16.祝福(4)
広さや仕様を選ぶまでもなく駐車場と部屋が直結している仕様で、ごく普通の設えだった。広くはない。ベッドだけが中央に存在し、横に時代の遺物のようなガラス張りのバスルームがある。
「春鹿。一体どうすた? 気分は……って、なんだべ急に……」
長靴を脱いで、後から部屋に入って来た晴嵐に、春鹿は正面から抱きついた。
頬に当たる撥水素材の上着がごわごわとして固く、不快だった。晴嵐の温もりも匂いもない。雪で濡れてさえいる。
けれどさらにきつく腕を回して、離さない。
「……おい、ハル。おい、ちょ、わんつか、待で……わっ、危ねっ」
抱き着いたままぐいぐいと押しやって、とうとうベッドに押し倒した。
「……どうすた?」
明るいとも言えないダークピンクの照明の下で、晴嵐を見下ろす。
「……なんで泣いぢゅんだ?」
とうとうあふれた涙が、ぼたぼたと続けて晴嵐の頬に落ちた。
それを気にも留めず、拭いもせずに、晴嵐はその手を春鹿の頬に添え、そっと包むように触れる。
「雪山が怖かったのが? 心細ぐであっだのが?」
春鹿は首を振る。
「へば、どうすた?」
「あんたが……」
「俺が?」
「晴嵐が、いい男すぎて、眩しいよ」
込み上げる涙を堪えて言う。
春鹿を見上げる晴嵐が一瞬のち、切なげに口角を上げた。
「……寒さで、頭さおがすくなってまったのが?」
おかしくなどなっていない。
「ただ、あんたが眩しい……」
春鹿はゆっくり、ゆっくりと下りて、ゆっくり唇を重ねた。
晴嵐は重ねられるがままに春鹿を受け入れて、目を閉じた。その手が春鹿の後頭部に回されて、引き寄せられる。
「……あんまり煽るんでねよ」
長い間、雪の中にいたはずの晴嵐の唇は、冷たくなくて暖かかった。
春鹿の瞳からこぼれた涙が、落ちて晴嵐の目尻に伝う。
何度も何度も、角度を変えて交わり、柔らかいその感触をただ味わう。
忘れていたものを思い出したが、懐かしいとは思わなかった。
ただ、この地に帰って来て、すぐそばにずっとあったものなのによく忘れられていたものだと思う。よく触れずにいられたものだと思う。
キスすることが二人にとってこんなにも自然な事なのに。
春鹿が上から覆い被さるように口づけるままだったのを、晴嵐の力で上と下が逆になる。
そこでようやく唇が離れて、春鹿は目を開けた。
すぐ上にある晴嵐を見上げる。
春鹿を見下ろすその目とその表情には、切実なまでの真剣さしかなかった。
「あったごどの後だ。俺も気さ昂ってら」
雪山での山岳救助は常に死と隣り合わせだ。人は極限状態にあると動物的本能で性的欲求が増す。
平然と変わりないように見えた晴嵐だが、内には燃えるものを燻らせていたらしい。
「おめも、当でられたのが?」
春鹿の髪を梳くように触れる。
「……そうかもね」
誰の何の役にも立たず、恐怖と畏怖を感じていただけだったが。
いや恐怖と畏怖の前にあってこそかもしれない、この感情は。
「あんたが愛しくて仕方ない」
両腕を晴嵐の首に回して抱き着いた。
「……やめねよ?」
確かめるように聞く。
返事の代わりに、唇を晴嵐の頬にこすりつけた。
「もう、やめれね」
晴嵐は上半身を起こして、撥水ジャケットを脱ぎ捨てると、重ね着していたスキーインナーからも身体を引き抜いた。
部屋の暖房は効きすぎるくらいに効いていて温められている。
春鹿も自分で脱いだ。ダウンジャケットと、セーターと、長袖のインナーと。
普段着のなかでも一番の普段着で生活感以外の感情を持てないような服は、当然ながら色気も雰囲気もあったものではない。
そして下着に手をかけた時、動きを止められる。
「ソレと下は、俺が脱がす」
高校生男子のような好奇心丸出しの顔で言う。
「脱ごうが脱がされようが、もうこの状態だと一緒と思うけど」
「全然違う。……なんだ、あー、男の夢?」
「夢、しょうもな!」
ムードも、事前にありがちな駆け引きもない裸になるための脱衣。
さらにはむしろ見咎められる前に取ってしまいたい機能性重視のブラジャー。
けれど、恥ずかしくなかった。
それ用のおしゃれなランジェリーや、それ向けのロマンチックな場所は自分たちには似合わない。
そもそも毎日が華美な装飾や贅沢品を必要としない素朴な生活だ。演出や小道具の必要ない。
ここでは数少ない娯楽のひとつであり、暇つぶしであり、切実な生殖でもあるが、愛し合う者にはただの摂理。
向かい合って座った状態で素肌に近い格好で抱きしめられると、肌が粟立った。
寒いわけではない。
背中に回った手がホックを外す。
そっと後ろに倒され、仰向けになる。
「……高校んどぎがらだと何年だ?」
「えーっと、十五、六年?」
「ずっとお預けくらっだままだった」
再びくっついた唇と唇は、さっきまでの存在を確かめるためのものではない種類のキスだった。
長い間『待て』をしていたというくせに、舌が絡むまでにも長い時間がかかった。
舌が絡んでからも長くて、焦れた身体を晴嵐に押し付けたくらいだ。
乳房を包む手も優しかった。
ただ、記憶していたものより動きにためらいはなかった。
高校生だった二人がそれぞれ大人になった証だった。
外の雪はまだ降っているのか、もう止んでいるのか。
外の様子が一切わからない窓のない部屋はちょうどいい。
理性的ではない色の照明の中で、時間を忘れて、すべてを忘れて、本能的な昂りを鎮め合った。
*
吹雪の中に一人で立っている夢を見た。
寒さで目が覚めた。
いつの間にか、うとうととしていたようだ。
布団はしっかり肩まで被っているが、なんせ裸なので肌にじかに触れる綿の素材が冷たい。
視線だけで晴嵐を探すと窓辺に立って煙草を吸っていた。あろうことか窓を細く開けて、パンツ一丁で。
きりきりと冷えた現実の空気は清々しいに違いないが。
「……ちょっと、さむいんですけど」
「ああ、悪ぃ」
開けた窓の隙間から外を眺めていた晴嵐が煙草をもみ消す。続けて窓を閉めた。
窓ガラスは結露で面積の半分以上が白く曇っている。
「起ぎたか」
「……雪、どう?」
「まだ降っでる」
晴嵐はベッドの端に腰かけ、丸くなっていた春鹿を薄っぺらい羽毛布団でぼすぼすと包みなおした。暖を取ってくれているようだ。
「こご、毛布なぐで」
「てゆーか、あんたそんな格好で寒くないの?」
「さっき風呂入ったがら」
「え、全然気づかなかった。私、どれくらい寝てた?」
「んー、一時間ぐれがな。ようぐ寝でだ」
「ごめん」
「なにも謝る事でねさ」
枕もとのデジタル時計は午前零時を過ぎたところだった。思ったより深夜ではない。
部屋に入った時からついていた有線チャンネルはJ-POPの流行歌で、同じ曲が何度か繰り返し流れている。
聴くたび春鹿は今夜のことを思い出すだろう。
「……こっち来て」
甘えるように言って顔を見上げると、無言で布団のなかに滑り込んできた。
「もう! 身体冷たいじゃん!」
「くっつけば温だまる」
そう言われて春鹿は手も足も絡ませてしがみつくようにくっつく。
寝たままスマホを手に取った晴嵐は、「戸田に」そう言ってメッセージアプリを起動させた。
「……戸田君や千世ちゃんにバレたかな」
「前にも市内で泊って朝帰ったごどあったべ」
「そういえば、そんなこともあったね」
「雪かき、俺がいねと段取り狂うがら連絡しとかねど」
「朝、帰らないの?」
明日、厳密にはもう今日の話だが日曜日なので二人ともスキー場のシフトが入っている。
「直接行ぐべがど思ってらばって、おめは帰らねばいげねが? 化粧どか着替えどか」
「もういいよ。時間もったいないし」
「へば、まだ時間はあるな」
よっ、とスマホを枕元に置く。
肘をついて上半身を起こすと春鹿の方を向き、空いた手で髪に指を通してくる。
「寝ないの?」
「寝でらぃるが。もっだいね」
「明日の仕事、平気?」
「俺は構わね。おめは寝不足でつらぇがもすれねばっていいが?」
「頑張るよ」
始まりのキスを待つ格好になったとき、晴嵐の動きが直前で止まった。
「……煙草臭いかもしれねわ」
「いいよ、煙草の香り、好き」
東京では嫌悪していた煙草さえ、好きな人の愛しい香りと思えてしまうのだから恋とはおそろしい。
今度は春鹿がストップをかける番だった。
胸板を押し返しながら、
「あ、でもちょっと待って。私も一回シャワーしたい」
「あとで。一緒さ風呂行ご。洗ってやる」
「待って待って。お腹も空いた。ルームサービスとかあるかな」
「カップラーメンなら部屋の自販機さあっだ」
「それ食べよ」
「もう一回してがら」
「どれだけするの。身体もたないよ」
「朝が来るまで。……限界までだ」
結局、朝が来ても、時間ぎりぎりの限界まで、二人は肌と肌のままだった。




