13.年の瀬(2)
大みそかに吾郎が帰って来た。
スキー場はシーズン中は無休で営業しているが、吾郎は正月休みをもらったそうだ。
『もみの木』も年末年始は園子の娘が帰って来て手伝ってくれるとのことで、春鹿のアルバイトもない。
スキースクールも三が日は休みだと晴嵐が言っていた。
まだ明るさの残る夕方の早い時間から、吾郎と春鹿は二人こたつに入って、おせち料理を囲む。
春鹿が作った三段重だ。
白銀村では、おせち料理を十二月三十一日の夜に食べる。年が明けてから食べるものであることを知ったのは東京に出てからだ。
「ほれ、春鹿」
「ありがと」
赤い塗りの屠蘇器の盃を手に取って、まず春鹿から二度飲む形を取ってから三度目に口をつける。
「来年もどうぞ健康で」
「父ちゃんこそ」
「せいちゃんは来ねのが。せっがくいい酒を手に入れのに」
「それ、晴嵐にお礼とか言って、父ちゃんが飲みたいだけじゃん」
「ばれたか」
ぬくぬくとした部屋で陽気に笑う吾郎を見て、春鹿は嬉しくなる。
「呼んでも来ないよ。お寺の提灯立てって言ってた」
「そうが、ご苦労さんなごとだ」
年の瀬も押し迫ったこの寒い中、正月を迎えるために寺に飾る提灯に火を入れる当番だ。
「若い人さ少ねがら、せいちゃん、村の期待も責任も背負わされでな。かわいそうに」
「昨日は消防団の夜警で徹夜で飲み会だって言ってたし、今夜は神社の年籠り、明日は朝から親戚筋で集まってお祝いだし。ホント、よくやるよ。ゆっくりのんびりするのが世間一般のお正月なんだよ」
年籠りとは、大晦日から元旦にかけて氏子が神社に籠り、新年の豊作や安全を夜通し祈る行事。というのは建前で、その実、飲み会である。
昔から正月三が日は殺生してはならないとされ、禁猟日となる。そのせいもあってか、この辺りの三が日はとにかく飲めや歌えや、昼夜関係なくそこここで酒盛りなのだ。
雪に閉ざされ、厳しく寂しい山間で暮らす昔の人達にとっては、それこそが唯一の楽しみだったのかもしれない。
こんなに早い時間から家族の年越しをしているのも、吾郎も夜に神社へ行かなければならないからで、明日はといえば本家筋へ挨拶に行ってそのままエンドレス飲み会へ突入する。
同時に当家の女性たちはひたすら食事と酒の用意をしなければならない。仕出しやケータリングなど頼むはずもなく想像するだけで疲れるが、一旦は他所で暮らしていた春鹿なので、手伝いに出なければならない親戚づきあいもなく、どこ吹く風で暇なものである。
吾郎が屠蘇器から気に入りのコップに入れ替えて、ちびちび舐めるように飲んでいる。自ら手に入れて来た酒は辛口だった。
「今年はおめが帰っで来で、賑やかでよかった」
「でもあんまり役にも立ってないし、出戻りだし、いろいろと親不孝だけどね」
「なんも。こうすて俺ば心配すて帰って来てけだんだ。そんきでありがだぇ。ばって、来年はおめの好ぎにすていんだぞ」
「好きに、って今も十分好きにしてるよ」
「俺ばまだ一人でも大丈夫だ。本当に体の無理がきがなくなっだら、ちゃあんとお前さ頼るがら。俺が東京さ引っ越すのもやぶさがでね。東京で暮らせるなんて大出世じゃねが」
「父ちゃんが東京? 大丈夫かなぁ」
春鹿は苦笑する。
「……率君のごとさ含めでも、心残りがあるなら東京に帰れ。仕事んごどもあるだろ。無理してこごにいるこだねぇ」
「何も無理してないよ」
「ああ、わがっでる。今、こごでの暮らしがそれなりに充実すてらのは見でいでわがる。だはんで、こごさいだってい。ずっといだっていんだ。白銀でも東京でも、どごでもい。おめがの人生だ。おめが幸せになれるどごへ行げ」
「……私が幸せになれるところって、どこなんだろう」
手っ取り早く答えが欲しくて吾郎を見たのに、
「それを探すのが人生だ」
そう言って何のヒントもくれなかった。
*
夜になって、吾郎は出かけて行き、一人になった春鹿はテレビを観て、残りの年を過ごした。
合間にSNSでA子や率、東京にいる友人の投稿をチェックしつつ、吾郎が干した吊るし柿をつまみに赤ワインを飲み、銀の鹿を眺めたりしているうちに除夜の鐘が聞こえてきた。
「こんな寒いのに、お寺さんも大変だな……」
村の人間は誰も鐘などつきに行かないので、寺の住職が一人で百八つ鳴らしている。
こたつから出て、縁側のカーテンを開ける。
二枚ガラスでもなお、結露で曇った窓の外に目を凝らすと、降っているのは、ちらちらと頼りない細かな雪だった。
年が明けると、何件かメッセージが届いて、その中には率からのものもあった。
SNSの投稿を見る限り、自宅にいるようだが、どんな年越しをしているのだろう。
去年のこの時間は近くの神社に初詣に出かけて、参拝するための長蛇の列に並んでいた。その時は寒い寒いと言っていたけれど、今の白銀に比べれば寒いうちに入らない。
新年だというのに春鹿はいつにも増して平常運転で、配信のドラマを観ながらいつの間にかうとうととしていたらしい。
玄関のガラス戸がどんどんと叩かれる音で目を覚ました。
時計を見ると夜中の二時だ。
「ハルー」
表から晴嵐の声がする。
慌てて土間へ下りて玄関のカギを開けると、晴嵐に抱えられた吾郎がいた。
見事に酒臭い。
「神社、朝までじゃなかったの?」
「最近は高齢化で。みんな朝まで持だねんだ」
「だったらもうやめればいいのにー。ごめんね、迷惑かけたね。父ちゃん、起きてよ」
「構わねよ。よっごらせっど」
晴嵐はそのまま吾郎を部屋まで運んでくれる。
どうにか二人がかりで布団に寝かしつけ、居間へ戻って部屋の照明に晒されてみると晴嵐の顔もずいぶん赤い。
だが、言動は酔っ払ってはいない。
春鹿に向き直って、「新年おめでどうございます」と礼をする。
「あ、はい。おめでとうございます」
春鹿も頭を下げる。
「今年もよろすぐ」
「うん、よろしくお願い申し上げます」
上着のポケットに両手を突っ込み、ついたままのテレビや飲み散らかしているこたつテーブルを見て、
「まだ起きてたのか?」
「ドラマ見ながらいつの間にかうとうとしてた」
「いくらストーブ焚いててもこったなとごで寝たら風邪ひぐぞ」
「うん、もう布団入って寝る。晴嵐も連日お疲れ様」
「おう、帰っで寝る。明日も朝がらだしな」
頭をがしがし掻いて言いながら土間に下りる。ぼんやりと暗い板の間が、晴嵐の体重でぎしと鳴る。
「ほんと、大変だね。付き合いばっかりで自分の自由な時間なんて全然ないじゃん」
「ま、自分の時間なんてものさ、別にいらねよ」
「なんで。したいこととかあるでしょ」
「べつに? 普段の生活がなんもねし、暇すぎるがらな。都会で毎日忙しなぐ生きでる人たちどは感覚が違うべ」
「ふーん。ま、あんたが嫌と思ってないんなら別にいいよ」
玄関口で、見送る春鹿を振り返って晴嵐が、
「カウントダウン、一人で寂しくなかったか」
「カウントダウン……」
春鹿は肩をすくめた。
白銀村での年越しに、カウントダウンもあったものではない。雰囲気的にはどうあがいても『ゆく年くる年』だ。
「除夜の鐘をききながら、厳かに新年を迎えましたよ」
「おっちゃん、明日も……っつうがもう今日だげど、朝がら本家の一郎さんとごだべな? またおめ家で一人だべ、正月なのに」
「大丈夫、全然寂しくないから。ほんとに全く寂しくない。むしろ私も一郎さん家に一緒に行けって言われた方が無理」
「だな」
「晴嵐の家も明日は大変でしょ。おばちゃん、寝ないでご飯の用意してんじゃん?」
「ばって、毎年のごどだべ」
明けても暮れても何十人もの食事を、何食分も準備しなければならず、自分が食べることはもちろん座る暇もないはずだ。
村ではどこの家でも女性はそうだ。
「皿洗いくらいならいくらでも手伝うんだけどね、洗い物とかうちまで運んでくれたらの話だけど」
「そんなこと言ったら本気で運ぶぞ」
田舎の家には、この時のための揃いの食器が何十枚とある。食堂がなんなく開けるくらいには揃っている。
つる子の力になりたいのはやまやまだが、覆面の皿洗いならともかく、『五郎さとごの春鹿ちゃん』が手伝いに行くのは顔を指す。純粋にただ手伝いに来ただけですとは行かないのが村社会の難しさだ。
もっとも、そんなボランティア精神で、むざむざ村コミュニティに入りたくもないが。
「うぢの嫁でなぐでよがったな」
「いやほんと無理、こういうの。お正月三が日に、あえてパートのシフトを入れる世の中の女性の気持ちがよくわかる」
もちろん、それで逃げられる場合はまだいい。ここに住んでいてそんな暴挙をしようものなら末代まで言われそうだ。
真っ暗で凍えそうな寒さの中、晴嵐を見送って、春鹿も寝た。
初夢を見る前に目が覚めて、起きたら吾郎は二日酔いもなくけろりとして、雑煮を炊いていた。
新年を祝う前に、土間の神棚に詣り、それから吾郎と家の裏へ出る。
夜中にチラチラ降っていた雪も、ほとんど新しくは積もっていない。
「新年早々、雪かぎは免れだな」
「ほんとだ、縁起いいわ」
そして、山へ向かって二礼二拍手一拝する。
「山神様、どうぞ今年も春鹿さ守っでやっで下さい」
新年にふさわしく初日に照らされ、雪面の霜がきらきらと輝いていた。




