後編
その晩、左大臣家では俺の送別会として宴が開かれた。ついでに葵の兄ちゃんが先ほどのやり取りを大々的に暴露し、左大臣夫妻には大いに喜ばれ、使用人たちに至るまで生暖かい目で見られて非常に恥ずかしかった。
だけど、この家の人たちはみんな、俺たちの仲を祝福してくれた。幸せだな、と心から思えたのは転生して初めてのことかもしれない。
それから二条の屋敷に居を移した俺は、今まで以上に勉学に打ち込んだ。
必要とあらば親父に頭を下げ、宮中に滞在して最先端の授業だって受けた。
たまには息抜きもしていたけどな。なろー小説平安Verを書き綴ってみたのだ。
たまに二条院へ遊びに来る葵の兄ちゃんに勧められて世に出してみるとこれがなかなか好評で、儲けた分を学費に回すこともできて一石二鳥だった。
ところで最近、頭中将に昇進した葵の兄ちゃんなんだが、彼の正室は弘徽殿の女御の妹である。政治的バランスのために結ばれたバリバリの政略結婚で、あまり夫婦仲は良くないと聞いていたのだが。
「なんかさー、妻がね、悪役女御の続きを読みたいっておねだりしてくるんだよな。前は嫉妬深い女でうざかったけど、共通の話題があるとなんだかかわいいかな、って思うようになってきてさ」
などと惚気だかよくわからないことを言いながら続きを要求されることが増えてきた。夫婦仲の向上に役立っているならなによりである。
頭中将には葵との文のやり取りを手助けしてもらっている恩もあるので、悪役令嬢もとい悪役女御の話は優先して流すようにしている。
さて、話を宮中に戻そう。俺が宮中で授業を受けるときはたいてい異母兄である東宮と共に学ぶことになるのだが、この兄ちゃんがあのクソ親父と弘徽殿のオバハンの息子とは思えない聖人君子なのだ。
少し気の弱いところはあるが優しい人で、自分より出来のいい異母弟なんか嫉妬と憎悪の対象でもおかしくないのに、
「光はすごいね。わたしも精進しなくては。ここがわからないのだけど、教えてくれるかい?」
と教えを請い、お礼として珍しい菓子までくれる。授業が終わった後も自室で学習を続けている姿を垣間見るたび、もう兄ちゃんが帝位につきなよ、と心底思う。兄ちゃんの後ろ盾である右大臣は権力志向で、優しい兄ちゃんを傀儡にしてしまいそうだから、なかなか難しいところではあるんだけどな。
……と、最近までは思われていたのだけど。ここ数年で、少しずつだが、風向きが変わってきた。
どうも、俺が親父に啖呵を切ったとき、弘徽殿のオバハンを持ち上げたのがよかったらしい。あの頃から、弘徽殿の女御からの風当たりがちょっとだけ和らいだ。
おまけに頭中将に渡していた悪役女御ものが妹を通じて弘徽殿のオバハンの手に入った結果、妹以上にドはまりしてしまった。
『能力の足りない帝を補佐するために入内したのに冷遇される女御と、征夷大将軍に上り詰めた幼馴染の衛士(実は先帝の遺児)が、無能の帝を打倒して結ばれる』というどっかで聞いたような話を書きあげた弘徽殿のオバハンは、一躍悪役女御ものの神として貴族女性の間で大人気となった。
今ではたまーに親父が弘徽殿の女御に声をかけても、「今、執筆で忙しいんで。悪役女御と衛士の関係、いとエモし!!!」と全然相手にされないとか。へっ、ざまぁ。
そんな感じで創作活動に目覚めた弘徽殿の女御は、俺にかまっている暇が皆無となった。
更に頭中将と北の方の夫婦仲が改善されたことによって、仲の悪かった左大臣と右大臣も歩み寄りを見せ始めている。
そうして、兄ちゃんはついに左大臣、右大臣双方の派閥から支持を得た。喜ばしいことなのに、不満を示したのは他ならぬ桐壺帝、クソ親父だった。以下は頭中将からのタレコミである。
「勉学は光の方が優れているというのに、このまま東宮を帝位につけてよいものか……」
ある日の御前会議にて、よりにもよって文武百官の前でそんなことを愚痴りやがったらしい。
「……それの何が問題なのでしょうか?」
親父の傍らに控えていた左大臣が、一見平素と変わらぬ穏やかな表情で問いかける。しかしながらその目は笑っておらず、帝を見る目はとてつもなく冷ややかだったという。マジかっけぇっす。
「第一皇子殿下は東宮にふさわしいお方でございます。それを私情で曲げることこそ、道理にかなわぬ行いというもの。……陛下が今のままでは、わたくしめはついてゆけませぬ」
「左大臣!よくぞ言うてくれた!これからは我ら二人、手を取り合って行こうぞ!」
長年の政敵同士だった左大臣と右大臣がついに公の場で手を組んだのだ。胸熱展開だね。少々右大臣が調子いいのは否めないけど。
実は俺、何を考えているのかわかりやすい右大臣家の面々がそんなに嫌いではなかったりする。弘徽殿のオバハンのカーチャンへの仕打ちだけは許さんが。
政界の頂点に君臨する二人の大臣が見限ったことで、桐壺帝は徐々に力を失っていった。
俺が十三歳になった今では、己の無力と世の無常を嘆きながら、清涼殿(帝の私室)に籠ってお気に入りの女と愛欲に耽る日々だという。
ますます仕事から離れた帝に代わって東宮が執務を代行し、臣下たちもこれを支えた。
心配された右大臣の専横だけど、左大臣が目を光らせているし、東宮も祖父に対して毅然とした態度をとれるようになってきた。右大臣もあれで思うところあったのか、昔よりは丸くなったという話だ。
そしてついに、俺が待ち望んだ日がやってきた。元服の日だ。
東宮である兄ちゃんの計らいで立派な元服の式が催され、左大臣もかつての申し出通り加冠の役を務めてくれた。
厳かな儀式の後に宮中を出た俺は、婿入り先である左大臣邸にて豪勢な歓迎を受けた。けど、どんな歓待よりも嬉しかったのは、ずっと会いたかったあの子に会えることだ。
あとは若いお二人で、と早々に送り出された居室では、俺の奥さんになる女の子が座していた。記憶より長くなったまっすぐな黒髪。白塗りの化粧でもわかる凛としたきれいな顔立ち。
「葵!会いたかった!」
何より親愛の籠った眼差しが、あの頃と全く変わっていなかった。
「わたくしも、お会いしとうございました」
どちらからともなく手を取り合った俺たちは、互いの額をくっつけて笑った。
次の瞬間、葵の全身から力が抜けた。いい香りのする華奢な体を抱きとめてどぎまぎする俺だったが、すぐに異変に気が付いた。葵が気を失っている。
「え、ど、どうしたんだ!?大丈夫か!?」
彼女に何かあっては大変だ、とにかく人を呼ぼう、と立ち上がったところで袖をつかまれる。すぐに意識が回復したようだ。それはいいのだが、葵の眼差しが茫洋としている。
「あ、れ……?わたし、わたしが、葵の上……?でもこの状況、なんで、光源氏と葵の上の幼少期に、交流なんてなかったはずじゃ……?」
虚ろな目がゆらゆらと周囲を見回し、俺と目が合ったところで、はっきりと目に光が戻った。葵は何かに驚愕したように目を見開いて、そして言った。
「あなた、もしかして、立木君……?」
なぜその名前を、と言いかけて、俺は思い出した。四年前、葵のきらきらとしたまなざしに、あの子の顔を重ねた時のことを。
「まさか、更科さん?」
問いかけた瞬間、葵の顔が悲痛な泣き顔にゆがんだ。
「ぁ……あ、ああっ……!い、嫌、どうして、私のせいで死んじゃうなんて、嫌だ、ごめんなさい、立木君ごめんなさい、ごめんなさい……!」
俺が死んだ日の続きみたいに泣きじゃくる彼女の姿を前に、茫然としたのは一瞬だった。
「君のせいじゃない!」
考えるより先に、あの時言うべきだったことを叫んでいた。
「俺がバカだったんだ、更科さんを守るだけならやり方はいくらでもあったはずなのに、頭に血が上って、更科さんや電車の運ちゃんや家族にたくさん迷惑かけた!」
ぼろぼろに泣いて、罪悪感で押しつぶされそうな彼女。俺の死後、真面目なこの子はどれほど後悔を背負って生きてきたのだろう。可哀そうで、申し訳なくて、たまらなかった。
「俺のほうこそごめん、更科さん。でも俺、あのクソ教師にたてついたことだけは後悔してないんだ」
葵――更科さんは大きく頭を振って、泣きながら謝罪の言葉を繰り返している。そのたびに俺は、君のせいじゃないと言い続けた。
そのままどれほどの時間が過ぎたことだろうか。
周囲が真っ暗になるころ、彼女はようやく落ち着いた。行燈のほのかな光に照らされた表情を見るに、罪悪感が完全に払拭されたわけではないらしいけれど、それはそれとして状況を一度整理することになった。
「改めて、あんなことになってごめん。あの後、大変だったよな?……あ、負担だったら全然、話さなくていいんだけど!」
目の前で元同級生がひき肉になった瞬間など思い出したくもないだろう。我ながらデリカシーのない話題を振ってしまったが、更科さんは気にしないでと首を振った。
「あの後、ね。私、やりたいことができて大学を辞めたんだ」
「あんな難関大学を!?もったいない!!!」
「法学部に入り直すのが手っ取り早かったから。私、立木君のことを間接的に殺した自分のことは許せなかったけど、あいつのことも絶対に許せなくて。弁護士になって、あいつの悪行を調べて復讐することにしたの」
あいつというのはたぶんクソ教師のことなんだろうが、具体的に何をしたのだろうか。
「私一人の力じゃ無理だったよ。立木君のスマホの録音データを提供してくれた君のご家族や、仕事を失うことになった運転士さんも協力してくれた。それに調べるほど他にも被害者がいて……あいつに社会的地獄を見せてやった。だから私も、死んだら地獄に落ちるものだと思ってたんだけど」
更科さんはつきものが落ちたような、それでいて少し寂しそうな顔で呟いた。
「物語の登場人物に転生なんて、なろー小説みたいなこと本当にあるんだね」
「それな。でもすぐに状況を把握した更科さんはすげぇよ」
「そんなことないよ、あいつに散々馬鹿にされたのが逆に原動力になって、現代語訳の源氏物語を読んでみただけだし……」
「だから源氏物語に詳しそうな感じだったのか。俺なんか転生して三年くらいはファイヤーボールが使えないか試してたぜ?今思うと現実逃避の一種だったんだろうけど」
「立木君らしいね……」
そこでようやくかすかな笑いの気配を感じて、俺は少し胸をなでおろした。
「それで、源氏物語のキャラクターの葵の上?の人格が消えて更科さんになったというより、忘れていた前世を思い出した、って感じ?」
「まさにそんな感じ。今は前世に引っ張られてこんな話し方だけど、左大臣家長女の葵として生きてきた人生も違和感なく残ってるよ。よくわかったね……って、そりゃそうか、立木君は転生の先輩だものね」
「いや、俺は赤子の時から前世の記憶があったから参考にならないと思う。ただ、四年前の時点で葵が更科さんっぽいなって感じたことがあったから。前世の記憶がないだけで、人格自体は更科さんだったんじゃないかって」
何の気なしに俺がそういうと、更科さんが固まった。
「四年前……あの、好きだって言われた覚えがあるんだけど、それはつまり、葵が好きってだけじゃなくて……」
「うん、更科さんの人格だから好きになったんだよ」
正直に告げると、更科さんは声にならない悲鳴を上げた。羞恥と混乱で悶えているようだ。
「わ、わたし、でも、前世は復讐と仕事一辺倒で、三十一で過労死した喪女なのですがっ!?むしろ立木君が亡くなった原因なのに、そんな、夢みたいなこと、もったいない!!!」
「年の差なら、俺も前世含めれば精神年齢三十一だしむしろ同い年じゃね?というか、更科さんそんな若くして亡くなったのか」
三十一歳といえば、俺が死んでから十三年しか経っていない。そういえば、俺も光源氏としては現在十三歳だな。
「だから前世を思い出したのが今だったのか?だとしたらちょっと残念」
「残念って何が!?」
「だって、お姫様の呪いは王子様のキスで解けるのが昔話のセオリーだろ。さっきのおでここっつんで更科さんの記憶が戻ったんだったらロマンチックだなぁって」
「おでこの接触はキスではないですよね!?」
混乱のあまりどうでもいいツッコミをする更科さん。うん、困らせて申し訳ないけど、死にそうな顔でごめんなさいと繰り返す彼女より、今のほうがよっぽどいい。
「ところで更科さんこそ、俺が立木だってよく気が付いたね」
気を取り直して俺が疑問に思っていたことを尋ねると、更科さんは当然と言わんばかりに頷いた。
「そりゃぁ気が付くよ。ここが源氏物語の世界だとしたら、光源氏の性格が原作と変わりすぎだもの」
だとしても、光源氏の中の人が俺だと気づく要因にはならないのではないだろうか。俺が内心で首をかしげていると、更科さんは小さな声で続けた。
「それに私だって、姿が変わったくらいで好きな人のこと、間違えたりしないし……」
「えっ、告白!?嬉しいです俺も好きです結婚してください」
「こ、告白じゃない!……ことは、ない、です、けど……」
かろうじて告白であることを認めてくれた更科さんは、ためらいがちにささやいた。
「私で、いいの?光源氏はモテるよ?原作ではいろんな女性と恋愛するし、それでなくても私は立木君の死因みたいなものだし……」
「更科さんがいいんです、君にモテなきゃ意味がないんです」
彼女はさらりと言っていたが、大学を中退して法学部に入って弁護士になるなんて、とてつもない苦労だったはずだ。
そこまでして俺のために復讐してくれて、転生してからは四年もの間、他の男に靡かず待っていてくれた。
「こんな人に惚れるなというほうが無理っしょ」
「それは私のセリフだよ……」
「……それならさ、更科さん。葵。一緒に幸せになろう」
手を差し出すと、彼女はおずおずと握り返してくれた。
「ところで平安時代の結婚って男が奥さんのとこに三日通うと成立するんだよね」
「そうだよ」
「三日しか通っちゃダメ?毎日通いたい、むしろ左大臣家に住みたい」
「立木君、左大臣大好きだよね」
「何しろ実父がクソだからね!それに左大臣がいなきゃ葵と結婚できなかったし、恩人だし」
「……私の真のライバルは紫の上ではなくお父様というわけか、なるほど」
「違うと思うよ!?」