2.初恋の行方(3)
「だったら早速だけどさ、帰りに車屋さんに寄りたい。パンフもらう」
「車買うんか」
晴嵐が相変わらずくしゃくしゃのソフトパックから煙草を抜き、一本咥えた。
おそろしい。居酒屋でもないのに、このご時世に食堂が分煙ではないなんて。
春鹿はわざとらしく煙そうなジェスチャーをしてから、
「やっぱり車がないと生きていけないなって。ってか、この辺、ディーラーなんてないよね。あ、でも田町らへんには車を飾ってるお店はあったよね? あれって代理店なの? まさか車も農協に頼むとか?」
「中古でいいなら知り合いに聞いてやるべ」
「知り合いって、同時に私の知り合いでもあったりする?」
「やまびこ村の人だげれど年も離れてらし、俺も働き出しでがら知り合ったし、おめは知らねはず。新車買うよりその方が納車早ぇし、調子わるぐなったり、冬タイヤに替えたり、点検も電話一本で済むで、楽だぞ」
やまびこ村とは、集落としてはずいぶん離れているが、町の人間の視点でくくれば同じ山間部の村だ。
春鹿はしばらく考えてから、
「そっか。それならお願いしようかな。あ、車種とか特にこだわりないからって伝えて」
「おう」
晴嵐は早速その場でメッセージを送ったようだった。
*
「こったな量、町がら来た観光客なみの買い物だべ!」
「だって、ついつい興奮しちゃって」
直売所の野菜は新鮮だし安いのでついつい買い過ぎた。
春鹿持参のエコバッグだけでは入りきらず、不要の段ボール箱をもらってそれに詰めたものを晴嵐が前に抱えている。
「こんなに買って食べぎれるのか? つかよ、近所がら野菜もらうべ?」
「誰も独り暮らしのじいさんの家になんかおすそ分けしてくれないのよ。父ちゃんが腐らせるからって断ってたみたいで」
ちょうど売り物の種を見つけて、
「来年は父ちゃんと畑でもしようかな」
「手伝うべ」
「農作業できんの? あんたの家、畑ないでしょ」
「ねえけど、仕事がねぇどぎ、近所の畑の手伝いはするべー」
そう言って、春鹿を置いて先へ歩いて行く。
目線より高いところにある安っぽい金髪頭。サイドも襟足も少し伸び気味だし、なにより染めた髪の根元が黒くなっている。
父親への師事を決めた頃、茶髪だったのを黒くして落ち着いた記憶があるが、再会したときには昔よりも派手な色になっていた。
三十四にもなってそんな髪色をして、さすが田舎者よと見下していたりする。
しかし、それ以上に、晴嵐はこの田舎で立派にやっているようだ。
過疎地では若者が圧倒的に不足しているので、運転や力仕事ができる人間は頼りにされる。もはや依存の域だから、晴嵐にかかる負担は大きいはずだ。それが嫌で出ていく者も多い。
『三滝の先生のところの坊ちゃん』と一段上の立場にあって、ちょっと顔も良かったものだからお山の大将だった晴嵐も、今や年寄りの足に使われたり、畑を手伝わされたり、ダサい頭を好んでいるセンスといい、お父上のような伝統工芸職人としてのカリスマ性は培われず、一般人化してしまったのか。
晴嵐の家は昔から特別だった。
畑も田んぼもやらず、しかし、村の人はみんな三滝家に収穫した野菜や米、それも出来がいいものを持って行く。
晴嵐の父も祖父も『先生』と呼ばれる人で、村でも他の家とは違う扱いだった。
村民の意識もそうだったし、実際、住み込みの職人もいて、人の出入りが多い。閉鎖的な村にあって唯一、『外』の匂いを感じられる場所だった。
井の外を知った今でこそ、そんな格付けは白銀村だけの話であって、三滝家も多部家も団栗の背比べだとわかるが、当時は晴嵐にさえ、眩しい想いを抱いていたが。
「さ、いい材料もたくさん手に入ったし、がぜんやる気出てきたー。私、結構料理好きでさー。父ちゃん、今夜もジャリさん家かなー」
「東京メシって、変わった香辛料使って、変わった味がすんだろ?」
「なにそれ、偏見? 嫌味?」
「俺にも食わせろ」
「なんで。お醤油とみりんの普通の田舎メシだっつーの」
「たまには俺も違うモン食いだいのよ。三十年も母ちゃんの飯食ってりゃ」
「あのねー! むしろ三十年も作ってもらってるの、感謝しなよ! 言っとくけど、当たり前と思ってるかもしれないけど、おばちゃん相当料理上手だからね?」
いい年して、毎食母親に作ってもらっているらしい、この男は。
三十四年間、家を出たことがない晴嵐に、春鹿はため息が出そうになった。
ニートではないし、家内工業なのだから、自宅暮らしも責めるべきではないとわかっているが。
直売所のはしっこの情報コーナーに特産品や地域の特性がパネル展示されいた。
土地の歴史や地形、風土の解説から、農業、狩猟、林業、そして伝統工芸の銀細工。
由来や工程などが説明されている。
春鹿は足を止める。
「……この辺りのことなんて全部当たり前だと思って放置してたけど、知らないことの方が多いね。伝説とかなんとなくしか覚えてないし」
身近にありすぎて気にも留めたのとがなかったことを、改めて図解され、つい感心してしまう。
「昔は何も思わなかったことに興味を持てるようになったのって、年取った証拠だよね。あ、三滝の先生だ」
晴嵐の父の作業風景の写真があった。参考として、白無垢の花嫁衣装に実際に使われている写真と、歌舞伎や人形浄瑠璃の写真。女方のかつらに用いられているらしい。
ガラスのケースの中には、銀細工の花簪の実物も展示されている。
「ねぇ、晴嵐が人間国宝を継ぐの?」
「世襲じゃねえべ、俺が親父と同じになれるがはわがらん。まぁ、一応後継者候補っでごとにはなってるけんど」
「でも、白銀が誇るかけがえのない伝統工芸だもん。承継していかなきゃいけないんでしょ」
のぞき込む位置に展示されている花簪を、晴嵐は段ボール箱を抱えたまま、じっと見下ろした。
「伝統だから技術を残すんでねく、俺は、『美しいから作る、だからずっと続いていく』にしてぇのよな」
「ふうん、よくわからんけど。がんばれ」
「おめは昔がら銀細工に興味ばねぇもんな」
「そんなことないヨ!」
「嘘つぐな。知ってるよ。別にいいさ。人の自由だ」
春鹿は晴嵐が仕事をしているのを実際に見たことはないし、確かに銀細工自体にたいした興味もないが、晴嵐の作品は一つだけ知っている。
春鹿が結婚するとき、噂で聞きつけたのか知らせたわけでもないのに、父を経由して送られてきた花簪だ。
花簪をまじまじと見るのは、小学校の頃に遠足で銀糸細工資料館に行ったとき以来だったが、そのとき見たどれよりも晴嵐の作ったものは精工で輝いていた気がした。
底なしに澄み渡る銀は、あまりにキラキラと光を跳ね返し、そのびらびらに触れて見れば羽のように軽かった。銀線は一面の雪のような白で、小さな花が無数に並ぶ様はメレダイヤのパヴェにも劣らない。
時間も、場所も、遠く故郷から離れてしまっているのだと再認識せざるを得なかった。
田舎のヤンキーくずれのチャラチャラした晴嵐が、こんな立派なものを作っただなどと信じられず、誰かに作ってもらったのを自分作と言っているのではないかとすら思ってしまったくらいだ。
しかし、桐箱に押された落款印の名は確かに晴嵐と読めた。
実のところ、春鹿は式のウエディングドレスをもう決めてしまっていた。
それを、無理を言って衣装を和装に変更してもらった。
花簪を、銀細工の里と呼ばれる地元を、はじめて誇りに思えた瞬間だった。
持ち帰った数少ない荷物のなかにも、それは入れてきた。
花嫁道具だが、娘ができたら七五三の時にも使うらしい。
家に帰ったら久しぶりに花簪の箱を開けてみようと思ったとき、「あ?」と言って晴嵐が段ボール箱を片手に抱えなおす。
スマホに着信があったようだった。
空いた手でポケットから引き出したスマホの画面をちらりと見て、
「あー、悪ぃ。そろそろ帰らねばなんね」
そう言って、足早に出口に向かって歩き出した。