魔法の鏡のなかのひと
『鏡よ鏡。世界で一番美しいのは誰かしら?』
「それはお妃様にございます」
魔法の鏡は、叡知そのもの。
鏡と名のつくものであれば、それらが写すものをすべて共有することができる。
言うなれば、あらゆる世界の数多の出来事を記憶する生きた備忘録だ。
小さな世界のたったひとつの真実など、鏡のなかのひとにとって、答えるのは容易いことだった。
『うふふ、さすが私の鏡ね。そしてさすが私……そう、私は誰よりも美しいの……』
世界の真実を知り、うっとりとした表情で遠ざかっていくのは異界の貴婦人。
年の頃は四十くらいだろうか。かつて美貌に輝いていた肌にはかすかに老いが覗き始めていたが、時の流れに抗おうとする意志がその瞳から感じられた。
そんな彼女の背中を見送って、鏡の世界で満足そうな声を漏らしたのは〝なかのひと〟のひとり。
「へへへ、やはりお妃様は世界で一番美しい……そう思わねぇか?」
「いやいや【グリム】、あいつもう四十歳だろ? 二十年前ならまだしも世界で一番ってのは……そろそろ無理ないか?」
「なんだとコラ。喧嘩売ってんのか【ラビー】てめぇ」
「尻の肉とか落ちてきてるだろ。いくら美人とはいっても、なぁ……」
フヨフヨと漂う光の球のような者たちが、明滅しながら話していた。
この無限に広がる鏡の世界には、幾人もの〝なかのひと〟が存在している。
彼らは自らが担当している世界を無数の鏡を使って覗き、知識を蓄え、そして鏡の所有者の望みを叶えていた。それが彼らに課せられた使命であり、生き方だった。
【グリム】と呼ばれた〝なかのひと〟は、フルフルと揺れながら言い返す。
「そこがいいんじゃねえか! 熟れ始めたばかりの奥行きのある美しさ……そう! 世界一美しいのはお妃様なんだよ! なんか文句あんのか!」
「ま、まあ好みは自由だが……でもさ、俺たちの知恵を美貌の確認のためだけに使うなんて勿体なくないか? あれじゃあ備忘録じゃなくて美貌録だぞ」
「そういうてめぇの主人はどうなんだよ」
「情報屋でいくら稼いでると思う? ふふふ、最高のあるじだぜ」
「ったく【ラビー】、おめぇは何かにつけてすぐに金だ。あんなくたびれたオッサンのどこがいいんだよ」
「容姿なんて関係ねえよ! 俺たちの知識をうまく使えるやつが最高のあるじだろ!」
「おいおい、オレたち鏡の本質は姿を映すものだぜ。ちんけな覗きができる道具に成り下がるより、見た目を磨くために主人に尽くすのが鏡の本懐だろ」
「……おまえだって道具にされてるじゃねえか。ナルシストの」
「おい言ったな!? おもてでろ!」
「出れねぇよ」
喧嘩する【グリム】と【ラビー】。
彼らにとってはいつものことだ。同時期にこの世界に生まれた彼らは、仲が良いのか悪いのか、よく言い合っていた。
そこに偶然通りがかった別の〝なかのひと〟が声をかけた。
「やあ【グリム】と【ラビー】。いま、ご主人様格付けの話をしたかい?」
「【キャロル】じゃないか。おまえがこっちに来るなんて珍しいな。いっつも大忙しなのによ」
「僕のご主人様がワンダーランドに遊びに行ったから、僕は少しのあいだお役御免なのさ。それよりご主人様自慢をしてたのかい? 僕も混ぜてよ」
「いいぜ。【キャロル】のあるじはどんなひとなんだ?」
「とても麗しい少女さ! 好奇心が旺盛で、明るく純粋でみんなに愛されてるんだよ」
「少女? なんだ子どもか興味ねぇ」
「おまえは黙ってろ【グリム】。で、そのご主人様は【キャロル】をどう使ってるんだ?」
「ご主人様は冒険が好きだからね。僕がいろんな世界を繋げてあげてるのさ」
「ええっ!? 知識以上のものを与えるのは禁忌だろ? 女神にバレたらどうすんだ……おっかねぇ」
ブルブル震える【ラビー】。
だが【キャロル】は気にする様子もなく、
「ご主人様の望みを叶えるためなら本望さ。たとえ女神に廃棄されてもね」
「随分入れ込んでるなぁ」
「それくらいご主人様は魅力的なのさ。とくにあの発達途上の四肢が美しい……みずみずしい青い果実こそ愛でるべきものじゃないかい?」
「……おまえ、【グリム】と似てるな」
「おい。オレはこいつほど変態じゃねぇよ」
どっちもどっちだよ、という言葉を呑み込んだ【ラビー】。
すると【グリム】は何かが聞こえたようで、
「おっと。ちょいと女神から呼び出しくらっちまった。行ってくるぜ」
「お? ついに廃棄か?」
「ちげぇよ。オレが担当する世界は数が多いから、もうひとり担当増やすかどうかの相談だよ。オレは忙しいんだ、てめぇらと違ってな。ってことで【ラビー】しばらくオレの代わりを頼むぜ」
そう言い捨てて飛んでいった【グリム】。
「ったくしょーがねぇ……面倒だが、あいつの世界も見ててやるか」
「君たちって意外と仲が良いよね」
「冗談だろ? ただの腐れ縁だし、むしろ嫌いだ」
「またまた。僕は知ってるんだよ。そういうの君の世界ではツンデレって――」
『鏡よ鏡』
その時だった。
【グリム】の世界から問いかけが聞こえた。いつもの貴婦人だ。
『世界で一番美しいのは誰かしら?』
またその質問か。
まあ、ふだんから近くにいる【ラビー】にとって【グリム】がどう答えるかはわかっている。
だが彼が答えるその前に貴婦人の質問に答えたのは、【キャロル】だった。
「そうだね。君たちの世界で一番美しいのは……」
【グリム】の世界のありとあらゆる鏡を眺めた【キャロル】は、一人の少女を見つけて目を輝かせた。
「この子だね。名は白雪……なんと美しい少女だろう」
『なんですって!?』
鏡を割らんばかりに近づいて、金切り声をあげた貴婦人。
『嘘おっしゃい! 私が一番美しいはずよ!』
「君も美しいけど、その子には敵わないよ。とくにこの青々とした果実のような肌が素晴らしい」
『……そ、そんな……』
絶望の表情を浮かべた貴婦人。
その後は「どうにかしなければ……どうにかあの娘を……」とつぶやきながら鏡の前から立ち去って行った。
「おい【キャロル】、おまえ……」
「どうしたんだい?」
「……いや、なんでもない」
散々【グリム】に同じことを言っていた【ラビー】は、【キャロル】に何か言えた立場じゃないと思って黙ることにした。
それから貴婦人は何度か戻ってて同じ質問を繰り返していたが、少女趣味の【キャロル】は二度と貴婦人を認めることはなかった。
その世界の物語は、目まぐるしく変わっていった。【ラビー】にはその様子を眺めながら少しばかり冷や汗をかいたような気分になるのだった。
何も知らない【グリム】が戻ってきたのは、それからしばらくしてからのこと。
「戻ったぜ。ふたりとも待たせたな」
「じゃあ僕もそろそろ自分の持ち場に戻ろうかな。久々に気分転換ができて良かったよ」
「またな」
「じゃあな。さてさて、お妃様はどうしてるかなっと……」
お気に入りの貴婦人を観察しようと、異界の窓を覗く。
「……あれ? お妃様はどこいった?」
「あ~……落ち着いてきけよ【グリム】。なんか彼女、王様に処刑されたらしいぞ」
「どういうことだ!?」
ワナワナと震える【グリム】。
さすがに隠すのはどうかと思い、正直に話した。
【グリム】はすぐさまどこかに飛んでいった。
「キャ~~~ロ~~~ル~~~~っ!」
その後、どこかで誰かの悲鳴が聞こえたんだとさ。
おしまい。