17.白鹿、はるあらし
春鹿は最近、ノーメイクで外に出ることがあまり気にならなくなっている。
心境の変化か、環境の変化か。
東京にいた頃、必死に気にしていたことの優先順位が下がって、ネイルもしていないし、服装もおしゃれより防寒機能が第一だ。
気の張る場所や相手がいないというのが理由としては一番で、どうでもよくなったというのが正しいけれど、これはこれで今の暮らしにあっていると思っている。
「昨日の遭難事故で、三滝さんも捜索に駆り出されたとかで。ご苦労様でした。やっぱり雪山は怖いですね」
心底心配そうに、カフェ・バーチのマスターがテイクアウトのコーヒーを手渡してくれるのを春鹿は受け取った。
「ああ、そうだ。春鹿さんのインスタでウチのコーヒー、宣伝してもらってありがとうございます」
「いえいえ、ただ紹介しただけで……。宣伝なんていうほどの拡散力はないのが申し訳ないくらいで」
ぽつぽつと春鹿は投稿数を増やしている。
カフェ・バーチのタグと、白銀村タグを入れることで、この辺りに住む人たちからフォローされるようになった。そのおかげで手に入れられる地元情報が格段に増えた。
田舎都会関係なく、現代人はみんな情報を欲している。
「やっぱり春鹿さんはセンスが都会的ですよね。この辺の方とは違いますもん。服とかもやっぱり東京帰りって感じです」
「え、そんなこと……」
朝帰りの日に言われるとちょっと居心地が悪い。けれど、春鹿にとって十二分な誉め言葉だ。
「でも、ありがとうございます」
「こちらこそ、毎度ありがとうございますー」
マスターは釣銭を手渡しながら、ところで、と待っていたように話題を変えた。
「この前、田舎で暮らすアイデンティティーがないって言ってたでしょ」
「ええ」
春鹿は頷く。
「今はSNSでみんなが発信するから、ライフワークだったり夢や野望を持っている人がクローズアップされがちだけど、田舎の人は、都会の人が忘れてしまったり、簡素化簡略化したことも、無駄だったり大変だったりするのに続けてるじゃないですか?」
「ああ、ありますね」
雪が降ったら雪を掻く。
保存食に漬物を漬ける。
畑でとれた旬のものを食べ、山野草に季節を感じる。
物でもコトでも古いものを大切にする。
歴史から学んで、その土地を知る。
伝統の意味を知る。
マスターは滔々と語る。
「そういうのって、十分『丁寧な暮らし方』として主張できるアイデンティティーだと思うんです」
「丁寧な暮らしって、意識高い系の方たちがよく言ってる……」
「そう。不便を工夫で補ったり、不便を楽しむじゃないけど。例えば、うちのコーヒーだって東京なんかじゃ名もなき一杯としてあっという間に消費されていくだけだけど、ここで出せば、皆が味わって飲んでくれる。些細なことに楽しみと満足を覚えられる。本質を見抜ける、小さな幸せに気づける。それも立派な才能です」
誰に認めてもらえなくとも、誰かに発信しなくとも、自分自身が気分よく、満足に暮らせていたら、それこそが『勝ち』なのではないかとマスターはいつになく饒舌だった。
「『他人と自分を比べるのは低レベル。ライバルは生涯ただ一人、昨日の自分だ』って。これは高校の時の部活の監督の言葉なんですけど」
「え、何部だったんですか?」
「野球部です」
「えー、っぽくない!」
よく言われます、とマスターは笑う。
「『何者』かにならなくてもいいし、なれなくていい。必ずしも人生で『何者』かになる必要なんて、ないんじゃないかな」
*
その年は、いつになく雪が深かった。
「あッぢィ!」
しゅんしゅんと音を立て、ストーブの上で薬缶が沸いている。
ふたを少しずらそうとして晴嵐は火傷しそうになった。
「おい、餅は何個だ?」
「二個。バターたっぷりで」
「味付けさ自分ですれ」
毛糸の鍵編みでパッチワークにしたこたつカバーは、村の婆さんの手作りだ。
晴嵐がいろいろと世話をしてその礼としてもらったのだが、頓着のない晴嵐でもダサいとわかる代物だ。捨てるに捨てられずにいたところ、田舎臭さが逆にいいと言って、春鹿が家のこたつにかけて使い始めた。
どの辺がどういいのか、晴嵐には理解しかねる。
そんな田舎丸出しの色合いをしたこたつ布団で、寝たままの春鹿は裸の肩を出している。
「晴嵐、優しくない。私がもう釣れた女だから?」
「あのなぁ、おめが食いでって言うがら、ひゃっこい台所がらわざわざ干し餅取っできで焼いでやってるのが優しさでねがったら何だべ? づが、なんか着ろ」
「寒くないもん。あんたこそ、裸でお餅焼いてるの変だから」
晴嵐はパンツ一枚で、石油ストーブの前に箸を片手に屈んでいる。
確かにストーブを二台も焚いてある田部家の居間は、暑いとさえ思える室温だった。
薬缶の隣に網を載せて、そこで『干し餅』を晴嵐は焼く。腹が空いたと訴える惚れた女のために。
切り餅を水に浸したあと吊るして寒さらしにして作る郷土料理だ。
「カーテンも閉めてないのに。丸見えだよ?」
「俺はいさ。おめはダメだろ」
雪見障子から見える外は夕暮れだがまだ明るさは十分に残っている。
最近はずいぶん日が長くなってきた。
しかし、気づけばいつも雪は降っている。
「こんな天気だもん、誰も来ないよ」
たとえ誰かが来たところで、窓の外は人の目線の高さまでは雪が積もっているし、それ以前に結露が自然の曇りガラスになっている。曇るだけでは飽き足らず、露が滝のように流れている。
晴嵐と春鹿は、表面上は今までと変わりなかったけれども、時間が合えば春鹿の家で逢瀬を重ねていた。
人の目を盗んで、と言うと聞こえは悪いが、豪雪地域の冬はどの家も閉鎖的になるので隠さずとも気づかれない。
加えて以前から晴嵐が入り浸っていることは多かったので、変化と言えば二人きりのその時間がプラトニックではなくなったことだ。
「あ、揚げ餅もいいなぁー」
「油で揚げるのはさすがに自分でやってけじゃ」
今の時代、男女の形はいろいろある。
週末婚、別居婚、事実婚、何でもありだ。男女にさえ限らない世の中だから、形があっても、なくてもいい。
晴嵐は、最初に春鹿を抱いた朝にそう伝えた。
自分たちの関係は、恋愛でも、そうでなくてもいい。春鹿がよかれと思う名前をつけた関係にしようと。
一度だけでも、何度でも。
今だけでも、帰って来たときだけでも。
約束があっても、約束がなくても。
結局、今も春鹿と晴嵐の関係に名前はまだついていない。
夕食のあと、
「これ、いいじゃん」
「何見でんだ?」
並んで炬燵に入っていた晴嵐が春鹿のスマホを覗き見ると、表示されているのは三滝工房のSNSだった。
「ああ、それな。最近作っだやつ」
ニューヨークのジュエリーブランドを意識したデザインで作ったピアスだ。
確かに、意匠としては三滝工房の新しいチャレンジとも言える。銀細工でありながら銀細工っぽくない。銀細工の伝統的な手法をあまり用いず作られている。
「これ、見たい。工房にある?」
春鹿が目を輝かせて言う。
「あるけど、今が?」
「うん、今。だめ?」
「こっだな時間に工房さ行ったっきゃ、一瞬で凍え死ぬぞ」
「大丈夫。温かくして行くから。行こう」
雪足は弱まっていたが、工房に着くころには二人の身体には雪がかぶっていた。
雪を払い、入り口の鍵を開ける。
パチンと音を立てて照明のスイッチを入れると、カチカチと蛍光灯が鳴って明るくはなったが、静けさがあらわになって寒さがより際立つ気がした。
春鹿は実物を手に取った次の瞬間、
「これ欲しい。買わせてよ」
と顔を上げた。
「なんだ買わせてっで。こんぐらいやるべさ」
「ううん。ちゃんと買う。いくら?」
「へば、100円」
「もういい、千世ちゃんにほんとの値段聞くもん」
晴嵐を睨む。
「あのなぁ、おめに買わせるわげがねだろが」
いくら言っても、春鹿は買うと言ってきかない。
確かに、ハイブランドのアクセサリーしか興味ないらしい春鹿にとっては比べるまでもないほどの安価だ。
「こういう民芸品系のアクセサリーはあんまり趣味じゃないんだけど」
「知っでる」
「でもこれは欲しい。いいよ。おしゃれだよ。普段使いでもちょっとしたパーティでももちろんフォーマルなパーティでもいけそう。真珠にも劣らない輝き」
「サンキュ」
「大切にする」
長居は無用と帰ろうとしたとき、
「これは?」
春鹿がプリントアウトされ、机に置かれた写真を見つけて手に取った。
ティアラが様々な角度から撮影されたものだ。
「これ、月桂樹?」
「ああ、いいべ?」
「うん。お正月に晴嵐がもらったやつ?」
「あれにインスピレーションさ受けで、海外向けの展示会さ出すた」
「へえ……。うちに飾ってるあれはなんかスポーツの優勝感あるけど、これはないね」
「なんだべ、スポーツの優勝感って」
晴嵐は笑う。
今の晴嵐に作ることができる最高のものは間違いなくこの作品だ。
春鹿が欲しがったピアスも評判はいいが最高傑作とは言えない。売れるようなデザインを意識して作ったもので、白銀細工らしさをあえて出していない。
しかし、このティアラは、月桂樹の葉を一葉一葉作って、それを見事な形で茂らせてティアラにするという技術的にも、作業時間的にも圧倒的に大変だった。
銀の月桂樹。
手前味噌だが写真よりも、手元にはないが実物はもっといい。
「……いづか賞さ取っで、白銀細工を有名にする」
結局のところ、それは晴嵐の夢であり、意地であり、ここで暮らして終わっていく人生の全てになるだろう。
「だはんで、俺はこごでけっぱる」
いつかの日のために。
自分のために。
春鹿を諦めた、その対価にふさわしい結果として。
「……うん、けっぱれ。応援してる」
春鹿が、ピアスの箱を大事に持ち直した。
もうすぐ春が来る。




