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銀に白鹿、春嵐  作者: 佐久間マリ
番外編・雪月花
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雪(後編)

 妹が生まれたのは、俺が小学一年生になる春だった。


『山に花っこさ咲いだら、雪と月に妹ができるよ』と言われて、俺と月は毎日のように雪に覆われた山野に花を探していた。

 と同時に、母のお腹がどんどんと膨らみ、はち切れんばかりになっているのがすごく怖かった。


 そんな時に、母と誰かの会話を立ち聞きしてしまった。

 聞きかじった話の内容に俺の不安はさらに大きくなり、当時住み込みでいた職人の外国人のジョーを探して尋ねた。その頃、ジョーは唯一の大人の友達だった。


「なあ、ジョー! ていおうせっかいってなに?」


「テイオウセッケイ? テイオウ? emperor? ちょっとマッテ」


 そう言うと、ジョーはその日本語をスマホで調べてくれた。

 小学校に入る前の子どもが帝王切開の説明を受けたとして、その行為で母が死ぬと想像することは当然だろう。


 花が咲けば、咲いている花を見つけさえすれば、妹は産まれて、母は死なずに済むと思った。


 家で一人遊んでいた月のもとへ急ぎ、

「げつ。おれ、おやまにのぼるぞ」


 当時、何をするにも俺の後をついてまわっていた月だったが、その時ばかりはさすがにひるんで、

「おやまはおっかねよ。ぱぱもじっちゃも怒るじゃ」


「すたばて、いえのまわりには、はなっこさまださいでね。もう、おやまをさがすしかね」


「え、でも、ゆぎのおやまはいっだらだめだって、ぱぱもじっちゃもいつも……」


「ママしんでまるぞ! おれはひとりでもいぐ。ママがしんだら、いもうとがかわいそうだ」


「えっ……へ、へば、ぼくもいぐ!」


 春と言ってもまだ暦の上、ひと冬分の雪を積もらせた山に俺は一つ下の弟を連れて入った。

 幼子二人、当時の知識で考えうる精いっぱいのスキー用の格好をした。


「ほんとうのごというと、おれ、なんかいもないしょでひとりでのぼっでら」


「ぼくもぱぱとなんかいものぼってらす!」


 その日、幸いにも天気だけはよかったが、だからといって山に雪解けの気配は一切なかった。

 すべてが雪に覆われていて、そんな子どもが入って無事なわけがない。

 

 息も苦しくて、足も前に進まない。当時の身長では手や腕で雪をかき分けすすむようなものだった。

 それでも俺は無我夢中で前を目指した。

 どこに花が咲いているのかなんて知りもしないのに。


 頬が痛くて、指先もつま先も冷たく痺れて、雪の反射がただまぶしかった。

 すごくまぶしくて、目がくらんで、そのうちに視界が真っ白になって、何も見えなくなった。

 晴天だったので吹雪や暴風雪で起こるホワイトアウトではなかったはずだが。


 次の瞬間、俺はそれまでのズボズボと一歩一歩が沈むような雪原ではなく、銀の粒を敷き詰めたような輝く雪の上を歩いていた。

 ふわふわのじゅうたんの上のように簡単に歩ける。


 そのとき、笛の音ような甲高い声がした。

 見ると、木々の間に鹿が立ち止まってこちらを見ていた。


「あっ、しかだ!」


 子どもらしく、動物の姿にテンションが上がって、俺はなぜか急に元気を取り戻していた足で追いかけた。

 鹿は少し走っては、俺が追いつくのを待って、どれくらいそれを繰り返したか、その鹿があるおおきな石のあたりで立ち止り、雪を掘るような仕草を見せてから駆け足で立ち去った。

 そこまで追いついてみると、岩陰の下に清水が流れていて、なんとそこに黄色の小さな花が咲いていた。


「あ、った……! はなだ! げつ、はなっこさあっだ……!」


 興奮気味に振り返ったそこに、いるはずのちいさな弟の姿がない。

 歩いてきたはずの雪原に、自分の足跡もない。


「……げつ? おい、どこだ? げつ! げつ!?」


 そびえる山と、永遠とも思える雪に、とうとう腰が抜けたのか、尻もちをついたそこは深く積もった雪の中だった。はまったら今度は抜け出せなくなった。


「げつーーー! パパーーー! ママーーー!」


 思い切り叫んでも、自分の声がこだまして返ってくるだけだった。

 白すぎて、人間も動物も木々にも生命の息吹が全くない。

 空は澄み切った青で、無情なくらい遠かった。


 どれくらいの間、諦めていただろうか。

 子どもながらに死を覚悟した気もする。

 音を立てて、枝から雪が落ちて、その瞬間なにかから引き戻された。

 

「せつー!!!」


 雪原の向こうに、黄色い人の形をした動くものが見えた。


「……ぱ、パパ!」


「雪!」


 まるでブルドーザーのような勢いで、大人の膝までもあった雪を大股で掻き分け、父は俺のもとへやってきた。

 力強い腕に小さな体が持って行かれる。


「大丈夫かっ! 怪我は!? 痛いどごはねが!?」


 すごい勢いで手袋を引っこ抜いて脱がされ、父は俺の指を見た。凍傷を負っていないか確かめるためだ。


「パパ、げつが……げつが……」


「大丈夫だ、月なら無事だ」


 月は父が引っ張ってきたそりに乗せられていた。

 父に着せられたのだろうありったけの防寒着をぐるぐるまきにされ、だるまのようだった。おまけに頬はりんごのように真っ赤だった。けれど、笑顔がみえる。


「雪、寒ぐねが?」


「うん」


 水筒から注いだ湯気のたちのぼる飲み物を手渡され、その飲んだ熱いレモネードは本当に美味しかった。

 父が母に電話をかけた。

 父は泣いていた。

 

「げつ、花っこあっだぞ」


「ほんとうだ! こぃでママは死なねなあ?」


 通話を終えた父が、俺と月の頭をガシガシと乱暴になでる。


「……ああ、雪と月が頑張っだがら、ママは死なねし、妹も元気に産まれてぐる。もう心配すな」


 父は雪の中で膝をついて、俺と月を抱きしめた。

 父の腕は力強かった。母がいないぶん、父のハグは隙間がなくて苦しかった。

 苦しいと思いながら、父の背中の向こうに見た白の世界を、おれは18になった今も忘れたことはない。


 父は俺たちを解放して、

「ほでなすっ!」と一喝してから、

「しかし、どごに咲いでだ? よぐ見づけだなぁ」


「しかがおしえでぐれた」


「鹿?」


「パパ!」


 月が叫んで、向こうを指差す。


 鹿の親子がいた。

 立派な角をもった雄一頭と、その隣に小さな小鹿。

 子どもの方はまちがいなく、さっき花のところまで導いてくれた鹿だ。


「鹿、白い……」


「パパ、あのしろいしかが、このはなっこさ、みづけでくれだんだ」


「おとうさんしかとあかちゃん?」


「ああ、親子だ……、白鹿の……」


「はくしか?」


「白い鹿のこどだべ……」


「……パパ?」


 父は俺を抱き上げ、被っていた毛糸の帽子を取った。

 一礼し、

「……感謝します」


 今度は片方の腕に月をも抱き上げ、「おめらを守ってぐれだんだ」


 遠巻きに俺たちを見ていた二頭が、体の向きを変えた。


「あっ、しかさんたち行ってまる!」


「お母さん鹿が待ってらえさ、帰るんだ」


 鹿の親子は、木々を縫うように奥へと進み、やがて針葉樹に紛れて見えなくなった。


「さあ、俺たちも帰るがな。ママが心配しでるぞ」


 後で聞いた話では、月が遭難していたのは登り口からほんの数十メートル入ったところだったらしい。

 それに比べて、父が俺を見つけたのは三号目あたりの地点で、そんなところまで子供の足で、ましてや雪山を登ったことは信じがたい事実らしかった。

 不思議な体験だと感動されたとともに、父と両方の祖父、母にもこっぴどく叱られたことは言うまでもない。 


 けれどその数日後に、花が産まれて、家中それどころではなくなった。


 黄色の花を見つけた岩は実在した。


 今の俺たちの足なら三十分もかからずに来られる。

 山を登った際に、ここに花が咲いているのを見つけると、俺も月も、必ず摘んで帰る。流石にこれから冬本番というこの時期に可憐な花の姿はなかった。


「アイヅもいねな」


「さっきは雪兄に会いだぐて鳴いてだぐせに」


「また会えるがな」


「会えるんでね? じっちゃに言わせだら、雪兄は山の申し子らすいがら。ばって、あれは山の神様らしいし、そう簡単には会えないかもね」


 月がポケットからスマホを出す。


「あ、花が家であめりと待っでる早ぐ帰っで来いっでLINE来た」


 大人になりかけの頬を、あの時と同じように雪の中で赤くして、真っ白な息を吐いて。


「へば、帰るべが」


 ふもとの登山口でおそらく、父が待っているだろう。


 こんなにも大きくなった俺と月だが、今日はあの頃みたいに二人を一緒に抱きしめてくれるんじゃないかと、そんな気がした。





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