12.白と銀の国
冬の間、吾郎がスキー場で働くことになった。
毎日の通勤を考えると寮住まいの方が都合がいいと言って住み込みを希望したらしい。
リフト乗り場の係員の仕事をするそうで、極寒の屋外で立ち仕事なのだから、冷えたりして傷めた足が痛まないか心配だが、本人曰く賑わうスキー場で感じる寒さなど大したことではないのだそうだ。
七十年も雪山で生きていれば、獲物を追う環境は常にもっと過酷で、リフトなら運休するような悪天候でも、山の獲物は待ってくれない。何度も死を覚悟したと笑って言う。
「週末だけのレストハウスのバイトさんを探しちゃーげど、おめ、やる気あるが?」
その話を持って晴嵐がやって来たのは、寂しさ半分、そして限界集落で一人暮らす不安半分で吾郎を見送った数日後だった。
「行けば、吾郎さの顔も見られるし寂しくねだろ」
「今まで年に何回かしか会わなかったんだから、ひと冬くらい」
「まっだぐ、かわいげのね」
晴嵐は呆れ顔で煙草をふかした。
とは言ったものの、晴嵐もこれからの週末はほぼ毎週インストラクターの仕事が入ると言うし、正直なところ晴嵐がいないと白銀ライフは暇なのだ。
「行き帰りは一緒に車さ乗せで行ってやるべ」と言う。
「おめ、スキー場は行くの好きだったべ」
「……わかった、やる」
*
春鹿の勤務場所は、事務所や各種受付のあるふもとからリフトを二本乗り継いで行く中腹のレストハウス『もみの木ヒュッテ』だ。
春鹿は従業員なのでスキー板を履かずにリフトに乗る。
昔から何度も遊びに来ている近くのスキー場は、キラキラした銀世界に流行の音楽が大きな音でこだまして人がたくさんいる。そこだけ『街』みたい思えて、雪も地元も嫌いだった春鹿が唯一好きな場所だった。
それは何十年経った今でも変わらない感覚のようで、スキー場に来るとテンションは自然と上がった。
もみの木ヒュッテは、メニューも内装も野暮ったくて田舎くさかったが、それでもなんとはなしに心を弾ませ、春鹿は仕事に臨んでいた。
私服にエプロンと三角巾をして、カウンター内で食券を受け取り、厨房にオーダーして、できたら呼び出しをする。仕事自体は簡単だ。
厨房は地元(といっても白銀でなく広域でとらえた場合の)のおじいさんとおばさんだけののんびりした雰囲気で、春鹿のことも歓迎してくれた。
昨シーズン働いていたアルバイトの女性は今年は出産で来られなくなったそうだ。
『もみの木』以外にもスキー場にはいくつかのレストハウスはあって、ふもとの一番大きなレストランは従業員もたくさんいるがピーク時には目の回る忙しさらしい。
『もみの木』は中級者コースと上級者コースの境界にあるので利用客が限定されるためかランチタイムでもせいぜい混雑する程度だった。
午前中の日差しは明るくて、なだらかになった『もみの木』前のゲレンデは太陽の反射でまぶしいくらいだ。
春鹿は、ひゅんひゅんとスキーヤーやボーダーが前を通り過ぎて行くのを、店の中から見ている。
たまに立ち止まって板を外す姿を認めれば、客を迎える準備をする。
厨房がランチ前の仕込みに忙しい時間、『もみの木』の前に黄色のウエアのスキーヤーが止まった。
黄色と黒のバイカラーは、インストラクターの揃いのウエアだ。
ゴーグルとヘルメットを着けているせいで顔かたちが隠れてみんな一緒に見えるが、春鹿はもう晴嵐のゴーグルの色を覚えてしまっていた。
晴嵐だとすぐわかる。
晴嵐が『もみの木』に入って来て、春鹿を見て、軽く手を挙げた。
後ろに小学生くらいの男の子を連れている。スキーブーツを履いているので歩き方が変だ。寒さに頬を赤くして、晴嵐の後をついている。
今日の午前はマンツーマンレッスンのようだ。
晴嵐はレストランの真ん中、ストーブに近い場所を取り、男の子のヘルメットやグローブを外すのを手伝ってあげてから、二人は向かい合ってテーブルに座った。
午前と午後、各レッスンの時間内に必ず一回、レストハウスで休憩を取ることが決まっているらしい。
店へ入っても有料の飲食はできないが、インストラクターがそこで飴を一つ生徒に配るのだ。
晴嵐はウエアの開けにくそうなポケットから、いくつかの飴を出してテーブルに広げている。
いろいろ味の種類があるのか、男の子はどれにしようか悩んでいるようだ。
晴嵐は無邪気な顔で笑って、男の子も楽しそうだ。
十分ほど休憩してから、男の子がヘルメットとゴーグルをつけるのを手伝ってあげ、また変な歩き方をして二人は出て行った。
今日はスキー日和だ。
晴嵐は偉い。
白銀に戻ってきて、そう思うのは何度目だろう。
午後、陽が傾いてくるとゲレンデは急に空き始める。
昼時には満席だった『もみの木』も今は、滑るより休憩メインの長時間滞在組がちらほらいるだけで、大きなストーブの燃えるだけがごうごうという勢いの音がよく響く。
「晴嵐ぐん、さっきも来ぢゃーね。午後は若い女の子二人組であったよ」
終い支度を始めていた厨房の園子がからかうように言った。いかにも田舎のおばさんといったパーマヘアの園子は六十代らしく、ここで二十年近く働いているらしい。
「人気の先生だはんで。ハルちゃん、心配だね?」
春鹿はトレーを拭きながら、
「そうでもないですよ。若い女子が生徒さんでラッキーじゃんって思って見てましたけど」
「ハルちゃんは素直でねなぁ。ばって、晴嵐くんはウヂですか休憩取ってねんでねか?」
「いや、来ない時もありますよ。ほら、初心者レッスンでまだリフトに乗れないレベルのお客さんだったら、自動的に休憩も下のレストハウスしか行けないし」
「晴嵐ぐんが初心者にあだるごど滅多にねだびょん?」
「いや、指名があったら担当するみたいですよ」
「いやいや、それにすても、もみの木に来過ぎでねー? なぁ?」
「ほんに、まめな男だべ」
もう一人の厨房の従業員、おじいさんのマサが頷く。
「愛だべな」
「いや、だから、私たちただの幼馴染なんですってば。私が出戻りだからいろいろと心配してくれてるだけで」
「幼馴染がちょうど独り身であったんならあんだにとっで渡りに船!」
ブザーが鳴って、食洗器からあがった食器を食洗器から取り出す。
もあっとした湿気の臭いに顔を歪めながら、
「いや、そんな都合よく収まるでもなくて……」
園子は恋バナを楽しそうに振ってくる。
「いやいや夫婦なんてづまるどごろ、時機ど年齢がちょうどえがった者同士を宛がった男女なだけだべ。好ぎどが嫌いどが、そったのは後がらでいのよ」
「わらの時代は年齢だげで相手さ決まってあったべ」
マサの言う「わらの時代」とは半世紀前くらい前の話だが。
「単純明快で、ある意味ラクですよね……」
「憎がらず思ってらんなら十分だ。吾郎さも喜ぶびょん」
「そうそう、難すく考えなさんな。なるようになる。ケセラセラ。時の流れに身をまかせ」
最後はメロディに乗せながら言う。
「それに、地元さ残ってけでる子が結婚すねでいるのは、わらも寂しいしね。幸せになっでほしいのよ」
園子はごみ袋の口を縛りながら、しみじみと春鹿を見た。




