【コミカライズ】冤罪で追放された元聖女は、軍人侯爵に拾われて(身代わりですが)幸せに暮らしています
──この村に来ないで!
時は、春。
村に襲いかかってきた魔物の群れと対峙した少女は、恐怖に震えながら神に強く祈った。
するとどうだろう。少女の身体からは眩い光が発せられた。
そうすると、先程まで火を噴き毛を逆立てていた炎狼が途端に大人しくなり、きゅるると愛らしい声まで出しながら踵を返して村から引き返してゆく。
「奇跡だ」
誰かがぽつりと言った。
炎狼に襲われたら最後、彼らは村の全てを焼き尽くすまではその場を去らないと言われている。
当然ながら人も襲う。今回負傷した者だっている。
だがこうして、炎狼がしっぽを下げてとことこと帰路につく様を見たことがある者は誰もいない。
︎
「聖女様じゃ……!!!」
そのあまりにも現実離れした光景に、誰かが呟いた。聖女だ、と。
「エレイン! お前、聖女だったのか」
「すごいじゃないか!」
「ありがとう、エレイン」
炎狼と対峙した少女――エレインの元には、涙を流しながら村人が集まった。
この小さな村は、かつて魔王を討ち滅ぼした勇者が建国したとされる大国フォルティスの東の端の半島にある。
たった百人程度の小さな村。みんなで助け合って暮らしているような、のどかな場所だ。
炎狼に襲われたら、ひとたまりもない。村は地獄の業火に焼かれ、生き残ることも難しかっただろう。
エレインも村人の一人として、ずっと慎ましく暮らしてきた。凡庸な茶色の髪に少しだけ珍しい桃色の瞳をもつだけの少女である。
ただこの日、何の変哲もない十歳の少女は聖女となり、話を聞きつけた役人により王都へ移管されることになったのだった。
******
エレインが王都の教会に来てから六年の月日が経った。
「この役立たず!!」
「……ごめんなさい」
教会に所属する聖女は十数人ほどいる。
上級聖女は日々お祈りや王侯貴族への治癒、その他下っ端の聖女はそれぞれが毎日救護院での奉仕活動に忙しい。
エレインも例外でなく、忙しい毎日を送っていた。
――聖なる力がほとんどないということを除いて。
あれだけ強大な力を見せたエレインだったが、王都に来てからは全くといっていいほど調子が出ない。
上級聖女になんてなれるはずもなく、微力な聖力しかないエレインは奉仕活動もままならない。
最も力が弱いエレインは、こうしていつも仲間の聖女たちの憂さ晴らしによく怒鳴られている。
「あんたはもういいから、大聖堂の掃除をしておきなさい! 勿論ひとりで。私たちは力を使って疲れてるんだから、それくらいのことはやりなさいよ」
「……はい。わたし、聖堂に入るとなぜだかとても体調が悪く作業が遅くなってしまうので、出来れば他の場所を…」
「知らないわよ。治癒作業の役にも立たないクセに、言い訳ばっかり並べないで! まったくもう、なんでアンタみたいな聖女がいるんだか!!」
「申し訳、ありません」
激高する先輩聖女を前に、エレインは頭を垂れた。言い訳をするつもりはないが、大聖堂に近づくと、目眩と動悸が激しくなり、とても立っては居られなくなる。
這うように掃除をすることしか出来ず、時間が物凄くかかってしまい、またその事を聖女だけじゃなく司教たちにまで詰られる。
「村に帰りたいです……」
クラクラとしながら、エレインは大聖堂のチャーチチェアを磨く。身体を動かせば少しだけ楽になるのも不思議だ。
それでも、頭の中は暗く重い。教会の中でも特に大聖堂がこの症状が顕著に出る。
青い顔をしながら掃除をしているエレインを見て、彼女たちはまたあざけ笑うのだ。
――でも、どうしてなのだろう。
村にいた頃は、こんな風になったことはなかった。
下っ端聖女として騎士団の遠征に随行した時も、きちんと力は発動して、魔物たちを追い払うことが出来たのに。
王都に戻ると、途端に力が抜けてしまう。
「エレイン、大丈夫?」
「……アンジェリカ」
エレインのところにやって来たのは、同じく下っ端聖女のアンジェリカだ。輝く金の髪と湖面のように澄んだ瞳をもつ絶世の美少女。
エレインの見立てでは、上級聖女と言われている人物よりもずっと聖力が高いように思えるが、なぜだかアンジェリカは下っ端扱いされている。
無能なエレインと同様に冷遇されている様子から、きっとこれは他の聖女たちからの嫌がらせなのだと察した。
「お掃除、手伝うよ」
「……大丈夫。アンジェリカはもう救護院の手伝いをしたんでしょう? かなりの人数を治癒して疲れているはずだよ」
「大丈夫。ここにいたら、不思議と力が湧き出すもの」
先輩聖女たちに無理難題を押し付けられたはずなのに、確かにアンジェリカの顔色は良く、疲れは見えない。
だから余計に躍起になって彼女たちは嫌がらせに精を出すのだが、全く効果がないようだった。
「あとは床磨き? 私のモップ掛けの腕前はなかなかのものよ! 見ていてね、エレイン!」
「ふふ、なんですか、それ」
ふらつくエレインに代わり、アンジェリカはさっとモップを手に取ると軽快に掃除を始めた。
もう立っていられない程だったため、エレインは彼女の好意に素直に甘えることにする。
「エレイン、あなた本当に顔色が悪いわ。どこか具合が悪いのではない?」
「一時的なものだから、大丈夫。何度か診察してもらったけれど、どこも異常はないもの」
「……私の力で治せたらいいのに」
悔しそうなアンジェリカに、エレインはふるふると首を横に振った。
「あなたの貴重な力を、わたしなんかに使うことはないです。他にもっと困ってる人がいるもの」
上級聖女の力は強大だ。小さな怪我は跡形もなくなるし、不治の病も病気の進行を遅れさせることが出来る。歴史上最も有名な大聖女ともなると、切断された四肢を繋げることも、魔王を封印することも出来たという。
――その分、聖女は短命だ。
長生きをした聖女はいない。勇者と共に魔王と闘った大聖女も、その戦いで亡くなったと言われている。この国の歴史を刻む経典にも聖戦として刻まれている。
そんな貴重な力を自分なんかに使う必要はない。そう思ってエレインが断ると、一度は目をまん丸にしたアンジェリカは、ふんわりと微笑んだ。
「どうしても無理な時は言ってね?」
「うん、ありがとうアンジェリカ」
同い歳のアンジェリカとエレインは、朝日が射し込む大聖堂で微笑みあって約束を交わした。
*********
それから、わずか数日後のことだった。
エレインは寝ているところを先輩聖女たちに叩き起され、大聖堂に引っ張り出される。
「エレインを連れてきました」
「きゃっ!」
聖壇の元には司教や司祭たちが揃っており、エレインはその人たちの面前につき飛ばされた。
突然のことで足がもつれ、そのまま転んでしまう。目の前に星が飛び、何が起きているのかまるで分からない。
「エレイン。無能聖女のくせに、大聖女アンジェリカ様のことを長年虐げた上、その貴重な聖力までもを私物化していた罪で魔境への追放刑とする!」
「……え?」
顔を上げると、馴染みの司教たちが汚いものを見るような目でエレインを見下ろしていた。先輩聖女と共に、エレインをいびっていた人たちだった。
「……ど、どういうことでしょうか」
ギシギシとした体の痛みを感じながら、エレインはそれだけ絞りませた。だが、司教は顔色ひとつ変えない。
「口答えは許されない。お前の振る舞いは目に余る。先日も、大聖女アンジェリカ様にひとりで聖堂の清掃をさせていたそうじゃないか」
「それは……」
「フン、心当たりがあるだろう。自らの治癒もさせていたのだろう、厚かましくも!」
アンジェリカは確かに掃除を手伝ってくれた。だけれど、エレインは彼女を虐げるつもりはなかった。それに、彼女からの治癒を受けたことはない。
先輩聖女の方を見ると、彼女たちはくすくすと醜悪な顔をして笑っていた。
見渡しても、この場にアンジェリカの姿はない。でも、さっきからしきりに『大聖女アンジェリカ様』と呼ばれている。
――そっか。良かった。アンジェリカはようやく認められたんだ。
冷たい床に顔をつけたまま、エレインはそのことに安堵した。濡れ衣を着せられて追放されるようだけれど、何よりこの王都から出ることが出来ることが嬉しい。
下級聖女は一度教会に入れば、教会と王家の許しを得ない限り還俗することが許されないのだ。
「わかりました」
悪意に満ちた聖職者たちを前に、エレインはそう答えた。
魔境というのは王都から遠く離れた廃れた地で、神の加護が及ばない場所とされている。
村にいた頃よりももっとたくさんの魔獣と出会うことになるだろう。
そんな所に捨て置かれる無能聖女がどうなるのか――想像にかたくない。
それでも、エレインは今の生活にすっかり疲れきっていた。毎日苦しい体調不良の状態でここで生きるくらいならば、魔境に行っても変わらないだろうと思った。
「では、罪人への刑を執行する」
この日、エレインは荷馬車に乗せられ、魔境へと連れていかれることとなった。
王都を出た馬車は魔境の手前で魔物の大群に襲われた。 命からがら逃げ出した御者は、後に教会に報告したという。
***********
王都を出てひと月程が経った。
魔境まで送ってくれるはずの馬車は、周囲の魔物の気配に怯えた馬が一歩も動かなくなり、途中で引き返すことになった。何もない草原にぽつりと捨て置かれたはずのエレインだったが──
なぜだか現在、ふかふかのベッドの上にいる。
「よく寝ました……」
ベッドから起き上がってぐいと伸びをする。エレインは数年ぶりに身体の軽さを感じている。
長年まとわりついていた頭痛や肩こり、眼精疲労やだるさがまるでない。綺麗さっぱりない。
魔境まではまだ距離はあるけれど、この辺りが人間の最後の居住区なのだろう。
聖女の結界から遠く離れた魔境には魔物が溢れ、とても人が暮らせる状況ではない。
ここは魔境に隣接する領地、ハイラント領だ。
エレインはなぜだかハイラント領の領主邸にて、こうして広々とした部屋をあてがわれていた。
「失礼いたします、エレイン様」
朝の支度をしようと思えば、いつもタイミングよく侍女がやってきて、エレインをさっと着替えさせる。
それから庭で散策がしたいと申し出れば、快く了承され、空気の美味しい庭園にてぽてぽてと朝の空気を吸い込んだ。
「……お腹が空いたなぁ」
「は! ただいま!」
エレインがお腹をさすりながら呟くと、風にのって声がした。
「あっ、違いますよ!?」
そう答えたが、周りにはもう声の主の姿は見えない。
「アーヴィンさま……?」
恐る恐る、虚空に向かって話しかけてみる。
「はい、なんでしょう」
すると、何もなかったはずの空間がくにゃりと歪み、そこから赤髪の男が突如として現れた。
彼はニコニコと笑っていて、その手元には可愛らしいカップケーキの入った籠がしっかりと握られている。
「エレイン様。どうぞこちら人気のカップケーキだそうです」
「早すぎませんか!?」
「いえ、エレイン様を一分もお待たせしてしまいました。まだまだ遅いくらいです……精進いたします」
「いえ、そんなことは……」
「はい、どうぞ」
満面の笑みでカップケーキを差し出され、エレインは眉を下げながらそれを受け取った。
エレインの目の前にいる人物は、アーヴィン・ハイラント侯爵。このハイラント領の領主である。
魔境に捨てられ、聖女としての力も最弱であるエレインは、あの草原で最期を迎えるものと思っていた。
その時も、この朗らかに微笑むアーヴィンと名乗る赤髪の男が目の前に立っていたかと思えば、すぐに地面に跪いたのだ。
『お会いしたかったです』と目にうっすら涙まで浮かべて。
それからよくわからないままに、エレインはこのアーヴィンに毎日世話を焼かれ、格段に元気になった体でとても快適な日々を過ごしている。
アーヴィンは無造作に伸びた赤い髪を緩やかにひとつに束ね、その瞳は夜の月のような温かみがある金色だ。
"軍人侯爵"であるこのハイラント家は、古くから魔境との境界を護り続けている一族だと侍女から聞いた。
その当主であるアーヴィンとはまるで面識はないが、不思議なことに、初めて会ったはずの彼をどこか懐かしい顔に感じてしまうのはなぜだろうか。
「エレイン様。すぐにお茶をいれましょう。場所を陽当たりのいいサロンに移しますね」
彼がぱちりと指を鳴らすと、草原からあっという間に家の中に移動した。
ロッキングチェアーに腰掛ける形で転移したエレインは、驚きこそすれ、もうこの転移にも慣れてきた自分がいることも分かっている。
もくもくと口を動かしてカップケーキを咀嚼する。甘くておいしい。甘味は村や教会時代には絶対に食べられなかった代物だから、余計に美味しく感じる。
「どうぞ」
「あっ……ありがとうございます」
喉が渇いたところで流れるように温かなお茶を差し出され、エレインはティーカップを口に運んだ。
喉が潤い、あたたかさでお腹もじんわり温かくなる。
(アーヴィンさまは、一体どうして優しくしてくれるんだろう)
初めて会った日からこうしてエレインをお世話してくれているが、その目的も分からない。
軍人侯爵として名高いアーヴィンだからこそ、自領で野垂れ死にそうだったエレインを見捨てられなかったのだろうか。
湯気の向こうにいるアーヴィンをじっと見つめていると、彼はぱちぱちと瞬きをした。
「エレイン様、昨日は夜更かしをしたのではありませんか」
「……ど、どうしてわかるんですか?」
「睡眠不足はお肌の敵です。しっかりぐっすり寝ていただく方法考えないといけませんね」
かつての聖女時代のことを夢に見て魘されて眠れなくなっただけなのだが、アーヴィンは真面目な顔をして何やら考えているようだ。
アーヴィンは何もない空間の渦へと手をつっこみ、何やら桃色の装丁の本を取り出した。
「ええと……人間だったら安眠効果のあるハーブもいいのか。風呂にしっかり入って温まる……日中よく遊ぶ……寝る一時間前には部屋を暗くして絵本の読み聞かせ……」
「待って、それは幼子の寝かしつけの本ではありませんか?」
「ああ、本当だ。これは人の子の育児書でした」
本のタイトルを確認したアーヴィンはそれをまた空間の渦へと戻した。便利すぎる。
『ひよこサロン』と書かれていた。育児マニュアルとして名高いシリーズである。
「ふ、ふふっ!」
(完璧な人かと思っていたけど、そんなおちゃめな一面もあるんだ)
エレインは思わず笑みをこぼしてしまう。
元は全く知らないアーヴィンに警戒したエレインだったが、日々おかんのように世話を焼かれていくうちに、少しずつ心を開いている。
不思議なことに、外でたまに魔物が彷徨いていたり、例の炎狼がこの家の近くを通ったりするというのに、エレイン自身はまったく襲われないのだ。
身体も健康そのもの、いびられることも無理難題を押し付けられることも無い生活。
追放されてからの方がとても快適だ。
「アンジェリカは元気にしてるかな」
エレインはぽそりと呟いた。
ただ、彼女にお別れを言えなかった事だけが気がかりだ。彼女のことを唯一の友人だと思っていたから。
「――大聖女アンジェリカ」
エレインの声を拾ったアーヴィンは、初めて聞くような低い声を出した。地を這うような重低音が部屋に落ちる。
「ご存知なんですか?」
「はい。王都はその話題で持ちきりですよ」
「そうなんですね」
一瞬、アーヴィンの瞳が剣呑に光ったように見えたが、気のせいだったようだ。いつもの優しい笑顔に戻る。
王都で話題になるなんて、さすがはアンジェリカだ。きっと幸せになっているに違いない。
「そうだ」
「どうかしましたか?」
エレインは、あることを思い出した。聖女時代に読んだ経典に記されていた一節だ。
「そういえば、この世界に大聖女が誕生するのは、魔王の復活と対になっていると言うような記述が経典にありました。世界はそれを繰り返している……と。それって本当なんでしょうかね」
「……」
その度に魔王は大聖女に封じられることになるし、大聖女はその闘いで生命を落とすことになる。そんなことを繰り返すなんて、不思議なことだ。
世間話でもするつもりでエレインは話しかけたつもりだっただけれど、アーヴィンの表情は硬く、いつも柔らかな瞳はどこか遠くを見つめている。
(アーヴィンさま……? どうしたんだろう)
エレインが首を傾げていると、アーヴィンはハッとした顔をして急に立ち上がった。
その視線はエレインの上、虚空を見つめている。
「エレイン様。大変お待たせいたしました。ようやくあちらの準備が整いました」
「えっ?」
「このような粗末な家屋での暮らしでご不便をおかけし申し訳ありません。本来あるべき場所へと向かいましょう」
「あるべき、場所?」
アーヴィンがエレインにそっと手を差し伸べる。いつも以上に美しい笑顔だ。
よく分からない。
だけれど、その妖艶な微笑に魅入られるようにしてエレインはおずおずと右手を伸ばした。
アーヴィンの手に触れると、いつもの空間転移のように空がぐにゃりと歪み、黒い渦が浮かび出す。
「――はい、我らが魔境へと参りましょう。魔王様」
その闇の前で、アーヴィンはそう言った。
……
「え?」
「はい」
「いやあの、まおうって……」
「はい。エレイン様は魔王様の生まれ変わりでございます。魂の色で分かります」
「たましい」
「はい。ちなみに私は、当時あなた様に仕えていました。聖女に封じられたのち、私が先に転生したようですね」
「へえ〜……」
いや待って。
エレインは全力で混乱した。
「あ、あの、わたしは聖女だったんですが」
「……その件については大変言いにくいのですが、全く違います」
優しくもきっぱりとした物言いだ。
いつも穏やかなアーヴィンに本当に申し訳なさそうに眉を下げられて、なんだかこちらが悪いことをしている気持ちになる。
「……もしかして、わたしが魔獣に襲われないのは」
「はい。あなた様が魔王様であられるからです。魔獣は自分よりも強い存在に抗いません」
「つよい」
「エレイン様は、内なる力はとてもお強いのです。前世の忌まわしき聖女の封印の名残で、一割も発現していないようですが……それも魔界のものを摂取しているうちに良くなるはずです」
「魔界のもの」
「ええ。魔界の食べ物です」
にっこりと微笑むアーヴィンの笑顔の奥に、どこかほの暗いものを感じる。
いつもエレインに食事を用意してくれていたが、それはもしかして――……
エレインがぐるぐると考えていると、パッと空間が切り替わり、大きな城の前に立っていた。
魔境の向こう側というくらいだから、鬱蒼として暗いイメージがあったがそうではないらしい。
かつて王都の教会から眺めた宮殿に似ている。
「エレイン様、我が主。おかえりなさいませ」
呆然としているエレインの前で、アーヴィンは跪いて頭を垂れた。
「そんな……っ、頭を上げてください」
「帰還をお待ちしておりました」
(アーヴィンさまの瞳に映るのは、わたしだけどわたしじゃない)
そのことに少しだけ胸が痛む。
きっと、魔王はアーヴィンにとって大切な主人だったのだろう。そしてアーヴィンの方が歳上だから、ずっと待っていたに違いない。
「エレイン様を発見した時にはもう王都の教会に入られており、お助けできずに申し訳ありませんでした。強力な結界と大聖女の存在に阻まれていました」
「……もしかして、何度か教会を襲撃しました?」
「はい。お恥ずかしながら、失敗してしまいましたが」
王都の教会がこれまでの六年間に度々襲撃を受け、その度に「前代未聞だ」と司祭たちが騒いでいた事を思い出す。
なるほど、とエレインは思った。
エレインが魔王であるから、教会での暮らしは辛く苦しかったのだ。
魔王が復活したから、大聖女も現れた。
アーヴィンは普段は人として暮らしているが、実は魔王側の存在で。
「わたしが魔王だから、優しくしてくださったんですね」
思わずぽろりとこぼれていた。
優しさに触れる機会が少なかったせいか、エレインはアーヴィンを好きになってしまっていた。
もちろん身分も違うから、一生口にすることはないと思っているけれど。
いやでもそもそも、急に魔王だと言われて「そうなんだ〜」とはならないだろう。
「そうなんだ!?」くらいの衝撃はある。
「エレイン様は、エレイン様です」
アーヴィンはエレインを見上げたまま、柔らかに微笑んだ。
その金の瞳の真意は汲み取れないが、エレインも笑みを返す。
(身代わりですね、了解しました)
きっとエレインはアーヴィンが想う魔王にはなれない。いくら彼の瞳に魂がそう映ろうとも、エレインはエレインだ。
(――だったら)
「わたし、身代わりでも大丈夫です! 」
エレインはアーヴィンに向かって満面の笑みでそう宣言した。
なんせ、これまで随分と抑圧された環境で暮らしてきた。
この地に降り立ち、今までにないほどの気力が満ちていくのを肌で感じる。
信じれないことだが、確かにエレインの身体はこの魔境のほうが自分のあるべき場所だと認識してしまったらしい。
身代わりだったとしても、現在の暮らしは今まで生きてきた中で最も快適だった。ここに住まうことになれば、ますます快適さに拍車がかかりそうだ。
魔王が何をする職業なのかはわからないけれど、きっとあの暮らしよりは良いはずだ。
(だから今は、これで満足です)
ふう、と息を吐く。思いの丈をぶつけて、エレインはとてもスッキリしていた。
やり遂げた気持ちすらある。
「――身代わり?」
最初は驚いた顔をしていたアーヴィンが、金の瞳を剣呑に細めた。その瞬間。巨大な鳥がばさばさと大きな音を立てて樹木から飛び立つ。
心なしか、周囲の温度も少し冷えてきたように思える。
「アーヴィンさま?」
「……なるほど。そう捉えておいでなのですね」
アーヴィンがにこりと微笑むと、さらに周囲の温度が下がった気がした。いや気のせいではない。あのあたり、氷柱ができてないか。
「先の討伐であなたが現れて魔獣たちを蹴散らした時に、さっさと攫っておけば良かったですね」
にこにこと微笑んでいるが、目の奥が笑っていない気がする。そんな様子のアーヴィンを見て首を傾げつつ、エレインは美しい魔王城を指さした。
「アーヴィン様、早く入りましょう!」
この先のことを考えると、エレインの胸は高鳴る。
衣食住が揃ったこの空間で、優雅な身代わり魔王ライフが始まるのだ。
今まで知らなかったけれど、魔界の食べ物はとっても美味しかった。あの紫色のカップケーキも、かぶりつくほどの大きな骨つき肉も。
「……ええ。エレイン様には色々と早急にお教えしなければならない事があるようですしね」
「? 分かりました。勉強は嫌いではないので楽しみです」
「ぐっ……」
胸のあたりを押さえて呻いているアーヴィンを不思議に思いながら、エレインは階段を駆け上がる。
身体が軽い。どこまででも飛んでいけそうだ。
(魔王生活、楽しそう~~!!!!)
エレインが喜びに打ち震えると、空がカッと眩く光った。一瞬のことで、気のせいだったかも知れない。
とにかく今は、新生活への期待で胸がいっぱいだ。アーヴィンもついてきてくれるようだし、これほど心強いことはない。
魔王エレインは軍神アーヴィンを引き連れて嬉々として入城し、とっても楽しく暮らしたという。
エレインの歓喜により空が光ったあの日、特大の雷が王都の教会に落ちて大火事になるという大変な騒ぎがあった。負傷した神官や聖女もいたんだとか。もう関係のない話ではあるけれど。
そして大聖女アンジェリカが魔王討伐の名目でこの魔王城を訪ねて来て、アーヴィンと激しい喧嘩(諸説あります)をしつつ、エレインと仲良く過ごすのはもう少しあとの話である。
お読みくださりありがとうございます。
魔王女子(?)が見たかったので書きました。
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