12.白と銀の国(2)
仕事が終わる時間は、常に晴嵐の方が早い。
『もみの木』の仕事を園子やマサより先に上がらせてもらい春鹿がリフトで降りてくるのを、晴嵐はいつもふもとのスキースクールの事務所で待っている。
しかし、その日はレストハウスの方にいるとメッセージが来ていたので春鹿はそちらの建物に向かう。
店の中は、最後の一本を滑り終えたスキー客で賑わっていた。
「ハル、こごだ」
レストランとインフォメーションを繋ぐ廊下の土産物の売店の辺りで、一般客に紛れて晴嵐がベンチに座ってテイクアウトのコーヒーを飲んでいた。
「おつかれー。お待たせ……ってそれ……」
ハイセンスなスリーブ付きの紙コップを持っている。明らかにレストランのコーヒーの持ち帰り用ではない。
そして、挽きたての豆のいい香りが漂っている。
見わたすとキッチンカーに似せたつくりのポップアップショップができていて、見慣れたマオカラーの男性が笑顔を見せた。
「え、コーヒー屋さん!? あの、カフェの!」
「あ、どうも! やっぱり! お兄さん、見たことある方だなぁって思ってたんです」
言われて晴嵐が会釈する。
レジに並んでいた客がさばけるのを待って、春鹿もコーヒーを注文した。
「お姉さん、スキー場の方だったんですねー」
「週末だけバイトしてるんです。それより、こんなところで出張販売ですか? 全然知りませんでした!」
店には何度も訪れているうちに顔は記憶してもらっているようだったが、マスターとはまだ世間話をするような間柄ではない。
春鹿もカフェでは静かに過ごしたかったので、今までは話しかけたりはしなかったが、さすがに今日は話が弾む。
「この季節は、店開けててもお客さんが来ないんで。駐車場の雪かきだけでも大変なんで、もう思い切って冬場は店は閉めることにして、ここで出稼ぎさせてもらってるんですよ」
「確かに。雪が降ると、とにかく外に出ないようにしますよね」
なんでも、毎日コーヒーが飛ぶように売れて嬉しい悲鳴らしい。
三度の飯より某コーヒーチェーン店が好きな今の若者なら、この店構えと雰囲気にイチコロのはずだ。さらに、こんな山奥で出会ってしまったら不必要な購買行動に出るのは当然だ。特に飲みたくなくてもつい買ってしまう。あと、帰り道の車中で飲むためにと、とりあえず買って車に乗る人も多いそうだ。
「私も嬉しい。バイトの日は毎回買いに来ます!」
「ありがとうございます、お待ちしてます」
ベーグルサンドと焼き菓子、ケーキに至るまで、ガラスの冷蔵ケースに僅かに残っていたフード類をほぼ買い占める勢いで求め、暇を告げた。
*
薄暗くなると積もった雪は青白く見える。
白い地面に黒い轍がいく筋も重なる道を、晴嵐の軽トラックがゆっくり走る。
「今日のお客さんさ聞いだ。下のカフェがぁーとが話すの、どこの事だべと思って見に行っでみたら」
「午後の女の子二人組?」
「ああ」
「若い子ってボードじゃないの? 今どき、あえてスキーを選ぶ子なんているんだ。晴嵐目的なんじゃないの?」
「スキーも割といんべ。なんだ、ヤキモチが? おめにも教えでやるべ?」
「違うよ。それに、私、滑れますから」
煙を逃すために細く開けた窓の隙間から、晴嵐は煙草の灰を落とす。
風が入ってきて寒い。
が、リフトに乗っている時の寒さに慣れてしまって、特に文句を言う気にはならなかった。
「スキーのインストラクターで若ぇ男は俺だげだはんで、女性客は割り当でられやすいがもすれね。客寄せパンダ的な」
「晴嵐もまんざらでもないんでしょ? 特別に休憩で飴二個あげたりしてない?」
「撒き餌が飴二個とは悲すい男だべな」
晴嵐が苦笑する。
「ばって、指名があったっきゃ時給アップだす、俺もスクール側もウィンウィンだ」
「指名ってホストか。連絡先聞かれたりしないの?」
ぼりぼりと頭をかきながら、
「まー、するな」
「聞かれたら断るわけ? なんて断るの?」
「レッスン中はスマホの携帯禁止なんでって言っでる。昔は連絡先交換して遊んだりもしたけどな」
ゲレンデでの出会いは男女ともにウインタースポーツの醍醐味の一つでもあるから、軟派だと非難はできない。
実際にそれで出会って、都会から来ていた女性と結婚した人も知っている。
しかし最近は物騒な事件やトラブルも多いことから火に油を注いだり、火のないところに煙を立たせないために客である生徒とプライベートな交流は禁止されているそうだ。こんな山奥のスキー場ですらコンプライアンスコンプライアンスとうるさいらしい。
「でも、ま、所詮ゲレンデ効果ってやつだべ。ゲレンデでなら俺は百倍カッコよぐ見えるらすいからな」
「いや、1.5倍増しなだけだから」
「ばって」
晴嵐は煙草を灰皿で押し消しながら、
「いい歳した男が、シーズンバイトっで知っだら一気に冷めるみてだわ」
「そんな理由でふられるの?」
「さすがにあからさまには言われねけどな」
「晴嵐は、タダで滑れるからって冬だけ山に籠りにくる街の人とは違うじゃん……。本業だってあるし、インストラクターだって難しい資格取って、誰でもなれるわけじゃないのに。趣味とか道楽の遊び半分のリゾートバイトと一緒にされてるなんて、あんた、かわいそう……」
ようやく晴嵐がパワーウインドウのスイッチを操作して、窓の隙間を閉まる。とたんに車内の空気がぴたりと留まった。
「傷に塩ぬるんでねよ。憐れまれると余計惨めさなるだろ」
拗ねたように口をとがらせたが、
「別にいんだ。そっだなこと、どう思われようとどうでも」
と、本当にどうでもよさげに言った。
すぐに「それにしても」と表情を緩め、ケーキ楽しみだな、と穏やかに言った。
*
東京にいた時は、街路樹や街並み、ブランドショップのショーウインドウがそれ一色になるクリスマスの時期も、田舎にいるとその片鱗さえ感じることはできない。
スキー場ではそれなりにイベントを企画しているようだったが、イブも二十五日の本番も今年は平日だったので春鹿はアルバイトもなく、客の入りも大したことはなかったようだ。
それでも一日中、サンタクロースに扮した赤い服と帽子を着て滑らされたという晴嵐は、
「今日に限っで、生徒さんは朝も昼も同じ六十代のおずさんだったし。俺、サムすぎる人でねか?」とげんなりしていた。
カフェ・バーチ(例のコーヒーショップの名前を最近知った)で売っていたとチキンを買って帰ってきてくれた。
テイクアウトの容器を開ける。
「わー、チューリップチキンだ! クリスマスっぽいじゃん!」
ここで暮らしていると、一人きりのクリスマスであっても寂しいとも悲しいとも思わない。家にツリーもないし、それらしい飾りも用意していない。
少しだけ意識したといえば夕飯のメニューをボルシチにしたくらいだが、作ったのはそれだけだ。クリスマスの食卓にはいささかさみしい。ケーキもない。
一人で食べようと思っていたが、晴嵐に「ボルシチ、食べていく?」と聞く。
「ぼるしち? なんだそれ」
「ロシアのスープ」
「へえ、食っでみる」
「後で来る?」
「んだな。とりあえず着替えで、工房さ覗いでから来る」
「了解」
春鹿は冷えきった土間を渡って、冷蔵庫を開けた。
もう少し何か作り足そうと考えて、「……ダメダメ」と再び閉める。
代わりに冷凍庫から前に焼いて冷凍してあったテーブルロールを出して、解凍するだけにする。一人で飲もうと思って選んでいたシャンパンもやめて、飲み物は缶ビールに。
「ここで張り切っちゃうのはよくない」
十二月二十五日の夕飯なだけで、クリスマスディナーじゃないのだから。




