた。
奇跡は起こさない。でも、寄り添い、理解し、アドバイスする。それがルーラの新しい仕事だった。
一時間後、女性は晴れやかな表情で帰っていった。
「ありがとうございました。話を聞いてもらえただけで、心が軽くなりました」
その報酬は、教会時代よりずっと公正だった。
窓から外を見ると、かつて働いていた大聖堂が見える。
「田中さん、セレスさん、ありがとうございます」
ルーラは心から感謝していた。
扉が開き、新しい来客が入ってきた。
「すみません、予約したルシアです」
「はい、お待ちしていました。どうぞ」
ルーラは微笑みながら、新しい一日を始めた。
奇跡はないかもしれない。でも、誠実に人と向き合うことはできる。
それがルーラの新しい「聖女」としての生き方だった。
ある日、田中とセレスがカウンセリングルームを訪れた。
「ルーラさん、調子はどうですか?」
「最高です!」
ルーラは輝く笑顔で答えた。
「毎日が充実していて、お客さんにも喜んでもらえて…本当にこの仕事を選んで良かったです」
「それは良かった」
セレスも微笑んだ。
「あ、そうだ。田中さん、セレスさん」
ルーラは少し照れくさそうに言った。
「実は、新しいサービスを始めようと思っているんです」
「どのようなサービスですか?」
「『元聖職者のためのカウンセリング』です」
ルーラは真剣な表情で続けた。
「私みたいに、教会で辛い思いをしている聖職者って、きっと他にもいると思うんです。そういう人たちの相談に乗りたくて」
田中は感心した。
「素晴らしいアイデアですね」
「それに」
ルーラは窓の外を見た。
「私、気づいたんです。本当の『奇跡』って、魔法の力じゃなくて、人と人とが支え合うことなんだって」
その言葉に、田中もセレスも深く頷いた。
「ルーラさん、あなたは本物の聖女ですよ」
田中が言った。
「奇跡を起こす聖女じゃなくて、人の心を癒す聖女です」
ルーラは涙を浮かべて微笑んだ。
窓の外では、夕日が優しく街を照らしていた。
かつての「金のなる木」は、今や本当の意味で人々の心を照らす存在になっていた。
「聖女編」をお読みいただき、ありがとうございました。
今回のルーラは、他の編とは少し違った「詐欺の被害者であり加害者」という複雑な立場でした。本人に悪意はないのに、システムに組み込まれて詐欺に加担させられる…これは現実世界でも起こりうる問題ですね。
「奇跡を起こせ」という不可能な要求、露出度の高い衣装の強要、セクハラの日常化…これらは残念ながら、現実の接客業でも見られる問題です。「伝統」や「お客様のため」という言葉で正当化される理不尽。
でも、ルーラは気づきました。本当の価値は「奇跡を起こすこと」ではなく、「人に寄り添うこと」だと。
プラシーボ効果で「治った」と信者が思い込むのは、ルーラが誠実に話を聞いていたからこそ。その技術こそが、彼女の本当の才能でした。
元聖女のセラピスト。
奇跡は起こせないけど、心は癒せる。
それが、ルーラの新しい生き方です。
次回作もお楽しみに!
暁の裏




